白兎神、大いなる陰謀に巻き込まれ日の本を救いし物語 2白兎神、鹿島の謎に挑まんとし謎の敵に遭遇せし話
オオモノヌシノカミ(大物主神)が、嫌そうな表情をなさいました。
「あのさあ、オオクニヌシノミコト(大国主命)は天孫に国を譲って引退したんだよ。今は政治上は人間の将軍が治めているけれど、国土そのものをゆるがすような事柄が起きれば神々の出番だ。実質上のこの国の支配者は、高天原の神々とその子孫である帝だよね。どうして、そっちへ行かないの? こっちはおとなしく国を譲ったんだから、高天原側も責任を持って処理してほしいんだけど」
むっとしておいでなのは、密かに国譲りの恨みをいまだにお持ちなのでしょう。
さすがは祟り神。
執念深うございます。
鳥は苦笑しています。
「あなたの言い分はごもっとも。あたしだって、同じことを言ったわ。そしたらね、高天原の遣いが『今回の事態は天孫降臨以来初めてのこと。全く見当もつかない。それゆえ、天孫がお出でになる以前からこの国に住まわれているオオクニヌシノミコトのお知恵を拝借したい』ですって」
「ふん、都合のいいことだね」
鼻であしらわれたものの、事がことだけにお気持ちを切り替えられたのか、真面目なお顔で鳥を促されました。
「で、出雲大社へ行ったんだね? オオクニヌシノミコトは何て言ってた?」
「あたしの話を聞いて、ひどく驚いていたわよ。当然だけど。で、『何か心当たりはあるの?』って訊いたら、『わからないね〜』って、のんびり答えたわ」
そのご様子が目の前に浮かぶようです。
あのお方のことですから、悠然としておられたんでしょうね。
今度はオオモノヌシノカミが苦笑されました。
「オオクニヌシノミコトらしいね。そこで僕のところへ『日の本に水面下で異変が生じていないか調べて欲しい』、タケミナカタノカミ(建御名方神)のところへ『すぐに鹿島へ行って調査してくるように』っていう伝言を届けに、君がわざわざ来たんだね」
「さすがに察しがいいわね。その通りよ。オオクニヌシノミコトも過去の例を調べてみるらしいわ」
鳥は、完全に置いてきぼりのわたくしの方を見ました。
「でもねえ、まさかシロナガミミノミコトが巻き込まれているなんて、思ってもいなかったわよ」
はい、わたくしも軽い気持ちで出てきた出張縁結びが、こんな途方もない事件に関わっているなど想像もしておりませなんだ。
オオモノヌシノカミは、それまで忘れられていたウサギ神を思い出されたご様子です。
「全くわからない。この状況から見て、シロナガミミノミコトを呼びたいのは、今回の騒動に関係があると見ていいだろうね。偶然などではありえない。でも、どうして〝軸〟をずらすような大事と、因幡のウサギ神が関係あるんだろう?」
わたくしにもわかりません。
もう、ものすごいお話の連続で、おつむの中が停止しております。
しばらく三者三様に無言でしたが、ややあってオオモノヌシノカミが静かにおっしゃいました。
「僕はすぐに国土の様子を調べよう。鳥は諏訪大社へ行って、タケミナカタノカミを鹿島へ送り出してくれ」
鳥はじっとわたくしを見ておりましたが、ゆっくりとオオモノヌシノカミへ視線を移しました。
「シロナガミミノミコトはどうするの?」
「こんなに不可解な事態に巻き込まれているんだ。ここにいてもらうさ」
さらりとお答えになる大神様に、鳥は考え深げに提案しました。
「あたしねえ、シロナガミミノミコトにも一緒に鹿島へ行ってもらいたいわ」
わたくしは、目をまん丸にして鳥を見つめました。
「何のためにですか?」
「わからないからよ。〝軸〟はズレる、根の国も高天原も大騒動。根源の鹿島神宮は音信不通。そして日の本は不気味なことに何も起きていない……まさに前代未聞だわ。そんな一大事に、なぜか因幡のウサギ神が関わっている。あたしねえ、あなたがこの事件の鍵を握っているような気がするのよ。あなたが動くことで、何か糸口というか突破口が開けるように感じるの」
「ダメだ、危険すぎる!」
鋭くオオモノヌシノカミが、反対されました。
「何もかもが謎に包まれているんだ。何が原因なのか、誰が絡んでいるのか、何を目論んでいるのか、五里霧中なんだぞ。そんなところに武神でもない、縁結びと皮膚病とフサフサに御利益を与えているだけのウサギ神が行ったら、どんなことになるか……」
「だから無理強いはできないわ」
その時には、わたくしの心は決まっていました。
「わかりました。一緒に行きましょう」
「冗談だろう? どれだけ危ないことになるのか、わかっているの? 帰り道は因幡じゃなくて、根の国へ通じているかもしれないんだよ」
わたくしは、心から案じてくださる蛇神様ににっこりしました。
「はい。正直に申しますと、たいへん恐ろしゅうございます。でも、このような大きな問題、早く解決せねばたいへんなことになりましょう。わたくしのようなちっちゃなウサギ神にもできることがあるならば、お役に立ちとう存じます」
「よく言ったわ! それでこそ、あたしが見込んだウサギ神よ!」
鳥が歓声を上げましたが、褒められて、ちょっとお尻の辺りがモゾモゾいたします。
だって、本当はとても恐いんですから。
それでも、わたくしもこの国の古くからの神としての自負がございます。
「あまりにもとてつもないお話で、わたくしなんぞが関わる余地などないと思っていましたが、鹿島へ行くことで解決のお手伝いができるならば喜んで参ります。最悪の事態となりましても、根の国でスサノオノミコト(素戔嗚尊)と再会するだけですから……」
口にして、ほっとしてしまいました。
そうです、万一命を落とすことがあっても、行くのは根の国。
あの大神様がおいでなのです。
ちっとも恐くはない……ことはないですが、それでもやはり安心です。
鳥が強い眼差しを、唇を引き結んで硬い表情になられたオオモノヌシノカミに向けました。
「あなただって、シロナガミミノミコトが鹿島へ行くことが、一番手っ取り早く真相解明に繋がるってわかっているはずよ。大丈夫、あたしが一緒よ。それに、まず諏訪大社へ行ってタケミナカタノカミを連れて行くのよ。必ず無事に因幡へ返すから……」
オオモノヌシノカミが目を閉じられました。
じっと考え込んでおいでです。
ややあって目を開けられ、わたくしに優しくおっしゃいました。
「僕があげた本、持っているよね? 出して」
急いで傍らに置いておいたお弁当袋から、〝一日一訓 御教訓集〟を出して筆者にお渡しいたしました。
オオモノヌシノカミは受け取られて、真ん中辺りを開かれます。
それと同時に全身から金色をまとうどす黒い禍々しい〝気〟が立ち上りました。
恐怖に震えてわたくしは目をそらせましたが、視線の先では鳥が平然と見守っております。
さすがはイザナミノミコト(伊耶那美命)の領巾の化身でございます。
すごい度胸。
やがて大神様の〝気〟がおさまりまして、いつもどおりのご様子に戻られました。
「よくお聞き、シロナガミミノミコト。昔、君にこの本をあげたときは、ちょっとした呪詛返しの効果しかなかったんだ。何しろ、少しばかり僕の力を入れただけだからね」
外つ国から渡ってきた強力な鬼を簡単に石にして、援軍にやってきた鬼どもさえも恐れていたオオモノヌシノカミの呪詛返しを思い出しました。
〝あの効果〟が「ちょっとした呪詛返し」ですか。
……怖いです。
「でも、今は君が持ち運べる最大限の力を入れておいた。いいかい、以前は通常は諺の本として読めて、非常時には防御として呪詛返しの力を発揮したが、今度はそんな生やさしいものじゃない。本を開くと同時に敵に積極的に攻撃を仕掛けることになる。相手の持つ〝気〟そのものを吸い取り、それをそっくり相手にぶつけて消滅させる。相手が強ければ強いほど、効果は絶大だ。だが危険性もある。この本が〝敵〟と認識するのは、その場にいる最も強い者とそれに味方する者達だ。だから、もしも相手が君や君の仲間よりも弱ければ、本は君達を敵だとみなすだろう。だから君の側に仲間がいる場合は気をつけて。必ず仕留めたい敵が君や仲間よりも強い場合だけ、この本を開くようにね」
「は、はい」
震える手で、差し出してくださった本を受け取りました。
一見、何も変わっておりませんし、重さも同じでございます。
それでもオオモノヌシノカミの真剣な眼差しが、この本の危険性を明確に語っております。
鳥がほうと息をつきました。
「場合によっては持ち主だろうが攻撃するって、さすがは祟り神の力だわ。呪いをかけても、相手の方が強ければ自分に跳ね返ってくるものだけれど、その反対ってことね」
「そういうこと。だから、シロナガミミノミコトがあわてて本を開かないように、君もちゃんと見ていてよ」
少しきつい口調で鳥に念を押される大神様に、鳥は明るく答えました。
「あたしがついていれば大丈夫。なんせ、火山一個分くらいの火も、山一つ分の虫も蛇も、川一本分の水も、平気で祓えるのよ、あたしの力。何があろうと、ちゃーんとシロナガミミノミコトを守り導いてあげるわよ」
「水? わたくしの記憶違いでしょうか? あなたは水が苦手だったと思っていましたが……」
鳥は胸を張りました。
「あたしだって、ただ他人を鍛えていただけじゃなくて、あたし自身も鍛えたわよ。だから元々の力も強化したし、苦手な水も克服したってわけ」
す、すごいです……昔の鉢巻きさんからは、考えられません。
オオモノヌシノカミは左肘を腿の上にのせ掌に顎をつけて、悪戯っぽくおっしゃいました。
「でも、僕は祓えないよね」
鳥は、本性が大蛇の神を見て笑いました。
「そうね、さすがにあなたは無理だわ。でも、万一あなたがあたしの敵になるなら、すぐにイザナミノミコトを呼ぶから大丈夫よ」
「勘弁してよね」
真顔になられ、オオモノヌシノカミはぶるりと体を震わせられました。
はい、演技ではなく本心です。
何度も出雲大社でお会いするうちに、スサノオノミコトの背後に、もっと恐ろしい超大神様がおいでのことに気づかれたのですから……。
そしてこの鳥は、そのお方の領巾ですし。
「さてと、そうと決まれば諏訪へ行きましょう」
鳥が促します。
わたくしは、またお弁当袋に本を入れて背に斜めがけにしました。
三輪山の麓にある鳥居の所まで、オオモノヌシノカミが送ってくださいました。
「とにかく無事に帰ってきてよね。君がいないと、女の子を口説く新しい方法が駄目になっちゃうんだから」
口調は軽いものの、眼差しは真剣です。
「はい。きっと帰ってまいります」
お優しい祟り神に深々と一礼して頭を上げると同時に、頭の上に鳥が来てふわりと巻き付きました。
「あら、ひょっとして鉢巻きに戻ったんですか?」
「ええ、そうよ。何があるかわからないから、こうやってくっついている方がいいでしょ」
「確かにその方が、離ればなれになる心配がないね」
わたくしよりも先に、オオモノヌシノカミがおっしゃいました。
鉢巻きが、ふんと鼻を鳴らすような音を立てます。
「あたしのすることにそつはないわよ。だからシロナガミミノミコトのことは心配しないで、何が起きているのかそっちでも調べてよね。女の子を口説く暇なんかないんだから」
ここまではっきりと三輪の大神様に言えるなんて、さすがは鉢巻きさんです。
「じゃ、ここから〝神の道〟へ入って、諏訪大社へ行って、あの出不精を連れて行きましょう」
諏訪の大神様にまでそう言えるのも、さすがはあなたですよ。
もう一度オオモノヌシノカミにお辞儀をして、その場からすっと〝神の道〟へ入りました。
こうして昔のように鉢巻きと梨割剣と御教訓集を携え、旅に出たのです。
〝神の道〟は、いつもどおり平穏でした。
因幡から奈良まで来るときも〝神の道〟を通りましたが、思い返しても何ら異変はありませなんだ。
本当に根の国や高天原で大事件が起きているのでしょうか?
疑ってしまうほど、のどかでございます。
「いつも通りね」
ぽつんと頭の上で鉢巻きがつぶやきます。
「はい。特に何も起きていないようですよ……今のところは……」
わたくしは歩きながら、辺りを見回しました。
昔はあちこちに蛇やらムカデやらいろいろな危険生物が待ち構える穴がありましたが、仏教伝来と共に護法神の方々が埋めてくださったおかげで、こうして安全に歩けます。
暢気にトコトコと歩いていましたが、頭の上が少し重く感じます。
「なーんか、おかしいわね」
「そうですか? 何も変わらず、いつも通りに見えますが……」
「何だろう、妙な胸騒ぎがするのよ。ああ、そのまま歩いて。早く諏訪へ行ってタケミナカタノカミと合流しましょ」
そっと首飾りと手玉を見ました。
相変わらず濁っています。
しかし、やはり不安は少しも感じません。
急いで歩いているうちに、わたくしの長い耳が微かな物音を拾いました。
「何か聞こえませんか? とても小さい音ですが」
鉢巻きが、少し緊張した声で答えます。
「あたしには聞こえないわね。うさぎのあなたの方が耳はいいはずよ。どんな音?」
「うーん、わりと高い音ですね。聞いたことがあるような音なんですが、遠すぎてよくわかりません」
鉢巻きは少しの間考えているようでしたが、やがて口を開きました。
「どっちから聞こえてくるの?」
その時、不安な気持ちに襲われました。
そうです、どっちからと訊かれて初めて気がついたのです。
「あちこちから……そして、だんだん不安になってきたんですが……」
鉢巻きが叫びました。
「走って! 勾玉がはっきりと危険を察知したのよ。何か危害を加えるものが近づいているんだわ。諏訪大社へ急ぐのよ!」
わたくしは全速力で走りました。
二足歩行とはいえ、ウサギですから速いです。
しかし、音の方がさらに速度を上げて近づいてきます。
そしてそれが何なのか、はっきりとわかってきました。
「鉢巻きさん、これって……」
「ええ、あたしにもわかったわ。大丈夫、こいつらなら始末できるわ」
頭の上から落ち着いた返事がしたので、ほっといたしました。
そうです、これなら鉢巻きさんの得意分野です。
辺りが暗くなってきました。
音がどんどん近づいてきます。
鉢巻きが舌打ちしています。
「いったいどんだけ集まってんのよ。日の本中のをかき集めてきたのかしら?」
ぶんぶんという羽音が、もうわたくしの長い耳の中で反響するほどうるさく聞こえています。
「どうしてこんなに蜂が集まったんでしょうか?」
大丈夫とは思うものの、まさに雲霞のごとく押し寄せてくる羽虫の大群に仰天してしまいましたとも。
鉢巻きが、冷静に説明してくれました。
「蜂じゃないわ。虻よ。自然に襲ってきたとは思えないわね。おそらく今回の事件に関係している奴が、けしかけてきたんでしょうよ。でも大丈夫、さすがにこの数では瞬殺できないけれど、あなたの周囲に近づけないようにして諏訪まで行けるわ。このまま走って!」
「あの〜、あなたをはずして、三度振るんですか?」
昔を思いだして確かめると、ふわりと頭から離れて元の鳥になりました。
「その必要はないわ。あなたは走りなさい」
その時には、四方八方から虻の固まりが押し寄せていました。
あまりの数で、辺りが真っ暗になるほどです。
なるほど、いくら鉢巻きといえども一掃は無理でしょう。
鳥はわたくしと同じ速さで飛びながら時折大きく羽を震わせ、同時に周囲を取り巻く虻の壁があっという間に消えます。
でも、すぐさま前後左右に虻の壁ができてしまいます。
それをすかさず鳥が消滅させ、また壁ができ……そんなことを繰り返しつつ走ってゆくうちに〝神の道〟の終わりが見えてきました。
「鉢巻きさん、もうすぐ諏訪大社です。諏訪湖が見えますよ」
「あと少しね。がんばるのよ、シロナガミミノミコト」
鳥は、少しも疲れた様子がありません。
昔を思うと、感無量でございます。
ほっとしつつ、出口を目指して走っておりました。
その時、足が宙を踏みました。
「あら?」
そのまま、なぜかストーンと身体が落ちました。
「ええ〜! どうして〜?」
疑問形で叫びながら、わたくしは底知れぬ暗闇へと吸い込まれるようにひたすら落下してゆきます。
上から鳥の悲鳴が聞こえました。
「シロナガミミノミコト!」
頭の上で開いていた空間がバスンと閉まりました。
「鉢巻きさ〜ん!」
叫んでみても、わたくしの声は周囲の闇に吸い込まれるだけです。
いつまでもいつまでも落ち続け……そして気が遠くなっていったのでした。
目を開けると、地面の上にうつぶせに寝ておりました。
まるでウサギではなく、蛙のような格好でございました。
どうして自分とは異なる生き物のまねをしているのでしょう?
頭の中にモヤがかかったようで理解できませんでしたが、だんだん記憶が繋がってきて、はっとして起き上がりました。
「そうだ、諏訪を目前にして穴に落ちて……ここはいったい? それに鉢巻きさんは?」
頑丈な鉄格子が見えました。
近づいて掴み揺すぶってみても、びくともしません。
そして出入り口の所には頑丈なかんぬきがぶらさがっております。
周囲は岩肌に囲まれていて、洞窟の中に作った牢のようでした。
もし人間の手によるものなら、わたくしとて神の端くれ、やすやすと抜け出せます。
そうはできないのは、コレを作ったのが人ならざる者だからです。
「あれ? どうして身体が痛くないんだろう?」
気がついて、驚きました。
延々と暗い中を落ちてきたのです。
地面に着いたときは、かなり強く身体を打ち付けたはずなのに、全く痛みはなく傷すらついていないのです。
そして、腰に差していた梨割剣も背負っていた御教訓集もなくなっておりました。
明らかに誰かが持ち去り、わたくしをこの牢の中へ入れたのです。
「……どうしよう?」
その時、こちらへやってくる気配がします。
この牢がある洞窟の壁面に大きな穴が一つあり、そこがどうやら入り口らしいと気がつきました。
わたくしは毅然としてやってきた者と対峙し……と言いたいところですが、恐ろしいのでさっきと同じく蛙のまねをいたしました。
足音から察するに、どうやら二人連れが来たようです。
「まだ寝てんのか、このウサ公?」
少し高い男の声が、穴の方からあざけるように響きます。
初めて聞く声ですが、人間でないことは明白でした。
「ま、いいやな。おとなしくしていてもらおう。暴れたところで、俺らにはかなわんがな」
連れらしい男が鉄格子のすぐ近くまで近づいてきました。
緊張して蛙のまねを続けていたところ、カチャカチャという音がします。
さっきの男の声がしました。
「何やってんだ?」
「かんぬきを調べているのさ。万一、逃げられたら困るからな」
その声を聞いて、すぐにわかりました。
間違いありません。
白兎神社へやってきた男です。
最初の男が、笑い声をたてました。
「開けられるかよ。心配性だな、おまえ」
「相手はウサギとはいえ国津神だぞ。油断はできん」
かんぬきを調べて満足したのか、遣いに来た男の足音が遠ざかります。
(この男、悪者だったのでしょうか?)
死んだふりを続けたまま悲しくなってきたわたくしの耳に、遣いに来た男の声がします。
「このウサギが持っていた剣と荷物は、どうした?」
「ああ、この手前の洞窟に置いてある。ま、こんなウサ公が持っているものだ。つまらねえ物だろうが、一応離しておいた方がいいと思ってな」
(よかった、この連中は梨割剣の力にも、御教訓集の効果にも気づいていない。そして、すぐ近くにある。この牢を出られさえすれば手にできます)
とはいえ、どうやってここを出ればよいのでしょう?
そして、ここ、どこ?
ほっとするやら困惑するやらしているわたくしの耳に、また遣いに来た男の声がしました。
「うまくいったな。あの神気が強い鳥が厄介だったが、虻をけしかけて引き離し、諏訪への入り口近くに空間をずらして罠を作ってウサギを落とす作戦、こうもうまくいくとはな。この洞窟はここと次の洞窟を抜ければ、すぐに〝神の道〟へ出る。諏訪とは目と鼻の先だ。諏訪大社へ逃げ込まれれば手が出せないから気をつけねば」
もう一人の男の怪訝な声がしました。
「何でまた、懇切丁寧に解説しているんだ?」
「手順を確かめたかったからさ。迎えが来るまで慎重にしておかんとまずいだろう」
「そういうことか」
必死にピクピクしそうな耳を動かさないようにして聞いているうちに、また遣いに来た男の声がしました。
「おまえ、道の先へ行って鹿島からの迎えを待っていてくれ。私は奈良の方を見ている」
「そこまでしなくてもいいだろう? ここでのんびりしようや」
知らない男の言葉に、遣いに来た男が厳しい口調になりました。
「油断するな。タケミナカタノカミが、すぐ近くにいるんだぞ。あいつが出てきたら厄介だ。早く迎えと合流しないと……。オオモノヌシノカミの方も警戒しなきゃならんだろう。万一気づかれて奈良から出てこられたら、我々で太刀打ちできるのか?」
「そうだな」
もう一人の男はあわてて同意し、二人の足音が遠ざかり、全く気配が消えました。
そっと目を開けて注意深く男達がいないことを確かめてから、そろそろと起き上がり鉄格子に近づきました。
「はあ〜、この牢から出られれば、すぐそこに梨割剣と御教訓集があるのに……あの二つさえ手にすれば、あんな連中、簡単にやっつけられるんだけど……」
恨めしく思いつつ、かんぬきのかかった出入り口をつついてみました。
すると、ギーという鈍い音と共に少し開きました。
あわてて次の洞窟につながる穴の方を見ましたが、二人は来ません。
どうやら話し合ったとおり、外へ出たようです。
慎重に出入り口を押しました。
なんとまあ、かんぬきをぶらさげたまま開いてしまったのです。
遣いに来た男がかんぬきをいじっていたのを思い出しました。
まさか、あの男が?
「考えるのは後です。まず逃げないと!」
頭を切り換え、牢を出て穴に近づいてのぞいてみました。
男達が言ったとおり、牢のあった洞窟よりも少し狭い洞窟です。
地面に無造作に梨割剣と御教訓集を入れたお弁当袋が投げ出してあります。
ためらうことなく自分の持物を身につけ、洞窟の入り口へ向かいました。
そっと顔を出し妙な違和感を感じた後、懐かしい〝神の道〟の空気を感じます。
左右を見回しましたが、誰もおりません。
ただ、いつもどおりの道があるだけです。
そして、一方に諏訪湖が見えました。
洞窟を出て、さっきの違和感を全身で感じながらするりと〝神の道〟へ入り込みました。
おそらくこの違和感が〝空間のズレ〟というものなのでしょう。
わたくしはすぐさま諏訪を目指し、全速力で走り出したのでした。
洞窟を出て諏訪へ向かって走りだしたとたん、後ろでさっきの知らない男の声がしました。
「ウサギが逃げたぞ!」
走りながら振り向き、青黒い顔でずんぐりとした体格の男が追いかけてきたのに気づきました。
見た目は人間ですが、全身の肌の色は明らかに人ではありません。
前を向くと、諏訪湖が見えました。
「しめた、出口だ!」
嬉しさのあまりさらに足を速めたものの、突然わたくしの長い耳二本ともにすさまじい痛みが走りました。
「びゃあ〜」
変な声が出てしまいました。
そして、足が宙に浮いたのです。
「いだだだだだ〜」
耳を掴まれ持ち上げられたわたくしは、痛さのあまり叫びながら手足をじたばたさせました。
「何やってるんだ! ウサギが逃げるところだったぞ」
全く知らない低い男の声がします。
涙目になりつつも必死に目を向けると、どこから現れたのか、やはり青黒い男の顔が見えました。
わたくしの耳を掴んで、互いの目が合う高さまで持ち上げているのです。
両耳を掴む力は強く、耳がちぎれそうなほどの痛さ。
そのうえ持ち上げられているのですから、もうもう悲鳴をあげる以外に何もできませなんだ。
梨割剣で腕を切り落としてやろうとか、背中の御教訓集でやっつけようとか、そういう考えが浮かぶ余裕すらなく、ひたすら激痛で手足をばたつかせておりました。
あの痛み、昔、ワニザメに毛をむしられた時といい勝負でございました。
「捕まえたのか?」
姿は見えませんが、背後から遣いに来た男の声がします。
「ああ。おまえがさっき確認したのに、このウサ公、どうやったのか鍵を開けて逃げ出した。こいつが来てくれたから間に合ったが、さもなくば諏訪大社へ駆け込まれるところだった」
やはり背後でもう一人の男が、憎々しげに言っております。
「それじゃこのウサギをお頭のところへ連れて行くぞ」
わたくしを掴んでいる男が促したので、もう一人の男が答えました。
「うむ、急ごう。タケミカヅチノカミ(武甕槌神)もこのウサ公が来るのを待っている。お頭よりも先にウサ公とあいつが会っていたら、こっちの計画がだいなしになるところだった。さ、鹿島へ戻ろう」
痛くてたまらず暴れているわたくしを掴んでいる男と、牢に入れた二人が歩き出しました。
絶望的な思いと耳の激痛で泣き叫んでいるわたくしの耳から手が離れ、すとんと身体が地面に落ちました。
何とか顔を上げたところ、わたくしを掴んでいた大男が腕を押さえているのが見えました。
地面にはいつくばったままのわたくしの傍に、ふわりと何かが下りてきます。
「大丈夫、シロナガミミノミコト?」
「鉢巻きさん?」
心配そうな鳥に気づき、わたくしの目には不覚にもぶわっと涙があふれてきました。
大男の前には憤怒の相になったタケミナカタノカミがおいでです。
「無事でよかったわ。あいつを連れて来たから、もう心配ないわよ」
(諏訪の大神様を「あいつ」呼ばわりできるのはさすがですよ、鉢巻きさん)
ほっとしつつもそんなことを考えてしまいました。
タケミナカタノカミが大音声で男たちに問われました。
「俺の社の近くでふざけたまねをしやがって! 鹿島の件も合わせて詳しく聞かせてもらおうか」
タケミナカタノカミがつかみかかりましたが、青黒い大男は溶けるように地面へと吸い込まれてゆきます。
「待て!」
タケミナカタノカミの手が触れるより早く、大男の姿は完全に地面へと消えてしまいました。
わたくしは、はっとして辺りを見回しました。
「あの二人は?」
「ああ、近くにいた下っ端達? すぐに地面に消えたわ」
「あの一人が、わたくしの社へ手紙を持って来た遣いなんです」
「チッ」
鳥が舌打ちしています。
そこへ、懐かしい男神が近づいていらっしゃいました。
「間に合ってよかった。鳥が呼びに来て、ずっと探していたんだ。全く気配がなくて途方に暮れていたぞ。いきなりおまえの神気が現れたので、すぐに来たんだが……怪我はないか?」
「耳が……痛いです……」
情けない声でお答えすると、鳥が悲鳴を上げました。
「きゃ〜、耳が変色しているわ〜。どんだけ強く握ったのよ、あの男! ちょっと、ぼさっとしてないで早くシロナガミミノミコトを諏訪大社へ連れて行って手当してちょうだい!」
「あ、ああ」
あわてて諏訪の大神様は、わたくしを抱きかかえて諏訪湖へと出られました。
鳥も心配そうに、すぐ傍を飛んでおります。
「すぐに手当てする。もう大丈夫だからな」
優しくおっしゃるタケミナカタノカミの声に、わたくしは嬉しさと安堵でまた涙がこぼれたのでした。
諏訪大社は、昔、訪れたときは質素なお社でしたが、今はとても広く立派になっていました。
気持ちのよい大きなお部屋へ連れて来られたわたくしは、敷いてあった布団の上に寝かせられました。
すぐに貝殻に入った塗り薬を、太い頑丈な指で丁寧に痛む耳に塗ってくださいます。
「うぐ〜」
うめきますと、タケミナカタノカミがなだめるようにおっしゃいました。
「しみるだろうが、ちょっとの間、辛抱しろ。この薬が一番効くからな」
わたくしは皮膚病に御利益を与える神ですが、これはもう皮膚の段階ではなく、奥深くまで痛めつけられまして外科的な医療の神の分野。
皮膚の表面はヒリヒリ、中身はズキズキ、耳が頭からはずれて落ちそうなほどの痛みでございます。
お会いしたことはございませんが、薬師如来の守備範囲ではございますまいか?
「ごめんなさいね、あたしがついていながら、あんな罠にひっかかるなんて……すぐに諏訪大社に呼びに行って探し回って……生きた心地がしなかったわよ」
昔ならズモーンと落ち込んだのでしょうが、鳥はすまなそうであっても落ち込みはしておりませんでした。
ほっとしました。
ここで昔と同じように落ち込まれたら、わたくしの方も一緒に落ち込み、再起不能になりそうですもの。
「あれは鉢巻きさんにも読めなくて当然ですよ。やつら、周到に計画していたんですから」
「探しても探しても全く気配がなかったのに、突然おまえの神気が現れた。いったい、何があった?」
薬を塗り終えて貝殻を閉じつつ、諏訪の大神様がお尋ねになります。
だんだん痛みがやわらいできましたので、起き上がろうとしました。
すると、がっしりした大きな手に優しく押し戻されました。
「話は寝たままでもできる。本来なら痛みがおさまるまで眠らせておいてやりたいところだが、一刻を争う事態になっているようだ。ここへ来るまでの事情は鳥から聞いたが、おまえは穴に落ちてからどうなったんだ?」
お言葉に甘えて寝たまま、鳥と大神様に地面の下に落ちてからのことをすべてお話しいたしました。
語り終えると、タケミナカタノカミはかたわらに置いてあった水差しから土器に水を入れて飲ませてくださいました。
鳥が首を傾げております。
「普通の穴ではなく空間を歪めたものだったから、落ちても怪我はなかったんだわ。それにしても、その遣いに来た男、仲間と一緒にあなたを捕らえて牢に入れてから、その後であなたを逃がしたってこと?」
わたくしは黙ってうなずきました。
諏訪の大神様が腕組みをして、唸られました。
「どうもその男、最初からおまえを鹿島へ行かせたくなかったようだ。それでもおおっぴらに逆らえない立場なんだろう。だがどうしてそいつだけ、おまえを助けようとしているんだ?」
わたくしにもさっぱりわかりません。
鳥もさらに首をひねっています。
「それにね、さっきの下っ端二人の〝気〟から考えても、あたしが手こずるほどの虻の大群を操れるとは思えないわ。もっと力のある奴がいて罠を仕掛け、シロナガミミノミコトを牢に入れて、先に鹿島へ戻ったのかしら?」
「あるいは、その〝カシラ〟という奴が、自分の力を一時的に二人に分け与えて仕掛けたとも考えられる。後から来た奴にせよ、最初の連中にせよ、俺の敵ではないが……問題はそのカシラという奴だな」
鳥が、諏訪の大神様に緊張した声で問いかけました。
「ねえ、考えたくないけれど……こんだけのことができる奴って、この国にもそうそういないわよ。まさかとは思うけど……タケミカヅチノカミが黒幕ってことはない?」
タケミナカタノカミは目を閉じて考えておいででしたが、ややあって目を開けられました。
「俺もひょっとしたらとは思っていたが、どう思案してもあいつではない。国譲りの際に直に取っ組み合ったのは俺だからな。あいつの気性も強さもよく知っている。あいつは心底から天孫に従い、この国のことを考えている。そして万が一だいそれた計画を立てたとしても、こんなやり方はあいつらしくない。姑息に武神でもないウサギ神を騙して危害を加えるとは……そんな卑怯なまねはできん奴だ」
「それならよかった。さすがにあいつを敵にするのは、危険すぎるもの」
わたくしは思わず口を挟みました。
「それに、あの連中は、わたくしとタケミカヅチノカミを会わせまいとしていました。そのお頭というのは別物でしょう」
「『実は一人二役?』とか勘ぐったけど、そういう器用なまねができるような神でもなさそうだし……」
鳥が気を落ち着けるためなのか、さりげなく羽つくろいをしております。
諏訪の大神様が、わずかに笑みを浮かべられました。
「それでも一つだけわかったことがある。あのシロナガミミノミコトが受け取った、ややこしい手紙のことだ」
「え、何がおわかりになったのですか? わたくしには、さっぱり……」
「おまえを鹿島に呼びたいのは、そのカシラだけじゃなくてタケミカヅチノカミもなのだろう? 手紙を書いたのはそのカシラか配下だろうが、おそらく近いところにあいつもいたんだ。だから、その手紙にはカシラの呼びたい念とタケミカヅチノカミの呼びたい念が、一緒に混ざり込んでしまった。それでオオモノヌシノカミさえ頭を悩ます、善悪入り乱れた手紙になったんだよ」
「なるほどね……って、んじゃ、タケミカヅチノカミは何やってたのよ。手紙に念を混じり込ませるほど近くにいたなら、とっととカシラってのをやっつければいいじゃない? あの強いのだけは天下一品の神が、何まだるっこしいことしてんのよ」
鳥がさっさと意見を述べます。
もっともでございます。
もちろん、わたくしは取っ組み合ってなどおりませんが、出雲で何度もお会いして、あの強い神気はよく知っております。
まさか、あのお方が手出しできないほど追い込まれていると?
そんな相手が、この国にいたのですか?
タケミナカタノカミがこめかみをかいていらっしゃいます。
「そこがわからん。あいつと同等かそれ以上の強さを持つ武神など、日の本には数えるほどしかおらん。そして、どの武神もよく知っているが、鹿島を包囲して〝軸〟をずらし、高天原や根の国に異変を起こすとは考えられん」
「つまり振り出しに戻るってことね」
鳥がため息をつきました。
はい、わかったようなわからないような……。
手紙の〝気〟が善悪入り乱れていた理由はわかりましたが、ますますこんがらがってきましたよ。
「なぜ、そのカシラもタケミカヅチノカミも、わたくしを呼びたいのでしょう? わたくし、縁結びとフサフサを含む皮膚病に御利益を与えるしか能が無いんですが……」
「それもわからんな〜」
大神様が唸っておいでです。
鳥もまた首をひねりました。
「そうなのよね〜。あなたを呼びたがっているって……いったいどういうことかしら?」
鹿島神宮での異変の謎よりも、わたくしの頭を占めていたのは、あの遣いの男のことでした。
一度しか会っていない、しかもおそらく敵の立場にいるはずのわたくしをなぜ二度も助けてくれたのでしょう?
きっと鹿島へ行くことで、あの男のことがわかるはず。
もし悪い奴らに脅されていやいや使われているのならば、何とかして助けたいものです。
「失礼します」
廊下の方から声がしました。
「入れ」
タケミナカタノカミの一言でふすまが開き、小柄ながらがっしりした壮年の男が顔を見せました。
どうやらここでお仕えしている下級神のようです。
「そばがきができました」
「そうか」
大神様がうなずかれ、やってきた神が湯気の立つ鉢と陶器の小瓶、匙を載せたお盆を持って来て、わたくしの横に置きました。
「さあ、腹がへったろう。耳の痛みも落ち着いているはずだ。食って元気を出せ」
そう言われて、耳の痛みがほとんど取れていることに気づきました。
召使いの神が、起き上がったわたくしの前にお盆を置いてくれました。
「地元の蕎麦粉で作りました。どうぞ」
「ありがとうございます」
ほわーんとした蕎麦の良い香りで、空腹だったことに気がつきました。
「いただきます」
素直に手を合わせてから、小瓶の醤油を少しそばがきにかけ、匙で口に運びました。
一口食べると、もう手が止まりません。
せっせとそばがきを食べ続け、器はすぐに空になってしまいました。
「ご馳走様でした。信濃の蕎麦粉、本当においしいですね。あなたが作ってくださったのですか?」
感心しながら手を合わせるわたくしに、召使いの神は無愛想な表情ながら優しい目をして答えました。
「ええ、つたない作り手で恐縮でございます。この国では良質の蕎麦が採れますゆえ、できるだけ美味にと思ってお作りしました。お気に召してよかったですよ」
「そばがきは時々食べますが、こんなにおいしいのは初めてです。蕎麦粉も良いのでしょうが、あなたの作り方もとても上手なのですよ。ありがとうございます」
わたくしのお礼に、召使いの神は少し口元を緩め深く一礼します。
お盆を持って召使いが下がってから、それまで黙っていたタケミナカタノカミが鳥に向かってお尋ねになりました。
「俺は親父殿のお言葉に従って鹿島へ行くが、おまえはどうする? 報告に戻るか?」
すると鳥は大きく首を横に振ります。
「あたしも鹿島へ行くわよ。報告って、今の状態で何を報告できるの? わかんないことだらけじゃない。もう少し事がはっきりしなきゃ、伝えることなんてないわよ」
「それもそうだな。で……」
諏訪の大神様の目が、こちらを問うように向けられました。
鳥も、ためらいがちにこちらを見ています。
その意図するところに気づき、わたくしはにっこりしました。
「わたくしも鹿島へ参ります」
大神様と鳥が、同時に安堵のため息をついています。
「よかったわ〜。あなたが『鹿島へ行くのは嫌だ』って言っても、あたしたちには無理強いできないし……」
「だが、おまえが行ってくれんことには、糸口すら見つからん。もうこんな危険な目には遭わせん。ありがとう」
頭を下げられる諏訪の大神様に、わたくしの方があわてました。
「とんでもございません。足手まといにならないよう気をつけます。ところで、いつ出立しますか? これからすぐに?」
「いや、出発は明日の朝にしよう。もう陽が落ちたし、夜はさらに危険だ。それに、おまえももう少し休む必要がある」
「そうよ。できれば、数日静養させてあげたいけれど……申し訳ないけれど……」
「もう耳の痛みも取れましたし、おいしいそばがきをいただいて、体力も回復しました。あの蕎麦粉には、作ってくださった神の神気が込められているのでしょう?」
「わかったか? さっきそばがきを持って来た奴は、俺の配下の中でも回復力が強くてな。だから作らせたんだ」
「ありがたいことです。改めてお礼を申し上げないと」
「朝になったら飯を持ってくるから、また会えるさ」
大神様はにこりとなさって、手を叩かれました。
すると、さっきとは違う者達が布団をもってきて、わたくしの両側に敷き、すぐに下がります。
「念のために、一緒に休もう」
こうして、わたくしは鳥とタケミナカタノカミに挟まれて、川の字になって眠ったのでございます。
耳がピクリと動きました。
わたくしは目を開けました。
諏訪大社のお部屋の天井が見えます。
左右には、タケミナカタノカミと鳥が寝ております。
(気のせいでしょうか?)
きっと昼間のことで神経質になっているのだろうと考え、目を閉じました。
また耳がピクリと動きます。
ウサギの長い耳が、確かに何か物音を拾ったのです。
「何の音かしらん?」
上半身を起こして、耳を澄ませました。
鳥も諏訪の大神様も、起きる気配がありません。
そう、それほど小さな音なのです。
ウサギだからこそ聞こえたのです。
後で思えば、この時すぐに大神様と鳥を起こすべきだったのですが、まさか諏訪大社の中であんなことになるとは想像もできず油断しておりました。
長い耳で音の出所と正体を探っているうちに、だんだん不安が高まります。
「まさか、ここへ敵が?」
あわててタケミナカタノカミと鳥を起こそうとしたわたくしが声を出すよりも、相手の動きの方が早かったのです。
寝ていた布団と床が音もなく消え、暗い底知れぬ穴が開きました。
「くきゃ~」
悲鳴をあげながら、わたくしの身体はぽっかり開いた穴へ落ちてゆきます。
「シロナガミミノミコト!」
起き上がられたタケミナカタノカミが、急いで手を伸ばしておいでなのが見えます。
こちらからも必死に手を伸ばしますが、落ちる速度の方が早く届きません。
「待ってて、すぐ行くわ」
鳥が急降下してきました。
「鉢巻きさん」
しかし、鳥とわたくしの間でさっきと同じく空間が閉じられました。
まさかタケミナカタノカミのお側に敵が侵入するとは、思ってもおりませなんだ。
さっきと同じように、ぐんぐん落ちていきます。
(また牢に入れられて、今度こそ鹿島のおカシラとかいう奴の所へ連れて行かれるのですか?)
体が震えてしまいました。
(捕まるわけにはいかない。何とかしないと……)
辺りを見回しても暗闇が広がるだけで何も見えません。
『空間を操作して罠を作った』とか言っていたのを思い出しましたが、さてどうすればいいのやら。
(今の御教訓集は強い敵に会ったときに倒す物だし、梨割剣は物理攻撃じゃないと切れないし……あ~、どうすればいいんですか?!)
恐怖と絶望で自棄になったわたくしは、梨割剣を抜くとめったやたらに振り回しました。
「ぎゃあ!」
つんざくような悲鳴があがりました。
わたくしではございません。
(どうなっているのかわからないけれど、効果があるのかも)
ひたすら剣を振り回しました。
それにつれて悲鳴はだんだん大きくなり、やがて途絶えました。
同時に、ドサリと地面の上に投げ出されました。
「ふひ」
急いで起き上がりました。
夜の風景が広がっております。
「何がどうなっているのか、さっぱりわかりませんが……何とか敵から逃げられたみたいです……でも、ここ、どこでしょう?」
つづく
強力な味方タケミナカタノカミと合流できたのに、再び引き離されて見知らぬ場所へ。
この後、意外な出会いが!