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白い月に歌は響く 第一章①

 狭い給湯室はコーヒーの香りに包まれていた。島本アリサは用意したカップに、できるだけ均等になるようコーヒーを注いでいく。
 アリサが所属しているのは国家警察の凶悪犯罪課。主に殺人や傷害事件を捜査する部署である。一般的に警察の花形といわれている部署だが、アリサ自身の仕事は資料整理やお茶汲みなど雑用ばかりだ。

「よし」

 アリサは一人頷くとカップを盆に乗せて会議室へ運ぶ。飾り気のないドアを開けると見慣れた顔の刑事たちが捜査中の事件について報告しているところだった。

「発見された遺体は死後二日から四日。損傷が激しいうえ海水に浸かっていたため、正確な日時を割り出すのは困難です」

 新田という二十代後半の刑事が報告している。それを邪魔しないよう、静かに移動しながらカップを配っていく。

「で、身元はわかったのか?」

 課長の森田が顔も上げず、抑揚のない口調で聞いた。この課長からはどんなときもやる気というものが感じられない。よくこの態度で警部に昇進できたものだとアリサは密かに思う。

「えー、身元は不明。年齢は三十歳前後、男性」

 新田は手帳に視線を向けながら答えた。

「行方不明者のリストを検索していますが、今のところ該当者はありません」

 アリサは報告を聞きながらすべてのカップを配り終わり、いつものように一番後ろの席に着く。すると前の席に座っていた谷本という四十代の刑事が投げるようにして資料を回してきた。アリサは驚きながら谷本の顔を見返した。今まで会議中に資料が回ってきたことは一度もないのだ。

「あの……?」

 なぜ自分に、と聞こうとしたアリサを無視して谷本は前を向いてしまった。よく分からないが、せっかくもらった資料を返すわけにもいかない。せっかくなので目を通しておくことにした。

 発見場所……K市海岸沿いの浜
 死亡原因…全身強打による即死と思われる
 死亡推定日時…不明
 被害者の身元……不明

 長々と文章が綴られているが、要点を絞ればこれくらいのことしか書かれていない。つまり何も分かっていないのだ。今まで一度も捜査に参加したことはないが、いつもの会議ではもっと実のある報告をしていた気がする。

 今回の事件は長引きそうだな。

 思っているうちに会議は終わってしまった。まだ三十分ほどしか経っていない。いつもは一時間以上報告が続くというのに。
 課長が席を立ったのを合図に、捜査員たちがバラバラと部屋から出て行く。部屋に残されたのはアリサと、なぜか座ったまま動こうとしない谷本だけ。彼は資料に見入っている様子だ。

「どうかされたんですか?」

 アリサはカップを回収しながら尋ねてみる。

「……どうかされたんですか、じゃねえだろう」

 谷本は険しい表情をアリサに向けた。いつも不機嫌そうな顔つきだが、今日はさらに険しい。

「わからねえことだらけじゃねえか、この事件は。場所が場所だけに目撃者もない。車のタイヤ跡はあったが、なぜかいくつも同じ場所につけられていて特定は無理」

 なぜ谷本が自分にこんな事を話すのか分からず、アリサは「はあ、そうですね」と適当に頷くしかない。すると彼はギロリとこちらを睨んできた。

「なんだ、お前。他人事みたいな反応しやがって」
「あ、いや。でもわたしは捜査員ではありませんので、詳しいことを言われても」
「お前だって刑事だろうが。いつ駆り出されるかわからんぞ。脳天気に構えんな。事件の資料ぐらい頭に叩き込んどけ!」

 谷本は一方的にそれだけ言うと出て行ってしまった。

「何なの、一体」

 ただ、機嫌が悪かっただけだろうか。八つ当たりをされたのか。アリサは首を傾げながらカップの回収を再開した。


 すべてのカップを片づけて部屋へ戻ると課長と、電話係の若い刑事しかいなかった。アリサは席について今回の事件の資料を手にする。今回の事件も、迷宮入りは時間の問題だろう。

 最近の事件は手口が巧妙化しており、解決が困難なのだ。急速に変化した時代に国の対応が追いついていないということも要因の一つだろう。証拠を見つけても、それが犯罪として立証できるかどうかわからないことも多い。早く国の法を整備してもらいたいものだが、政治家たちの動きは遅い。

アリサは小さく息を吐きながら資料をファイルに収めていく。そのとき、ふと妙な違和感を覚えた。
 見回した部屋には煙草を吸いながら新聞を読む課長、電話対応をしている同僚。特に変わったところはないように思う。アリサは部屋の反対側に視線を向けた。デスクが並んでいる。なんとなくそのデスクを数えてみると、ひとつ多かった。朝までは変わりなかったので、先ほどの会議中に運び込まれたのだろう。その増えたデスクには、まだ何も荷物は置かれていない。

 誰か異動して来るのだろうか。

 考えてみたが答えがでるわけもなく、部屋には答えてくれるような人もいない。結局、気にしても仕方がないと、アリサは資料整理に専念することにした。

 しばらくして荒々しい足音と共に険しい表情の谷本が戻って来た。不機嫌そうな彼は、乱暴に椅子を引いて座る。

「島本、コーヒーくれ」

 アリサは返事をしながら給湯室へ向かう。疲れがたまっているのか、それともストレスか。最近の谷本はいつも機嫌が悪い。自分は捜査することはできないので、せめてコーヒーくらい美味しく淹れてあげようとカップを用意する。美味しくといってもインスタントコーヒーなので、味は変わりようもないのだが気持ちの問題だ。温かなコーヒーを持って部屋へ戻ると、見たことのない女性が課長の机の前に立っていた。

「あの人は?」

 カップを谷本へ渡しながらアリサは聞く。

「今日からうちで資料整理をする奴だそうだ」

 不思議そうな表情をするアリサを見て谷本はニヤっと意地悪そうに笑った。

「つまりお前は用済みか、あるいは捜査員に昇進か、どっちかっていうことだな」
「はあ……」

 捜査員になることはまずないだろう。実績や特技は何もないうえに、警察学校での成績もあまり良くない。むしろ悪い方だ。ということは、おのずと答えは出てくる。

「わたしは役に立たないっていうことですね。……どうもお世話になりました」

 アリサはため息をつきながら谷本に軽く頭を下げた。

「おいおい、ちゃんと課長に確認してみろよ」

 谷本の言葉と同時にアリサを呼ぶ森田の声が聞こえてきた。

「別に聞くまでもないのに」

 呟きながらアリサはできるだけゆっくりと課長の机の前まで歩いて行く。森田は机に置いた新聞を畳みながら「島本。お前は今日で、というか今から雑用から解放だ」と事務的な口調で言った。そしてアリサの隣に立つ女性に視線を向ける。

「こいつがお前の跡を継いでくれる」
「今井と申します」

 彼女は言って丁寧に頭を下げた。眼鏡をかけた彼女は少しぽっちゃりしている。あまり運動はできないタイプだろう。そう思ってから自分もどちらかといえば運動音痴だと気づき、心の中で苦笑する。

「それで、だ。今からお前は――」

 アリサは覚悟を決めて次の言葉を待つ。

「捜査員として今回の事件を頼む」
「え?」

 思わぬ言葉に声がひっくり返ってしまった。

「わたしがですか?」
「そうだ。でも一人で行動するな。谷本と一緒だ」

 アリサは振り返った。谷本はどこかを見つめながらぼんやりとコーヒーを飲んでいる。

「今まで谷本と組んでた高井が入院したのは知ってるだろう。あいつが、しばらく退院できそうにないんだ。人手も足らないし、かといって他所から応援も呼べない。お前も、まあ、いないよりマシだろうってことだ。捜査の邪魔にならない程度にやってくれたらいい。以上」
 森田はもう話すことはないとばかりに新聞を広げた。今井はすでに新しく用意されたデスクで資料整理を始めている。アリサはどうしたらいいのかわからず、とりあえず谷本の元へ向かった。

「あの……」
「よかったじゃねえか。お茶汲みから解放されて」
「いや、でもなんでわたしが」
「さっき課長が言ってただろ。頭数が足らねえからだって。ほら、さっさと用意しろ。行くぞ」
「行くってどこに?」

 谷本は答えず、さっさと出て行ってしまった。アリサは慌ててその後を追った。

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