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リンネの目 ⑧『幽霊屋敷』

 道を進んでたどり着いたのは田圃に囲まれた、のどかな地域だった。農家が並ぶ一方で、若者受けしそうなアパートが点在している。道は新しく作られたばかりのようにきれいだったが、そこを走る車は少ない。田圃から少し離れると形ばかりの商店街らしき場所もあった。そのすぐ近くには、まったく聞き覚えのない名前のコンビニが一軒だけ建っている。村の中心部だろうそこは再開発に失敗したような、そんな雰囲気の場所だった。
「なんかさ、思ったより人少ないねえ」
 コンビニの駐車場に停めた車から降り、美鈴は周囲を見渡しながら言った。
 たしかに、と槙は頷く。のんびりと商店街を歩いている老人、田圃で作業をしている数人の男たち。日曜だというのに、他に人の姿は見られない。あまりに寂れすぎている印象だ。
「まあ、あまり期待せずに聞いてみましょう」
 鈴音の言葉に促されて、槙たちはまず目の前のコンビニへ向かった。五十代の男が一人で店番をしていたので、沙歩の写真を見せてみる。しかし予想通りというべきか、ほとんどその写真を見ることもないまま、そっけない態度で知らないと言われただけだった。そんな反応にめげることなく、今度は商店街へ向かう。そして営業している数少ない店を訊ねて聞いてみたものの、誰も沙歩を見た者はいなかった。それどころか余所者を嫌う態度があからさまな者ばかりで、槙はため息をついて肩を落とすしかない。
「さすがにこれだけ聞いて、誰もまともに写真すら見てくれないとへこみますね」
「だねえ。買い物したら教えてくれるかと思ったのにね」
 そう言った美鈴は白いビニール袋を両手に抱えている。彼女は商店街の店に入るたびに何かしら商品を一つずつ買っていたのだ。その袋をうんざりしたように見やって、鈴音もため息をついた。
「もう夕方ですし、宿に行きませんか」
「そうですね。でも、その前にもう一ヶ所行ってみようと思うんですが」
 槙は言いながら運転席に乗り込むと、手帳を取り出してナビに住所を入力していく。
「どこの住所ですか」
 後部座席に乗り込んだ美鈴と鈴音がシートの間から身を乗り出す。
「兼村兄弟の実家の住所です。彼らの目が憑いてるんだとしたら、実家に行ってるかもしれないと思いまして」
「……それ、最初に行くべき場所だったんじゃないんですか」
 一気に不機嫌さを漂わせながら鈴音が低く冷たい声で言う。
「要領悪いなぁ、マッキーってば」
「え、すみません……」
 たしかに彼女たちの言う通りだったかもしれない。
「――要領悪かったのか、俺」
 口の中で呟きながら住所入力を終え、槙は車を発進させた。

 ナビに従って進んだ先は、集落の外れに位置する山の中だった。道は通っていたものの近くに民家は一軒もない。街灯もなく、まだ夕方だというのに辺りはかなり薄暗かった。
「あ、ナビの道が消えたよ」
 後ろで美鈴の声がした。槙はブレーキを踏み込んでナビの画面を確認する。目的地に着いたという音声はない。
「どうやら、ここから先は登録がない道みたいですね。私道なんでしょうか」
「そうなの? 大丈夫?」
「住所は近いはずなんですが」
 言いながらアクセルをゆっくりと踏み、徐行で車を進めていく。普段使われていないのか、道の両端に生えた木々の手入れはされておらず、枝が車のボディを引っかいて嫌な音が車内に響く。道には落葉が降り積もり、暗い印象だ。
「この先に人が住んでるとは思えないね。この道、夜になると幽霊でも出そう」
 すると美鈴が抗議するように声を上げた。
「鈴音、そういうことは言っちゃダメだよ」
「別に冗談でしょ」
「冗談でも嫌なの!」
 美鈴が強い口調で言ったとき、前方に古びた大きな建物が見えてきた。
「あ、幽霊屋敷発見です」
「ちょっと、マッキー!」
 美鈴の怒鳴り声と共にシートに衝撃を感じた。槙は笑いながら謝って、前方を指差した。
「だけどほら、それっぽい建物が」
 言いながら車を停める。道はどうやらその屋敷の前で終わっているようだ。車から降りて屋敷を眺める。黒く錆びた門の向こうに見える瓦屋根の大きな平屋。その周りには庭が広がっているが、全容は周りに巡らされた石塀で見ることはできない。辺りに湿気が多いためか、塀には苔が生え、不気味な雰囲気を醸し出していた。
 槙が門に手をかけて力任せに揺らしてみるとジャラジャラ音が響いた。門には厳重に鎖が巻きつけられ錠前がかけられている。
「これは、入れそうにないですね」
「でも、ここが兼村の家で間違いないみたいですよ」
 鈴音は門柱に視線を向けていた。そこには苔に埋もれるようにして兼村と書かれた表札があった。鈴音は表札から門へと視線を移してその高さを確かめるように背伸びする。門扉は、ちょうど彼女の身長と同じくらいだ。
「乗り越えられそうですね」
 言うが早いか、彼女は器用に門扉に足をかけて飛び越えてしまった。
「ちょっと鈴音さん、勝手に入っちゃダメですよ」
「来ないんですか?」
「……行きますけど」
 槙も門を乗り越えて庭に入る。しかし美鈴はじっとその場から動こうとしない。ただ不安そうに門と槙たちを見比べている。
「来たくないのなら、そこで待ってていいよ。僕たちは中を調べるから」
「えー。一人で待ってろっていうの?」
「嫌なら一緒に来れば」
 鈴音はそう言うと返事も待たずに歩き出してしまった。すると美鈴は「待ってよ」と泣きそうな声をあげながら門をよじ登ってきた。手を貸して彼女を庭に下ろすと鈴音の後に続く。美鈴は強張った表情で絶えず視線を動かしていた。
「大丈夫ですよ。幽霊なんていませんから」
「わかんないでしょ。いるかもしれないじゃん」
 美鈴の怖がり方を見てふと槙はあることを思いつく。彼女はポチが見える。それはつまり霊感があるということかもしれない。今までに幽霊を見たことがあって、それでこんなに怯えているのだろうか。そう思って尋ねてみたが、彼女はとんでもないと言わんばかりに大きく首を左右に振った。
「幽霊なんか見えるわけないでしょ! ポチは幽霊じゃないもん。幽霊は幽霊だよ」
「そうですか……」
「ただの怖がりなんですよ、美鈴は」
「鈴音が怖がらなさすぎなんだよ!」
 言い返す美鈴に鈴音は肩をすくめた。
 屋敷の庭は広かったが、誰も手入れをしていないせいで雑草が伸び伸びと成長していた。屋敷の左手には小さな池があり、干上がることもなく水を湛えている。昔はここに鯉か何か飼っていたのかもしれない。しかし、今や水面には落葉や藻、それに昆虫の死骸が多く浮いており、とても近寄る気にはなれない。右手側には花壇があったのだろう。雑草の隙間から見える煉瓦の列がその名残を覗かせていた。
 屋敷も庭と同じく、長い間手入れをされていない様子だった。家壁は所々剥がれ落ちており、全体的に植物の蔦が伸びていた。屋根に沿って設置されていた雨樋はぶら下がり、屋根瓦が落ちていた。窓の雨戸はすべて閉められていて、中の様子を窺うことはできない。しかしその雨戸も腐っているのか、手を触れると気持ち悪くへこんだ。屋敷が住人を失って長い年月を経ていることは、外観から容易に想像ができた。
「こんなとこに沙歩ちゃんがいるわけないよ。門だって開かないんだしさぁ」
「あれくらい子供だって乗り越えられるよ」
 鈴音は言って屋敷の玄関戸に手をかけた。その様子を槙は不思議に思いながら見つめる。昨日まで、鈴音はどちらかといえば槙の依頼など受けたくないという、そんな様子だったように思う。しかし、今日はどういうわけか協力的だ。
 やはり鍵がかかってますねと鈴音は振り向き、そして怪訝そうに眉を寄せた。
「なんですか?」
「あ、いえ。今日はいつもと違うような気がしたもので、その――」
 曖昧に言葉を濁すと鈴音が不機嫌そうな表情を浮かべた。
「変なこと言ってないで、中に入れる場所があるかどうか調べてください。彼女がこの家に来たのだとしたら、どこか開いてる場所があるはずですから」
 鈴音はため息混じりにそう言うと家の裏へ歩いて行ってしまった。やはりいつもと違うような気がする。槙が首を傾げていると隣で美鈴が「鈴音は好きなんだよね、こういうの」と口を尖らせた。
「こういうの?」
「そう。ホラーとか、お化け屋敷とか好きなの。こういう雰囲気の場所に来るとテンション上がっちゃうんだよ。今みたいにさ」
 信じらんないよねと美鈴は槙に同意を求めてくる。
「なるほど、どうりで……。双子でも全然違うんですね」
「鈴音が変なんだよ。女の子なんだから、普通はこういうの怖がるもんだよね。ね?」
「そう、ですかね。まあ、人それぞれじゃないかと」
「えー、じゃあマッキーはどっちのタイプが好み?」
「は?」
 思わず声がひっくり返る。いきなり何を聞いてくるのだと槙は美鈴の顔を見る。彼女はなぜか真剣な眼差しをこちらに向けていた。どういう答えを期待しているのだろう。
「ねえ、どっちがタイプ?」
「えーと……」
 そのとき鈴音の声が響いてきた。
「こっちの雨戸、壊されてますよ。中に入れそうです」
「あ、ほら、鈴音さんが呼んでますよ」
 助かったと心の中で安堵しながら槙は声がした方へ向かう。美鈴は不満そうに少し頬を膨らませたが、すぐに槙の服を掴んでついてきた。
 鈴音は屋敷の縁側の前にいた。彼女は槙たちの姿に気づくと「ここです」と指を差す。たしかにそこを塞いでいた雨戸は無理矢理剥がされたように穴を開けていた。そのすぐそばに物干し竿がある。どうやらそれで腐った雨戸を剥ぎ壊したようだった。
「ガラス戸も割られてるんです。見たところ、子供が入れるくらいの大きさですよ」
 言って鈴音は大きな目をこちらに向けた。瞳が輝いて見えるのは気のせいではないだろう。
「わたしは入らないよ。絶対入らない」
 美鈴が駄々をこねるように首を振った。鈴音は少し眉を上げると「別にいいよ」と頷いた。
「美鈴はここで待ってて。僕とこの人で調べてくるから」
「ダメだよ。マッキーもここで待ってるの。入るんなら、鈴音一人で行ってきなよ」
 言って彼女は槙の服を引っ張る。すると鈴音は腰に手をあて、呆れたようにため息をついた。
「あのね、美鈴。僕たちはここに遊びに来たんじゃないんだよ。あの子がここに来たのかどうか調べなきゃいけない。僕一人でこの大きな屋敷を探してたら、日が暮れてしまうよ」
 鈴音は言いながら空を見上げる。つられるようにして槙と美鈴も頭上を見上げた。背の高い杉の木が夕焼け空をほとんど覆ってしまっている。どうりで薄暗いはずだと槙は納得した。このままでは、あと一時間もしないうちに完全にこの場所に光は届かなくなるだろう。
「僕が屋敷を調べている間に、この辺りはきっと真っ暗になるだろうね。周囲に街灯はない。もちろんこの家には電気もない。周りは森だ。誰もいない。怖いだろうね」
 美鈴の顔が強張ってきたのがわかる。鈴音は口元に笑みを浮かべながら続けた。
「だけど三人で手分けして探せば、ギリギリ真っ暗になる前に終わるんじゃないかと思うんだけどな」
 どうする、と鈴音は問う。美鈴は槙を見上げ、そして割れたガラス戸の奥を覗き込んだ。それから少し考えた末に小さな声で「行く」と呟いた。
 二人の会話を聞きながら槙は剥がされた雨戸の奥を覗く。確かにガラス戸は割られているが、大人が入るにはもう少し穴を広げなければならない。槙は近くにあった石を拾って破片が飛び散らないよう気をつけながら戸を叩いていく。ガラスは砕けるように脆く崩れていった。
「これくらいでいいですかね」
 自分が入れるほどの穴を確保して槙は手を止める。鈴音はそれを確認してから頷いた。
「じゃあ、僕から入りますね」
「いや、俺が先に入りますよ。何があるかわかりませんから」
「……わかりました」
 鈴音は少し残念そうに頷くと、早く中に入れと急かしてくる。槙は背を丸めてガラス戸の穴に身を滑り込ませた。その途端、埃っぽさにむせ返る。槙は腕を鼻に押し当てて携帯電話を開き、その画面の灯りを周囲に向けた。しかし灯りは弱く、遠くまで届かない。
「ちょっと移動してください。僕たちが入れません」
 背中に声が聞こえ、慌てて槙は少し足を進めた。床も腐っているのか、足を乗せるたび不安定にたわむ。
「さすがに空気悪いですね」
「臭い。暗い。怖い。最悪」
 力ない美鈴の声に思わず苦笑しながら槙は足元に画面の光を向ける。
「それじゃ見えないですよ。これ使ってください」
 言って鈴音が差し出してきたのは白いライトを点灯させたスマホだった。後ろからもう一本白い灯りが伸びてくる。美鈴のスマホだろう。槙の携帯電話とは比べ物にならない明るさだ。
「便利ですね、これ」
 言いながら槙は辺りを照らす。屋敷の内部は想像していたほど荒れてはいなかった。部屋に家具はない。入ったのは八畳ほどの和室だった。畳は水分を吸ったせいか変色してフワフワしている。ライトを前方へ向けると黄ばんで破れた襖が少し開いていた。
「足元沈みますから気をつけてください」
 言いながら槙は足を進めて襖を開く。廊下が左右へ伸びていた。廊下の板もすっかり傷んでしまっているようで、やはり足元は不安定だった。ライトを左右に向け、とりあえず右へ行ってみようとしたとき、鈴音が声をあげた。
「足跡がありますよ」
 見ると、たしかに埃が積もった廊下に小さな靴跡が一つ続いていた。それは槙が進もうとした方とは逆へ延びている。
「行ってみましょう」
 廊下は長く、左右にはいくつも部屋がある。しかし靴跡はどの部屋に向かうこともなくまっすぐ続いていた。進む足元からはギシギシと嫌な音が響く。そして背後からは「うー」と唸る声が聞こえていた。
「ちょっと美鈴、うるさいよ。そして服掴まないで。伸びるから」
「だって暗いんだもん。掴んでないと歩けないよ。声出してないと怖いし」
 廊下は突き当たりで左右に分かれていた。本当に広い屋敷だ。槙は立ち止まって靴跡を確認する。小さな靴跡は右へと続いていた。
「こっちですね」
 そう言ったとき、とつぜん右足が床を突き抜けた。板が割れる音が響いたと同時に鋭い痛みが走る。思わず悲鳴を上げると、なぜか美鈴の悲鳴も聞こえた。
「大丈夫ですか?」
 後ろで鈴音の声が言う。しかし、落ちた衝撃で脛を打ちつけてしまい、しばらく声が出ない。なんとか痛みを堪えて足を引き抜き、槙は脛を撫でた。
「あー、びっくりした。お二人も気をつけてくださいね。本格的に腐ってるところがあるみたいですから。足置いただけで抜けるかも」
「びっくりしたのはこっちだよ。怪我したの?」
 美鈴は目を大きく見開いてこちらを見ていた。声が少し震えている。
「すみません。少し打っただけですから、大丈夫です。行きましょう」
 槙は廊下を照らす。やはり人が住まなくなった家というのは何をしなくとも朽ちていくようだ。少し向こうでは天井から板がぶら下がっていた。足元と天井に気をつけながら慎重に足を進めていく。途中、襖の開いている部屋をいくつか覗いてみたが、どの部屋にも家具はなかった。住人がいなくなる前にきれいに掃除をしたような、そんな様子だった。ゆっくりと廊下を歩いていくと、やがて靴跡は一つの部屋の中へ消えていた。変色した襖がしっかりと閉められている。
「あそこですね」
 鈴音の持つライトが襖を照らす。槙は引き手にそっと手をかける。抵抗もなく開いたその隙間から灯りを中へ向けてみる。何もない、がらんとした六畳ほどの和室だ。
「誰かいる?」
「いえ……」
 答えながら襖を開け放ち、中へ入る。ぐるりと灯りを一周させたが、人の姿はなかった。槙は怪訝に思いながら「変ですね」と呟く。
 鈴音も不思議そうに灯りを部屋中に向けている。槙は部屋をゆっくりと歩き、そして足を止めた。手に持ったライトを入って右側の壁へ向ける。押入れの戸がわずかに開いていた。それに鈴音も気づいたのか、同じように灯りをそちらへ向けた。妙な緊張感が槙たちの周りを包んでいるのがわかる。ごくりと喉を鳴らしたのは美鈴だろう。槙は振り返って二人の顔を見る。薄暗闇に浮かんだ二人の顔はどちらも緊張したものだった。
 槙はふっと息を吸い込んだ。埃っぽくカビ臭い空気のせいでむせそうになるのをなんとか堪えて押入れへ手を伸ばすと、ゆっくり襖を引いた。同時に短い悲鳴が背中に聞こえた。照らされた押入れの奥には小柄な黒い影。影を照らすと、何度も写真で確認した顔がこちらを向いていた。
「辰川沙歩ちゃん、ですよね?」
 槙が声をかけても彼女には何も反応がない。押し入れの隅で膝を抱え、壁に寄りかかるようにして座っている。薄く開けた目は何を見るでもなく、ただ足元へ向いていた。
「沙歩ちゃん?」
「憑かれてるから、話しかけても無駄だよ」
 槙は振り返った。美鈴がしっかりと鈴音の腕を掴んだまま、押入れの中を見つめている。
「落とせる?」
「待って……」
 言って美鈴は視線を動かす。しかし、数秒後にはその表情をしかめた。
「落とせない」
「どうして……?」
「わかんないけど落ちないの。それにこの場所も――気持ち悪い」
「ここにも目が落ちてる?」
 鈴音の問いに美鈴は俯いて頷いた。鈴音はふっと息を吐くと槙に視線を向けた。
「とにかく彼女を連れてここから出ましょう」
「そうですね」
 そう返事をしたものの、沙歩が一人で歩いてくれるとは思えない。槙は沙歩を背負って屋敷から出ることにした。鈴音に手伝ってもらいながら、背中に彼女を乗せる。そうされている間も沙歩はやはり自分から動こうとはせず、声を出すこともなかった。

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