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白い月に歌は響く 第二章①

 朝、アリサは人の声で目が覚めた。

 ――どうして人の声が。ああ、そうか。

 はっきりしない頭の中で納得する。スクリーンをつけっぱなしで寝てしまったのだ。部屋の明かりも点けたままだ。昨日、久しぶりに外を出歩いたうえ、会話を多く交わしたので疲れていたのかもしれない。いや、そんなことよりも、疲れの直接の原因は谷本の車だろう。

 ぼんやりとしたままベッドから起き上がり、スクリーンに表示されている時刻を確認する。朝七時。いつも通りの起床時間だ。

 朝食を食べ、手早く準備を終えると八時。勤務開始時間まであと三十分。

 アリサは昨日準備しておいた抗菌ブーツと掃除道具一式を袋に入れて自宅を出た。寮から署までは歩いて十五分ほど。ゆっくり歩いても余裕で間に合う。アリサはのんびりと歩きながら空を見上げた。すっきりとした青空に薄い雲が流れている。今日も一日、天気は良さそうだ。

 署に到着すると、すでに他の刑事たちが揃っていた。昨日、アリサの変わりに雑用係として着任した今井は、この時間からせっせと資料をファイルに閉じている。その様子を何気なく見ていたアリサに気づき、彼女は「おはようございます」と笑みを浮かべた。反射的に挨拶をかえすと、今井は嬉しそうに話し始めた。

「よかったぁ。島本さんだけですよ、返事してくれたの。ここの人達ってみんな無愛想っていうか、無駄な会話しないんですよね。あ、谷本さんは返事してくれたかな。おう、としか言ってくれなかったけど。前からこうなんですか?」
「え、ええ。そうですね。それが普通だと思いますけど」

 よく話す人だ。三十代以下の者は普通、人とのコミュニケーションを嫌う。幼い頃からほとんど外部と接触を持たなかったからだろう。学校でも必要以上の会話はほとんどなかった。休憩時間はボードでゲームをするか、動画を見る。クラスメイトとお喋りなどしない。それが普通である。しかし、そんな普通が通じない人間がごく稀にいるのだ。きっと昔かたぎな人間に育てられたのだろう。おそらく、今井も。正直、かなり面倒な存在である。アリサは返事をしたことを後悔した。

「なんか、みんなそう言いますよね。なんででしょう? お喋りって楽しくないですか? わたしって昔からみんなに避けられるんですよね。うるさいって言われたり。うちの家族はみんなこんな感じなんですけどね。あれ? その袋って、何が入ってるんです? あ、わかった。捜査に使うんですね。いいなあ。わたしもいつか捜査とかしてみたいなあ。だって最近の事件って――」

 恐ろしいほどの一方的なトークが繰り広げられている。今までこんなに早口で、しかもこんなに長く喋る人を見たことがない。いや、アリサと会話をしていないから恐ろしく長い独り言なのか。誰か助けてほしいが、当然のことながらこんな状況に関わろうとする者はいない。いっそのこと放っておこうと思い、彼女の席から離れようとしたのだが「ちょっと聞いてくださいよ」と呼び止められてしまった。しかも服の裾まで握っている。ここで唯一まともに話を聞いてくれる人間を逃がしはしないという覚悟が感じられた。

 早く解放されたい。

 心からそう願ったとき、部屋のスピーカーから仕事開始を知らせるベルが鳴り響いた。今井は残念そうにスピーカーに目を向けるとゆっくりと手を放す。アリサはそそくさと自分の席に着き、ホッと息をついた。

「さて……」

 森田は読んでいた新聞を机に置いた。

「現在捜査している事件だが、一つ進展があった」

 一気に部屋がざわついた。

「被害者の身元がわかった。データは送っておいたので各自見ておくように。以上」

 捜査員たちは一斉にボードを取り出しながら部屋から出て行く。アリサは席に座ったままボードを開いた。

『氏名 浅谷慎。三十五歳。フリージャーナリスト』

 その下には住所が書かれている。

「よし、俺たちも行くとするか」

 谷本がいつの間にか隣でアリサのボードを覗き込んでいた。

「そうですね。わたしたちは被害者の仕事内容調査が担当です」
「……何?」
「ほら、ここに書いてあります」

 被害者の住所の下にアリサと谷本に対する指示が表示されている。他の刑事たちにも簡潔に指示が出されていた。谷本はそれを見ると大きく舌打ちをした。そして眉間にしわを寄せて「行くぞ」と大股で部屋を出て行く。アリサも抗菌セットの入った袋を握りしめて部屋を出る。後ろから「いってらっしゃい」という今井の声が聞こえた。

 正面玄関に行くと、先に来ているはずの谷本の姿が見当たらない。どこに行ったのだろう周囲を見回しながら駐車場まで歩く。彼は昨日と同じ古い車のそばに立っていた。

「遅い! お前、もうちょっと俊敏に動けよ」

 アリサは謝りながら袋に手を入れる。それを見た谷本は怪訝そうに眉を寄せた。

「何だ? それ」
「消臭抗菌スプレーです。あとブーツ」

 谷本は一瞬呆けた顔をしたかと思うと吹き出すように笑った。

「お前、本当に持ってきたのか? まさか持ってくるとは思わなかったぜ」
なっ! でも谷本さんが言ったんじゃないですか!

 思いがけず笑われたアリサは言い返す。一気に頬が紅潮するのを感じた。顔が熱い。谷本は車の屋根をバンバン叩きながらさらに声をあげて笑う。

「バカ、お前、冗談だろ。わかれよ」

 ――わかるか!

 アリサは心の中で文句を言いながら谷本を睨んだ。その視線に気づいた谷本は咳払いをして車のドアを開けた。しかし、その口元にはまだ笑いが残っている。

「あー、けど、まあ、あれだ。一応、昨日あれから掃除しといた。確かにしばらく掃除してなかったからな。お前が持ってるのと同じスプレーもかけといたぞ、助手席には。それでも気にいらなけりゃ、好きなだけ掃除してくれよ」

 拍子抜けな気分でアリサは助手席を覗いた。確かにきれいになっている。車内の匂いもアリサが持っているスプレーと全く同じである。谷本はどうだ、という表情を浮かべると運転席に乗り込んだ。

 掃除をしたなら、そうメールをくれればいいのにと思いながらアリサも助手席に乗り込む。そういえばボードは使えないと言っていたか。公務員でボードが使えないなど本当に珍しい。

「それにしても、なんで俺が仕事内容調査なんだよ。俺はいつも聞き込み担当だったんだぞ」

 アクセルを踏みながら谷本は不満そうに言った。車は急に加速し、アリサは思わず身体に力を入れる。

「でも谷本さん、ボード使えないから聞き込みできないじゃないですか」
「そんなもの使わなくても実際会って聞いてみればいいだろ」
「実際に会って話を聞くというのは、その相手が不安感を抱くという理由から安易に行ってはならないと聞いています。まずは捜査用ボードでネット上の聞き込みをしてそこから相手を絞り込み、上から許可をとって初めて直接会うことができるんです」

 谷本は深く息を吐いた。

「わかってる、わかってるよ。だがな、ネットじゃ相手の顔がわからんだろ。その内容が本当かどうかもわからない。聞き込みってのは話を聞き、その内容の信憑性を確認しながら行うものだと俺は思ってる」
「そうかもしれませんが、実際にそういう聞き込みによって不安感を与えられ、不眠症になったと訴えられたことがあったじゃないですか」
「あれは聞き込みした奴が馬鹿なやり方しただけだ」
「過去にそういう事例があったということが問題なんです。とにかく、わたしたちは仕事内容調査をしますからね」
「……お前ってバカ真面目だな」

 谷本はアリサを横目で見ながら呟いた。どういう意味かわからないが、与えられた仕事をするのは当然である。少なくとも自分はそう教えられた。自分たちは与えられたことだけをすればいいのだ。余計なことはしてはいけない、と。

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