見出し画像

リンネの目 ⑨『民宿』

 屋敷から出ると槙は沙歩を降ろした。彼女は自分の足で立つものの、やはり言葉はない。ただ、外に出たということは認識したのだろう。ぼんやりと屋敷を見つめている。明るいところで見た彼女はランドセルを背負ったままだった。服もひどく汚れ、手や顔も泥だらけになっている。
「あなたは誰ですか」
 鈴音が彼女の顔を覗きこむように腰を屈めた。やはり何も反応はない。瞬きすらほとんどしない沙歩は、まるで人形のように見えた。鈴音は小さく息を吐くと、彼女の顔についた汚れを手で拭いてやる。
「せっかく見つけても、この状態じゃどうしようもないですね。母親の元に戻しても――」
 病院送りにされるのがオチですと彼女は続けた。あの母親がそんなことをするとは思えないが、しかしショックを受けるだろうことは確かだ。
「目というのは、落ちないものもあるんですか?」
「わかんない。元々、目を落としたことってあんまりないから」
 答えた美鈴は疲れた表情だ。そういえば屋敷の中にも目が落ちていると言っていた。槙は屋敷に視線を向ける。
「ここにも目が落ちてたんですか」
 美鈴は頷いた。
「だけど村の中心部ほどじゃないよ。もう消えそうなものばかり。それでも意思が強くて」
「それは人に憑くような目ということ?」
 しかし美鈴は首を横に振った。
「そういう感じじゃなくて。ああ、そうか。意思じゃないかな。なんだろ、記憶が濃いっていうか。村に落ちてる目は、そんなのばかりで」
 少しでもそれを取り込むとすごく疲れる、と彼女は曖昧に説明する。彼女自身、よくわからないのかもしれない。美鈴はじっと考えるように沙歩を見つめて「もう一度、落としてみようかな」と言った。
「でも美鈴さん、具合悪そうですよ」
「平気、平気。さっきは屋敷の中でポチも集中できなかったのかもしれないし」
 言いながら彼女は沙歩の前にしゃがみこんだ。鈴音も止めようとしないので、大丈夫なのだろうか。槙は頭上を見上げた。空は微かに赤みがかっているが、その光はこの場所まで届いていない。どこかで鳥が羽ばたく音が響いた。
 ふいにため息が聞こえて槙は視線を戻す。美鈴が閉じた目を押さえて立ち上がっていた。
「やっぱり無理みたい。なんなの、これ」
 鈴音の肩を支えにして立ちながら美鈴は力なく言った。
「目が強いってことですか?」
「どうなんだろうね。だけど、気配はやっぱり薄いよ」
「これが誰の目なのか、わかった?」
 鈴音の問いに美鈴は「たぶん」と首をかしげた。
「マッキーが言ってた兄弟のどっちかだと思うよ」
「……それは、まあ、予想はついてたよ」
 鈴音の言葉に美鈴は少し頬を膨らませた。
「はっきりした記憶が見えないんだから、しょうがないでしょ」
 それも変な話だけどねと鈴音は言って槙を見る。
「もう暗いですし、宿に行きましょうか」
「そうですね。とにかく沙歩ちゃんを休ませてあげましょう」
「よし。じゃあ沙歩ちゃんはわたしが連れていってあげよう。ほらランドセル、貸して」
 美鈴は言いながら沙歩の背中からランドセルを下ろした。もう沙歩の目は屋敷に向いてはいなかった。

 宿は村の中心部から少し外れた場所にあった。民宿というだけあって、建物は古民家を再利用したものだ。それでも宿として利用するには部屋が足りなかったのだろうか。生垣に囲まれた敷地内には大きな平屋のほかに三棟ほど小屋が建てられていた。その小屋の周りにも生垣が巡らされ、中の様子はわからないようになっている。庭には本館となっている平屋に向かって飛び石の道が作られており、その途中には小さいながらも池が作られていた。通りすがりに覗いてみると、澄んだ水の中に鯉が数匹泳いでいるのが見えた。
 本館は玄関を上がってすぐ左にフロントカウンターがあり、正面には廊下が続いている。右側の広いスペースにはソファとテーブルが置かれてあった。その床は畳と木板で不自然に区切られている。おそらく部屋の壁を一枚壊したのだろう。声をかけると、すぐに若い女が廊下の奥から出てきた。
「ようこそいらっしゃいました。ご予約の槙様ですね。あちらでチェックインをお願いいたします」
 愛想良く笑った女は坂上と名乗った。まだ二十代中頃のようで、田舎には似合わない、あか抜けた印象だ。フロントに目を向けると、奥から「ようこそいらっしゃいました」と男が一人出てきた。やはり二十代の若者で、胸についた名札には守屋とある。
「あの、予約よりも人数が一人増えてしまったんですが、大丈夫でしょうか。子供が一人なんですが」
 言いながら槙は振り返る。入り口の右側スペースに設置された二人掛けのソファに沙歩と美鈴が座っていた。沙歩の服はあまりにも汚れていたので、車内で美鈴の服に着替えさせていた。少し大きいが、変に思われることはないだろう。沙歩も美鈴も疲れた表情を浮かべている。その傍らで鈴音が無表情に沙歩を見つめていた。
「はい、大丈夫ですよ。じつは今日のお客様は槙様一組だけでして」
 守屋は少し恥ずかしそうに笑う。槙もつられて笑みを浮かべた。
「あ、でも夕食のメニューが人数分しか用意しておりませんで」
 それはかまいません、と後ろで声がした。振り返るといつの間にか鈴音が立っていた。彼女は槙が書いている宿帳を覗き込みながら「少しずつ分けて食べればいいですし」と言う。すると近くで話を聞いていた坂上が「簡単なものでしたら」と控えめに口を開いた。
「オムライスくらいでしたら作れると思うんですが」
 坂上は言いながらソファに座る二人に顔を向けた。槙もそちらに視線を向けて頷く。
「じゃあ、お手間でなければお願いします」
「かしこまりました。何もない宿ですが、ごゆっくりお寛ぎください」
 守屋はそう言うと礼をしてフロントの奥へ下がって行った。
「では、お部屋にご案内しますね」
 坂上が明るく笑みを浮かべてフロントから部屋の鍵を二つ取る。
「美鈴、行くよ」
「うん。行こう、沙歩ちゃん」
 美鈴は沙歩の手をとって立ち上がった。不思議なことに沙歩は美鈴の言うことには素直に従うのだ。しかし、鈴音や槙が言うことは聞こえていないかのように反応がなかった。
「お部屋は隣同士でご用意させていただきました」
 そう言って彼女が案内してくれたのは本館の右側に建てられた小屋のうちの一つだった。すべての小屋は本館と外廊下で繋がっているのだと坂上は言った。
「こちらの宿は若い方たちで経営されていらっしゃるんですよね」
「ええ、そうなんですよ。この辺り、昔は住人も多かったらしいんですが、それもだんだん減って空き家ばかりになってたんです。空き家の多くは再開発のときに壊されたんですけど、ここは該当地区ではなかったのでそのまま。それで再利用を」
「この離れの部屋は増築を?」
「ああ、いえ。元から三つ建ってたんですよ。部屋数があるから宿にピッタリだということになって、それで改装したんです」
 あまりお客さん来ないんですけどね、と彼女は笑った。そしてすぐにハッとしたように眉を上げる。
「すみません。お客さんに言うことじゃなかったですよね」
 いえ、と槙は苦笑する。案内された小屋に部屋は二つしかなかった。どちらも和室で二十畳ほどの広さだ。テレビや冷蔵庫などはもちろん、バストイレは別室になっている。掃除も行き届いており、感じのいい部屋だった。部屋の前は小さな庭のようになっており、ガラス戸のすぐ近くに石で造られた水鉢が一つ置かれてあった。中を覗くと赤い金魚が数匹、すいすいと泳いでいる。
「きれいな部屋だね。畳もいい匂いがするし」
 美鈴が声をあげた。坂上は頷く。
「まだオープンして数年ですから、設備も新しいですよ。大浴場と食堂、あと売店は本館にあります。といっても、売店にはおつまみやお菓子くらいしか置いてないんですけど」
「あー、だってお土産って感じのところじゃないもんねえ」
「美鈴、失礼だよ」
 坂上は「いえ、いいんですよ」と笑う。
「本当のことですから。この村には、これといった目玉がないんですよ。観光にはイマイチな場所なんですよね」
「目はたくさん落ちてるけどね」
「え?」
 坂上が不思議そうに眉を上げる。
「いえ、気にしないでください。それより部屋はどうしますか? 僕たちがこっちであなたは隣でいいですか?」
 鈴音は横目で美鈴を睨むようにしてから言った。
「そうですね。俺はどちらでも。沙歩ちゃんは二人と一緒の方がいいですよね」
「えー。じゃあマッキーってば一人部屋じゃん。いいなぁ」
「なんだったら美鈴も隣に行っていいよ」
「え……。それは、女の子としていかがなものかと思うのでやめておきます」
 美鈴の顔が一気に赤くなったのを見て鈴音が口の端を上げた。
「ああ、そうでした」
 美鈴と鈴音のやり取りを微笑みながら眺めていた坂上が思い出したように言った。
「夕食なんですが、お部屋で食べますか? 食堂でもお部屋でもお好きな方を選んでいただいてるんですが」
「だったら部屋で食べようかな。こっちの部屋で」
 美鈴が誰に相談することもなく即答した。たしかに部屋で食べたほうがいろいろ話もしやすいだろう。
「そうですね。じゃあ、ここでお願いします」
「わかりました。では、時間になりましたらお運びしますね」
 坂上はそう言うと一つ礼をして部屋から出て行った。
「それじゃ、俺は隣の部屋に」
「夕飯まで自由行動?」
 槙は腕時計を確認する。指定した夕食の時間まで一時間ほどしかない。
「そうですね。そんなに時間もないですし」
 頷きながら槙は沙歩を見る。彼女は何をするでもなく、部屋の隅に立っていた。その幼い肩を美鈴が軽く叩く。
「大丈夫。わたしたちで面倒みるから。それに、もう一回目を落とすの試してみたいし」
 彼女は足元を見下ろした。
「ここはほかの場所よりもマシだから、なんとかなるかも」
 ほかの場所よりもマシということは、つまりここにはそれほど目が落ちていないということなのだろうか。そもそもどうして、この村にはそんなに大量の目が落ちているのだろう。そのことと沙歩に憑いている目が関係していると思うのは強引だろうか。考えながら、槙は隣の部屋へと移動した。

 夕食は山菜や牛肉などの和食を基調とした食事だった。温泉旅館ほど豪華なものではなかったが、それでも宿泊料を考えると十分だ。沙歩の前に置かれたオムライスも卵がふわりとして美味しそうだった。
「なんかさ、思ったよりもいい宿だよね。ここ」
 料理を口に頬張り、すっかり上機嫌の美鈴が言った。食事のお陰だろうか、彼女は少し元気になったように見える。槙は頷いた。
「本当ですね。部屋もきれいだし、料理も美味しいですし」
「いい宿なのに、貸し切り状態だよね。いつもこうなのかな」
「まあ、こんなところに宿を作っても繁盛するはずもないからね。さっきあの人も言ってたように、近くに観光地があるわけじゃないし。料理は美味しいけど、豪華なわけじゃないしね。若い人たちが村おこしを頑張ってるってところだろうけど……」
 槙の隣では鈴音が正座で食事をしていた。まったく足を崩す様子もない。しびれたりしないのだろうか。そんなことを思っていると、彼女が横目でこちらを見てきた。
「なにか?」
「あ、いえ、何も。ところで美鈴さん」
 美鈴は牛肉を口いっぱいに入れたまま、顔をこちらに向ける。
「沙歩ちゃんの目、どうでしたか?」
「あ、うん。やっぱりダメだった」
 美鈴は言って少し目を伏せる。
「そうですか……。あの、この村、目がたくさん落ちてると言ってましたけど、そういうことってよくあることなんですか?」
「あるわけないよ。こんなの、本当に気持ち悪い……」
「だけど、この宿周辺にはそんなにないんだ?」
 鈴音の言葉に美鈴は頷いた。
「まったくってわけじゃないけど」
「それは、すべて普通の目なんですか。つまり、えーと、憑くタイプのものじゃない」
 美鈴は再び頷く。そして首をかしげた。
「この村って人口少ないはずでしょ。それなのにどうしてあんなに落ちてるのか。いや、人が多い街だってあんなことはないんだよ。まるで――」
 彼女は言って眉を寄せる。言葉が出てこない。そんな様子だ。
「わざと落としてるみたい?」
 鈴音が言った。それだよ、と美鈴は鈴音を指差す。
「ほんと、そんな感じ。片っ端から落としてるみたいな」
「それはお年寄りが多いから、じゃないですよね」
 年長者には物忘れが激しい人も多い。もしかしたら、それも目を落としているせいではないか。そう思ったのだが、美鈴と鈴音は同時にその考えを否定した。
「老齢の人は脳の活動が鈍くなりますよね。脳の活動が鈍くなれば記憶の器も小さくなるんだと思います。目が落ちているわけではありませんよ」
「そうだよ。マッキーの発言はあれだよ。差別発言だよ。注意するように」
 美鈴は子供を叱るように眉を寄せて箸の先をこちらに向けた。
「すみません。でも、じゃあどういうことですか? わざと落とすって、そんなことできるものなんでしょうか」
 すると美鈴と鈴音は首をかしげた。その動きがあまりにも同じで槙は思わず笑ってしまう。
「なに、どうしたの?」
 美鈴が不思議そうに言う。
「いえ、何でもありません。けど、落ちてる目は一人分じゃないんですよね」
「うん。一人があんなに目を落としてたら、とても普通に生きていけないと思うよ」
 美鈴は嫌なものを見たように顔をしかめる。それを聞いて「たぶん」と鈴音が呟いた。彼女は左手に持った箸に白飯をのせたまま、じっとそれを見つめていた。
「意識的に落としてるんじゃないかな」
「意識的……?」
「忘れたい。覚えていたくない。思い出したくない。ずっとそう思っているとしたら――なんていうのかな、自分の中からその記憶を追い出してるみたいな」
 鈴音は言って白飯を口に運んだ。
「なるほど。それはあるかもね。強烈な記憶っていうのは、頭のどこかにこびりついちゃってるから、一度忘れても何かのきっかけでまた蘇ってきちゃうし。だから思い出すたびに、追い出してるってことかな」
「そんなことが……」
 できるものだろうか。槙にも思い出したくないようなことはあるが、それを一度でも完全に忘れたということはない。そう言うと鈴音は「それは」と箸を置いた。
「その記憶があなたにとってさほど大事なことではないからですよ」
「大事なこと?」
「つまり、それを思い出として持っていても生きることに支障がない。思い出して嫌だなと思うことはあっても、それのせいで精神を患うことはない。ただ嫌悪感がある強くて忘れられない記憶、それだけだということです」
 たしかに、それを思い出して気持ちが沈むことはあるが、そのせいで何が起きるというわけではない。
「ではこの村にいる人たちの多くが、それを思い出すことによって生きることになんらかの支障が出るような、そんな記憶を持っていると?」
 かもしれないという話ですと鈴音は言った。彼女の視線はじっと美鈴に向けられている。美鈴は自分の前に置かれた料理を食べ終え、隣に座っている沙歩を見ている。沙歩は座ったままで料理に何一つ手をつけていない。
「沙歩ちゃん、これは食べなきゃダメだよ。オムライス。ほら」
 美鈴はスプーンを沙歩の手に握らせる。沙歩は一度ゆっくり瞬きをすると、素直にそれを食べ始めた。
「声は聞こえてるんですよね」
「美鈴の言うことしかきかないですけどね」
 それもやはり彼女が憑かれているからなのだろうか。美鈴はじっと沙歩を見つめながら「落とすのはできなかったけど」と口を開いた。
「記憶を探ってみようかな。昼間の雰囲気じゃ、この村の人たちって口が堅い感じだしさ」
「探るって、沙歩ちゃんに憑いてる目の記憶ですか?」
「それもだけど、あとは村に転がってるのも」
 それは賛成できないよ、と鈴音が顔をしかめた。
「その辺に転がってる目には極力近づかないほうがいい」
「大丈夫だよ。何も全部見るわけじゃないんだから。どれか一つだけ見て、沙歩ちゃんに憑いてる目と関係あるのかどうか調べる。それならいいでしょ?」
「よくはないけど……」
 鈴音は言いながらもため息をつく。やるなと言っても美鈴はやるのだろう。なんとなく、槙にも彼女の性格がわかってきた。鈴音はもう一度深くため息をついた。
「余計な情報を取り込まないように、ポチに言うんだよ」
「大丈夫、大丈夫」
 美鈴は笑うと、ふと真面目な表情になって鈴音の前に並んだ皿を眺めた。そして「食べないの?」と上目遣いに聞く。鈴音は答えるかわりに自分の皿を彼女の方へと移動させていく。美鈴は満面の笑みで食事を再開した。その隣で沙歩は黙々とスプーンに乗せたオムライスを口へ運ぶ作業を繰り返していた。

前話   次話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?