1-3僕と野球と近鉄と

父親が日本に15人しかいないオリックスファンだった影響が強く、BSの放送がある日にはいつもパ・リーグの中継がながれていた。
僕は幼少期からあまのじゃくだったとみえて、せっかく日本に数少ないオリックスファンの長男として育ったにも関わらず、近鉄ファンになった。

「近鉄好き」を初めて自称したのが4月に近鉄が首位独走した年で、今調べてみると1999年のことである。多分「リーグ1位で、最下位を争うオリックスファンの父親をバカにできるから好き」ぐらいのノリで言っていたのではないかと記憶する。(この年の近鉄はけが人が後を絶えず。結局オリックスにも抜かれ、前年からつづけて2期連続の最下位に落ち込んだ。)

ファンと自称してから野球のルールを理解し始めるわけだが、近鉄の7点取られても8点とれば勝ちみたいな”大味”な野球は子どもながらに、ドキドキ魅力的だった。さながら好きでもない男と付き合ってみたら、次第に好きになっていく恋する乙女である。(何が?)

野球をみるのと同じぐらい選手名鑑をみるのが好きで、選手の年俸・好きな女性なタイプ・愛車などを暗記するのが楽しかったらしい。

2001年のパ・リーグを制した年に僕は地域のソフトボールクラブに所属するようになった。プレーのほうはというと、レギュラーではあったもののこれがかなり下手で、いい思い出は多くない。6年生になると中学の部活は何をやろうか思案していた。その夏の甲子園は、ダルビッシュ有や僕の好きな横浜高校では成瀬・涌井など甲子園のスターが躍動した年で、決勝の済美対駒大苫小牧の両チーム合わせてヒット39本という緻密な殴り合いにくぎ付けとなり、2アウト1、3塁で最後の打者となった鵜久森のしかめた顔をみて中学までは野球を続けることにした。

中学2年まではチームのスコアラーも経験した。当時の3年生にとって最後の大会でもスコアラーをしていて地区大会の一回戦から試合は、ランナー満塁で始まるタイブレークに突入したが、敵チームのサインを盗むのが趣味だった僕が「次スクイズです」と監督に進言してウエストさせた試合が野球をやっていて一番楽しかった。チームは県のベスト8まですすんだので鼻が高い。

中3になってからはレギュラー争いに参加した。僕は守備が壊滅的にヘタクソで春にレギュラーメンバーから外されたものの最後の夏は打撃が好調で奪い返した。

5点差をひっくり返した試合で6打点をあげたのがプレイヤーとしていい思い出なのだけど、その武勇伝を中学の友人に話そうとすると、
その試合で2ベースを狙って走った僕が、大量の砂ぼこりの舞う河川敷でセカンドベースを見失い、相手の守備が乱れる間に1塁に命からがらヘッドスライディングで帰塁したという恥ずかしいエピソードを必ず言ってくるやつがいて、いつも僕の活躍はかき消される。当時僕が片思いしていた女の子もその試合を見に来ていたことを思い出した。調べてみたらおととし結婚していた。

近鉄という球団が消滅して、推しチームがなくなるというトラウマを経験した話をメインにしようと思ったのだけど、
思いついたことタイピングしているうちに脱線してしまったり、年代の考証をしようと調べ物をしていたら元近鉄の磯部光一がYouTubeチャンネルやっていることに気づいてしまったり、そのチャンネルの先月あげた動画の再生数が800回で、動画の内容も案の定つまらなかったりして、無常にも夜は更けていくのである。

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