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白い月に歌は響く 第二章③

 アリサはレポートの残りを仕上げるべく、無心でキーを叩いていた。谷本はデスクに頬杖をつき、暇そうにこちらの作業を眺めている。朝礼が終わってから「レポートなんて早く終わらせちまえ」と繰り返し言ってきては部屋をうろつき、資料を読み、そしてぼんやりとデスクに座ってはこちらを眺めたりする。どうやらこの一昔前の刑事は大人しくデスクに座っているということが耐えられないらしい。しかし、早く終わらせたからといって次の指示がくるとは限らない。ただでさえ森田は谷本を現場から遠ざけたがっているのだ。

 つまり、指示待ち状態となる可能性が高い。

 そうなると次の捜査会議が終わるまで、実質的に休暇状態となってしまう。かといってレポートの仕上げを遅らせ、谷本の機嫌を損ねるのも無意味と思えるのでアリサはキーを打ち続けているのである。

 十二時まであと十分。ようやくレポートが仕上がった。自然と笑みを浮かべながら、さっそく森田のボードへ送信する。それを見ていた谷本は肩をほぐしながら立ち上がった。

「やっと終わったか。ったく、肩凝っちまったじゃねえか。腹減ったから俺は昼飯に行ってくるぞ」

 いってらっしゃいと見送ってからアリサはボードを閉じた。そして給湯室でコーヒーを入れ、あらかじめ買っておいたパンで昼食をすませる。味気ないが昼は食べないと言ってしまった手前、外で食事をするわけにもいかない。ばったり谷本に会ってしまっては何を言われるかわかったものではない。
 アリサがモソモソとパンを頬張っていると森田に呼びつけられた。レポートに何か不備でもあったのだろうか。首を傾げながら森田のデスクへ向かうと彼は珍しく真剣な表情でボードのモニターを睨みつけていた。

「これは本当か?」

 何を聞かれたのかわからず黙っていると、彼はもう一度繰り返した。

「このレポートは本当か?」
「はい」

 一体どの記述を疑っているのかわからなかったが間違った情報は入れていない。アリサは素直に頷いた。

「そうか……。ご苦労だった。今日はもう上がっていいぞ」

 厳しい表情のまま森田は言った。

「え、次の指示は……?」
「捜査すべきことがでてきたらまた指示を送る。今日は上がれ。谷本にも言っとけ」

 そう言うと森田はボードへ入力を始めた。上層の者へメールするのだろう。

 ――やっぱり。

 思いながらアリサはデスクに戻った。予想通り、指示待ちになってしまったのだ。谷本の不機嫌な顔が目に浮かぶ。憂鬱な気持ちで谷本が戻ってくるのを待っていると、予想外に早く彼は帰ってきた。アリサは近づいてくる谷本に会釈しながら、意を決して口を開いた。

「あの、今日はもう上がっていいそうです」
「なに?」
「次に捜査すべきことがあればまた指示を送るから、今日は上がれとのことです」

 アリサは言いながら首をすくめた。きっと怒鳴られる。そう思ったのだが、谷本は予想に反して「そうか」と頷いただけだった。

「そんじゃ、俺は帰るわ」

「え……?」

 呆気にとられたアリサを置いて、彼はさっさと帰宅してしまった。

 ――訳がわからない。

 谷本が出て行ったドアを見つめていると後ろから声をかけられた。

「島本さんは帰らないんですか?」

 振り返ると今井が目を輝かせている。慌てて帰る準備を始めたアリサに、彼女は猛烈な勢いで話し始めた。

「いやー、さっきの島本さんのキーボードさばき凄かったですね。わたし、キーボードは苦手だから普段は音声入力にしてるんですけど、やっぱキーボード使えた方がカッコイイですよね。練習してみようかな。やっぱりあれですか。島本さんは昔からキーボード派? ですよね。じゃなきゃ、あんなに早く打てないですよね。今度、早い打ち方教えてくださいよ。あ! そういえば、谷本さんがボード使ってるの見たことないな。使えないんですかね? そうだ。端末といえばこの事件の被害者のボード、結局IDしか分からなかったそうですよ。システム修復不可能だったんですって。まあ、あれですよね。プロフィールだけ分かっただけでもすごいことですよね。そう! すごいっていえば――」

 あまりに一方的な彼女の話にうんざりしていると思わぬところから「今井!」と声がとんできた。

「うるさいぞ! 少しは静かにできねえのかっ!」

 今井も予想していなかったところからのクレームだったらしく、目を丸くして言葉を止めた。森田は谷本にも劣らないほどの不機嫌な表情で今井を睨んでいる。そして、その目をアリサに向けると厳しい口調のまま「島本も早く帰れ!」と言った。

 こんな様子の森田を初めて見た。あまり感情を表に出さないタイプの人間だと思っていたのだが。虫の居所が悪かったのかもしれない。なんにせよ、今井のトークを止めてくれたことに感謝しながらアリサは部屋を出た。

 それにしても、とアリサは思う。森田の様子も気になるが谷本の様子も気になる。なぜあんなにあっさり引き下がったのだろう。いつもの谷本らしくない行動だ。普段なら「次の指示を出せ!」と課長に詰め寄るはずだ。しばらく考えたが答えは出ず、どうして谷本のことを考えねばならないのかというところに考えが至り、とにかく寮へ帰ることにした。

 外に出ると心地よい風が穏やかに吹き抜けた。今日も天気は快晴。季節は冬だが、最近は冬と秋の区別がつきにくい。子供の頃の冬は寒く、稀に雪も降った記憶がある。しかし、ここ数年は雪を見ないどころかコートすら着ていない。このままいくと、おそらくそのうち冬という季節はなくなるのだろう。

 寮に戻ったアリサは、コーヒーを用意してスクリーンをつけた。自然と深いため息が漏れる。とても久しぶりの休日という気がする。実際、休日は週に二日はあるはずだが、谷本と組んでからの三日間がとても長く感じられた。

 ――やっぱり、わたしは捜査に向いていない。

 アリサはしみじみと感じていた。一人での行動には慣れているが、他人と行動するのはいつもの数倍は疲れる。学生時代から団体行動は苦手なのだ。それはアリサだけでなく、おそらく同年代や今の子供たち全員がそうだろう。
 スクリーンでは昼のワイドショーが芸能ニュースを伝えている。全く話が分からない。興味もなかったのでチャンネルを変えようとしたとき、ふと手を止めた。聞き覚えのある曲が流れてきたのだ。たしか二日前、眠気に襲われながら耳にしたあの曲だ。ワンフレーズで音は消えてしまったが、アナウンサーが笑顔で曲を紹介している。どうやら今流行っている歌手の新曲らしい。

「MIRAI moon」

 アリサは声を出して読み上げた。聞いたことのない名だった。だが、この曲だけはなぜかとても心に残る。発売日は二日後となっている。今まで音楽を買ったことはないが、試しにデータを購入してみようかと番組のデータを表示させた。そこには番組内で紹介された曲のリンクが並んでいた。知らない曲ばかりの中からMIRAIの曲だけを選んで会計を行なう。
 これで二日後には自動的にあの曲が送られてくるだろう。アリサはスクリーンを消すとボードを開き、森田へ送信したレポートを表示させた。あらためて読み返してみるが、一体どこに森田が興味を持ったのかわからない。たいした情報のない内容が長々と書かれているだけだ。

被害者は警察の秘密なるものを取材中に殺害されたと思われる

 締めくくりの一文。問題があるとすれば、やはりこの部分だろう。少し調べてみようか。考えてからすぐに首を横に振った。好奇心のまま行動するとろくな事が起こらない。警察に入ったばかりの頃、好奇心は抑えろと教わったではないか。アリサは小さく息を吐いてボードを閉じた。

 次の日は予想通り何の指示もなく、朝礼終了後に帰宅となった。指示がなくとも朝礼だけは出なくてはならない。指示待ちとは、言ってみれば有給休暇のようなものだ。給料は出るが仕事はない。しかし、給料は出るのだから一応出勤しなければならない。税金泥棒とは、まさにこのことだなと思う。

 谷本は、この日も文句を言うことなく帰ってしまった。

 その次の日も同様に谷本はおとなしく帰って行った。妙に思いながら寮へ帰ったアリサがボードを開くと一通のメールが届いていた。そういえば、あの曲の配信日は今日だったはずだ。期待してメールを開いたが届いていたのは曲ではなかった。知らないアドレスからのメール。アリサにメールがくることは滅多にない。まさか仕事の指示がきたわけではあるまい。そう思いながらメールを開くと、思いがけない人からのものだった。

『うまく届いていれば返信してくれ。谷本』

 アリサの知り合いに谷本という人物は一人しかいない。ボードは使えないと言っていたはずだが。怪訝に思いながら返信する。

『ちゃんと届いてます。一体どうしたんですか。ボード使えなかったはずでは?』

 しばらく待ったが返事が来ない。十五分後、ようやく返信があった。

『この数日で勉強した』

 数日、ということは指示待ちを命じられてからということだろう。

『一体何のために?』

 また返事が遅い。谷本が音声入力を使っているとは思えないので、おそらく入力はキーボードだろう。二、三日で早く打てるようになるとは思えない。今度は二十分後に返事がきた。

『ある事を調べるために。教えてほしいんだが、他のボードからデータを受け取るにはどうしたらいい?』

 いったい何を調べていたのだろうと不思議に思いながらアリサはデータ受信の仕方を教えてやる。それきり谷本からの返信はなかった。
 夕方頃になって、ようやく音楽データが配信されてきた。さっそくデータを再生させる。静かなメロディが流れ始めた。

 サビまではスロウテンポ、そしてサビからは少し曲調が変わる。

 この歌手の声はなぜか耳に残る。しばらく経つと無性に聞きたくなる。そんな、不思議な声だった。

 メールには公式ホームページへのリンクが貼り付けてあった。アリサは曲を再生させたまま、ホームページにとんでみる。しかし、そこにはMIRAIという名とディスコグラフィしか載っていなかった。年齢や写真、この歌手に関する記述は何もない。首を傾げながら歌手名で検索をかけると、非公式のファンページがいくつか引っかかった。そのうちの一つに入ってみたが、やはり歌手名とディスコグラフィしか載っていない。管理人のコメントには『本名はおろか、年齢、出身地、素顔も誰も知らない正体不明のカリスマシンガー』という一文の下に『求む! 情報!』と書いてある。正体不明ということは、今まで一度も公の場に出たことはないのだろうか。

 発表されている曲は全部で五曲。その全てが配信ランキング一位を記録していた。デビューは約一年前。本人が出ずともここまで売れているのは音楽性だけでなく、会社の宣伝方法が良いのだろう。事実、アリサも会社の宣伝にはまったようなものである。それでも構わない。久しぶりに音楽を聞いて穏やかな気持ちになったのだから。アリサは曲をリピートさせながら夕食の準備を始めた。


☽ ☽ ☽ ☽


 彼女は椅子に座ったまま黒沢の声を聞いていた。部屋に入って来てからずっと喋り続けている。時計がないので分からないが、おそらくもう十五分は経っているだろう。

「いやー、でも本当にすごいよ。過去最高だ。海外からのアクセスもすごいんだよ」

 ひとしきり話し終えると、また始めに戻る。まるで壊れたデータのようだ。ぼんやりと思いながら部屋の壁を見つめていると、急に黒沢が心配そうな顔を作って彼女を覗き込んだ。

「大丈夫?」

 彼女は何のことかわからず首を傾げた。

「ほら、この前すごい苦しそうだったじゃない」

 ――ああ、そうだった。

 彼女は思った。しかし、なぜあんなに頭が痛かったのか覚えていない。黒沢は彼女の顔を見て頷いた。

「まあ、顔色もいいみたいだから大丈夫か。あ、そうだ。これ新曲のデータディスク。置いとくから聞きたかったら聞いて。じゃあ、新曲できたらまた呼んでね。おやすみ」

 上機嫌な黒沢は鼻歌を歌いながら部屋を出て行った。結局、何を言いたかったのかわからない。彼女はテーブルの上に置かれたディスクを手に取り、何も置かれていないデスクの引き出しに収めた。それから窓を開ける。柔らかな夜風だ。久々に外の空気を吸い込むと少し苦い感じがした。

 彼女は歌った。

 その曲は、昔どこかで聞いたことのある歌。懐かしい歌。まだ幼い頃、誰かと一緒に歌っていた気がする。あれは誰だったのだろう。

 思い出せない。

 暗闇の中で歌声だけが、響いていた。

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