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リンネの目 ⑤『事件』

 翌日、失踪捜査課のデスクでパソコンに向かっていた槙の耳に「ちわーっす」と声が聞こえた。来訪者など珍しい。視線を向けると、ドアの近くに室内を見渡している男が立っていた。坊主に近い短髪で背が高い。細面で目や口に比べて鼻が大きいその顔は見慣れたものだった。
「どうされたんですか、三次さん」
 声をかけると彼は「よう」と片手を挙げた。三次は交番勤務の頃、世話になった先輩だった。警察学校での成績も優秀で、槙が交番勤務となってからまもなく捜査一課へ異動となった。昨日、惣付が住んでいたアパートの住所を調べてくれたのも彼だった。
「今、忙しいか?」
「いえ。あ、コーヒーでも飲みますか? 自分、おごりますから」
 槙が立ち上がると彼は八重歯を見せて笑った。
 ドリンクコーナーは失踪捜査課の隣にある。少し前までは喫煙所も兼ねていたが、いまでは灰皿も撤去されてしまった。そのことを思い出したのか、喫煙者には厳しい世の中だと三次は嘆くように首を振った。
「それで、今日はどうされたんですか」
 コーヒーのカップをベンチに座る三次に渡して、槙は隣に腰を下ろした。
「いや、とくに用事があったわけじゃないんだが。ほらお前、去年の事件について聞いてきただろ」
「あ、はい。その節はありがとうございました」
「まあ、解決済みの事件だったしな。別にいいだろ。けど、なんであの事件に興味を持ったのかと思って」
「あー、それはですね。あの近くを通ったときにここで事件があったなと思ったんですが、どうにも詳細を思い出せなくて」
 頬を掻きながらそう答える。まさか本当のことを言うわけにもいかないだろう。すると三次は「お前らしいわ」と笑った。
「気になったことを放っておけない性質だろ。警察官としてはいいことだな」
「だけど、今の仕事では必要ないですね」
 槙の言葉に三次は苦笑して「すぐに異動になるさ」とカップを傾ける。
「そうだ。そういえば、あの場所でけっこう前に別の事件があったの知ってるか」
「別の事件?」
 記憶を探ってみたが、去年の事件以外に思い当たるものはない。
「といっても、まだ俺が赤ん坊の頃の話だけどな。去年の事件を担当したとき、俺も初めて先輩に聞いたんだ。あのマンションの隣に古いアパートがあっただろ。わかるか?」
「あの、入り口が封鎖されてるアパートですか。立ち入り禁止の柵がある」
 三次は頷いた。
「もうずっと住人はいなくて、近所の子供たちはお化けアパートとか呼んで近づかないそうだ」
 もうすぐ取り壊し予定なんだけどな、と彼は続ける。
「そのアパートで、今から二十四年前に遺体が見つかったんだとさ」
「殺人ですか」
「ああ。二階の部屋に遺体が二つ。どうやら派手なケンカの末、互いを刃物で刺して相討ちって感じだったらしい」
「へえ、同じような場所で殺人事件が二つも……」
「なんつうか、嫌な感じだろうな。あの近くに昔から住んでる人たちにとってはさ」
 槙は頷いた。
「じゃ、そういうことで。俺は仕事に戻るわ」
 三次はコーヒーを飲み干し、カップを潰すとゴミ箱に投げ入れた。
「え。もしかして、わざわざそれを話すために来てくれたんですか」
「まあな。お前、俺に『あの場所で起こった殺人事件について教えてくれ』って言っただろ。情報は正確に伝えなきゃな」
 槙は納得して頷きながら、少し笑ってしまう。
「気になったことは放っておけない性質ですね、先輩も」
「ああ、そうかもな」
「ありがとうございました」
 頭を下げると三次は軽く手を振って去って行った。

 昼を過ぎて、槙は約束の時間よりも少し早く公園に到着していた。さすがに土曜日の昼間とあって園内は子供たちで賑やかだ。その親たちだろうか、ベンチには大人の姿も多く見られた。
 双子が来る前に子供たちを確認しようかと思ったが、周囲の目を考えるとできそうにない。槙は空いているベンチに腰を下ろして二人を待つことにした。
 秋の日差しは心地いい。こんなふうに公園でぼんやりするのはいつ以来だろうか。空を仰いで目を閉じていると、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「あ、マッキー発見」
 見ると、公園の入り口で美鈴がこちらを指して笑みを浮かべている。その隣では鈴音が無表情に立っていた。休日なので当然だが、二人は私服だ。それでもやはり美鈴の右手首にはリストバンドが目立っていた。今日の色は赤。その右手にはファストフードのドリンクカップを持っている。昼食をとってきたのだろう。美鈴はこちらへ駆けてくると槙の隣に座った。一方、鈴音は不満そうにその横に立つ。
「美鈴が食べるの遅いから出遅れたじゃないか」
「えー、でも時間ピッタリだよ」
 待ち合わせの時間は午後二時半。公園の時計はその時刻を指していた。それでも鈴音は不満顔だ。
「まあ、いいよ。それより早く着いたんだったら彼女がいるかどうか見て回りましたか?」
「あ、いえ。一人で子供たちを見てまわるのは不審者と思われそうで……」
 鈴音はわずかに目を細めたが、園内にいる大人たちの姿を見て納得したように頷いた。
「休みの日は小さい子も多いですからね」
 そう言ってから彼女は「通報されたら面白かったのに」と呟いた。思わず目を丸くして彼女を見ると「冗談ですよ」と薄く笑う。その表情を見て、おそらく半分は本気だっただろうと槙は思った。
「美鈴、どう?」
「うん。昨日よりも気配は新しい」
「いるんですか? ここに」
 槙は立ち上がって園内を見回す。やはり遊具のどこかだろうか。そう思ったが、美鈴は別の場所に視線を向けていた。噴水向こうにあるベンチ。そこに中年の男が一人で座っている。
「向こうに子供はいませんよ。噴水も動いてないし」
 しかし鈴音もまた、真剣な表情をそちらに向けていた。不思議に思いながら槙はもう一度男を見てみる。だらしない姿勢でベンチの背にもたれ、力のない虚ろな目をアスレチックへ向けている。着替えもしていないのか服は薄汚れていた。もしかするとホームレスなのかもしれない。園内の大人も子供も、その男には近づかないようにしているようだ。
「あの男が何か?」
 どう見ても沙歩と関係あるようには思えない。しかし、鈴音は眉間に皺を寄せながら「あいう、憑かれてるんじゃないの」と呟いた。
 美鈴は慎重な面持ちで頷くと、何かを指示するように地面に視線を向ける。
「確認させてみる」
 いつもと違う硬い声で美鈴は言う。それきり二人は無言で男の方を見つめていた。槙は困惑しながら子供たちが遊ぶアスレチックと男を見比べる。
 美鈴はここに惣付の気配があると言っていた。その場所に沙歩がいると。そんなときに、こうもタイミングよく他の目に憑かれた者が現れるものだろうか。鈴音の話では目に憑かれるということは稀なことのはずだ。そう思ってから、ふとそうではないと気づいた。そうだ。美鈴も鈴音も沙歩がここにいるとは言っていない。惣付の目に憑かれた者がここにいると言っていただけだ。それが沙歩であると、槙は勝手に思い込んでいた。
「じゃあ、もしかしてあの男が……?」
 答えを求めて美鈴を見る。彼女は困惑したように眉を寄せて腕を組んだ。
「ポチが探してた気配の持ち主はあの人に間違いないみたい」
「じゃ、沙歩ちゃんは――」
 ここにはいないということでしょうね、と鈴音が答えた。そして怪訝そうに美鈴の顔を見る。
「どうしたの、美鈴。変な顔して」
「うん。どうもね、あの人に憑いてる目、惣付って人じゃないみたい」
「違う? けど、その男の部屋にあった気配を辿ってきたんじゃないの」
「そうなんだけど。ちょっと待って、ポチに頼んで――」
 ダメだよ、と鈴音は美鈴の腕を掴んだ。彼女は訴えるように「ダメだよ」と繰り返す。美鈴は「大丈夫だよ」と柔らかく微笑んだ。
「あの目、ほとんど消えかけてるもん。残ってる記憶も少しだけ。あの人から落として、その記憶を少し見てみるだけだから」
「だったら、いいけど……」
 それでも鈴音は心配そうな表情を浮かべて「食べさせないでよ」と念を押した。それを聞いてようやく槙は二人の会話の意味を理解した。ポチに目を喰わせるなと鈴音は言っているのだ。人に憑くほどの目を喰わせてしまえば、美鈴はその記憶を見てしまう。記憶の持ち主が死んだ瞬間を見てしまうことになるのだ。それを鈴音は心配しているのだろう。人が死んだ瞬間を見るということが、どんな感じなのか想像することは難しい。それでもさぞ辛いことだろうことは予想できた。
「ああ。あの人、友達の方だ」
 美鈴が呟いた。
「友達?」
 言いながら男を見ると、彼はぼんやりとした表情のまま立ち上がり、不思議そうに頭を掻きながら公園から出て行く。足取りがおぼつかない。追いかけようとした槙を美鈴が止めた。
「大丈夫だよ。もう落としたから」
 彼女は言ってから少し残念そうに笑みを浮かべた。
「あの人に憑いてたの、惣付って人の友達だったみたい」
「殺された方の?」
 美鈴は頷く。
「さらに、あの人は駐車場前で拾った目の持ち主だった。沙歩ちゃんを目撃したあとに、何かの弾みで目を落としちゃったんだね。で、憑かれた」
「けど、気配は惣付の部屋にあったんだよね?」
「うん。あの人、惣付さんと一緒にルームシェアしてたんだよ。だからあのアパートに気配が残ってたの」
「なるほど」
 しかし、なぜこの公園に来ていたのだろうか。槙は男が見つめていたアスレチックに目を向ける。彼は、いや、彼に憑いた目はあのベンチに一日中座って、子供たちが遊ぶ様子を見ていたのか。いったい何をしたかったのだろう。
「憑かれていた人は、そのときのことを覚えてるんですか」
 尋ねると美鈴は首を傾げた。
「憑かれた人や憑いた目によって違うんだよね。ぼんやり覚えてる人もいれば、そこだけぽっかり穴が開いたようになる人もいる」
 中には病気になったと思いこんで病院に行く者もいるのだと鈴音が言った。たしかに何日も記憶がなければ心配にもなるだろう。ぼんやり覚えているにしても、身体の自由が効かなかったとなれば病気だと思っても仕方がない。本人には何が起こったのかわからないのだから。
「もしこのまま美鈴さんが目を落とさなければ、彼はずっと操られてたままだったんでしょうか」
「ううん。あの人の場合は放っておいても大丈夫だったと思う」
 なぜですか、と尋ねると彼女は難しい表情で眉を寄せた。
「目っていうのは記憶だからね。記憶はどうやっても薄れていくものでしょ。記憶が薄れるってことは、そこに込められている意思も一緒に薄れていくってこと。で、目が人に憑くっていうのは、なんていうのかな。えーと、記憶、の――?」
 そこで美鈴は困ったように鈴音へ視線を向けた。
「……目が憑くということは、人の身体を借りて記憶の意思を解放していくということ。解放されるから、それだけ薄れていくスピードも速くなる」
「そうそう。でも、やっぱり個人差があるんだよ。憑いた目と憑かれた人の相性だったり」
「それに、目に込められた意思の強さによっても違います。ただ願いを叶えたいという想いが込められた目と、恨みや憎しみが込められた目では、やはり後者の方が意思は強い。そういうものは、なかなか自然に落ちることはありません」
 鈴音が付け足した説明に美鈴は深く頷いた。願いを叶えたいという目は、それを叶えてしまえば自然と落ちるのだという。あの男に憑いていた目もそれだったのだと美鈴は言った。
「では、意思が強い目にずっと憑かれていた場合、その人はどうなるんですか」
「さあ」
 鈴音は肩をすくめた。実際に見たことがないから、と彼女は答える。
「憑かれてる人とは、あんまり関わらないことにしてるからねえ」
 美鈴は言って、手に持ったままだったドリンクのストローをくわえた。
「前に一度だけ、目を落としたらその場で倒れた人がいました。まあ、他人の記憶と意思に憑かれるんです。身体や精神に害があって当然ですよね」
 たしかに、と槙は頷いた。同時に不安がよぎる。沙歩はすでに一週間以上行方が知れない。彼女達の言うように誰かの目に憑かれてしまっているのなら、どんな影響があるかわからないではないか。
「心配するのなら、彼女の体調よりも他のことを心配したほうがいいですよ。悪意のある目は凶暴ですから」
「凶暴……?」
「たとえば、恨みが込められた目は想いを晴らすべく、誰かを殺したり」
 槙は息を呑んだ。鈴音は槙に向けていた視線を遊具で遊ぶ子供たちへと向ける。
「まだ、彼女に憑いた目が何者なのかわかりませんからね」
 鈴音は子供たちの姿を眺めながら呟くように言った。男に憑いていた目は惣付が殺した友人のものだった。そして、まだ惣付の目は見つかっていない。
「やはり、彼女に憑いている目は惣付のものでしょうか」
 すると美鈴はストローを吸い上げながら「違うんじゃないかな」と言った。
「違う?」
「だってアパートを探ったときに、今でも動いてる気配はあれだけだったもん」
「ポチの判断が間違っているということは?」
 言ってから槙は慌てて「すみません」と謝った。
「別に疑っているというわけでは」
 美鈴は笑いながらひらひらと手を振る。
「わかってるよ。だけど、ポチは間違えないよ。記憶を間違えることはないから」
 そうか。つい犬のようなものだと思ってしまうが、ポチが探っているのは記憶の欠片であり、匂いではない。間違えるはずがないのだ。
「そうですよね。すみません」
 もう一度謝ると、美鈴は笑みを浮かべてからすぐに眉を寄せた。
「でも、そうなると困ったよね。鈴音」
 呼ばれて鈴音はようやく視線をこちらに戻した。そして深く息を吐く。
「そうだね。彼女に憑いている目が誰のものかわからないってことは」
「つまり、手詰まりってことですよね」
 美鈴が鈴音の口調を真似て肩をすくめた。
「まあ、彼女に目が憑いてないっていう可能性もあるわけですし」
「どっちにしても、手がかりゼロってことですね」
 美鈴が言って鈴音はそうだねと頷いた。そんな、と槙は情けなく声をあげる。
「そんな悲壮感に満ちた声を上げられても困りますよ。あの場所でほかに何か事件や事故で死人が出ているのなら、まだ探す手があるでしょうけど」
 そのとき、ふと槙の脳裏に三次の言葉が蘇った。
「二十四年前――」
 二人は怪訝そうに眉を寄せた。
「目というのは――あ、人に憑く目のことですが。それが誰にも憑かず、他のムシにも喰われなかった場合、いつまでそこに残っているものなのでしょうか」
「さあ。でも永遠にってことはないと思うよ。薄れない記憶はないだろうし」
「だけど、残ってる可能性もありますよね?」
「そりゃあ、よほど強い記憶だったら残ってるかもしれないけど……」
「なんなんですか、さっきから」
 面倒くさそうに鈴音は表情を歪めた。槙は三次から聞いた二十四年前の事件を二人に話して聞かせる。話を聞き終わって、ふうん、と鈴音が小さく唸った。
「その事件で死んだ、どちらかの目が彼女に憑いてしまったのではないか、と?」
 鈴音の声は少し呆れているように聞こえた。
「やはり、そんなに昔の事件では難しいでしょうか」
「いえ。可能性はあると思いますけど」
 しかし、かなり低い可能性なのだろうことは、二人の表情からわかった。なんとなく沈黙が続く。とにかくさぁ、と口を開いたのは美鈴だ。彼女は飲み干したドリンクのカップを近くのゴミ箱に投げ入れて「一度、そのアパートに行ってみようよ」と言った。
「そうだね。まあ、ここでぼんやりしてるよりはマシか」
 めんどうだけど、と鈴音は言いながら歩き出した。

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