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リンネの目 ⑥『追跡』

 アパートの前まで来て、双子は呆然とその建物を見上げていた。数日前に来たときは古いアパートだというくらいの認識しかなかったせいだろう。実際、槙自身もそのアパートの外観にあらためて驚いていた。
 入り口は記憶の通り、立ち入り禁止の柵で封鎖中。入り口の左側には錆びて変色した郵便受けが六個並んでいた。その奥には二階へ続く階段。一階の部屋へ続く廊下は階段の横を抜けて、突き当たりを右に曲がっていた。元は白かったのだろう壁は黒く変色し、上から下まで大きくひび割れている。さらに何かの植物の蔦が地面から屋根へ向かって延びていた。一階部分の窓は侵入を防ぐためか、内側にベニヤ板が立てられている。そんなボロボロな外観にトドメを刺すように、アパートは全体が傾いているように見えた。
「……幽霊出るんじゃないの、これ」
 アパートを見上げたまま美鈴が呟いた。近所の子供たちの間ではお化けアパートと呼ばれているらしいと教えると、彼女は嫌そうに顔をしかめる。その隣で鈴音がへえ、と少し高い声をあげた。
「幽霊は別にいいけど。これ、入ったら崩れそうだね」
「崩れてもいいけど、幽霊は嫌だよ!」
 そんな声を聞きながら、槙はそっと柵を越えてエントランス部分に立つと天井を見上げた。やはり細かくひび割れがある。さすがにすぐ崩れてくるということはないだろうが、振動を与えればコンクリートの欠片が落ちてくることはあるかもしれない。
「まあ、別に幽霊が出ようが崩れようが関係ないよ。僕たちが入る必要なんてないんだから」
 槙は不思議に思って振り返り、そして「あ、そうですね」と納得する。自分たちが中に入ったところで、そこに何があるわけでもないのだ。槙は再び柵を越えてアパートの前に戻った。
「それでもなんか嫌だよ。気分がさぁ」
「で、事件があった部屋はどこなんでしょうか」
 どうやら美鈴のことは放っておくことにしたらしい。槙はアパートを見上げた。三次は二階の部屋と言っていたが、どの部屋なのか確認していない。そう言うと、鈴音は小さく頷いた。
「小さいアパートでよかったですね。美鈴、あの三つの部屋のどれかだってさ」
「えー、ポチも行かせたくないなぁ」
「それじゃあ、帰る?」
「えー、それは――」
 美鈴は横目で槙を見てから「マッキーに悪いし」と小声で言って力なく肩を落とした。
「もう。わかったよ。ポチ、行ってきなよ」
 半ば投げやりな感じで美鈴は右手を振ると、不安そうにアパートを見上げた。
 槙は身を返して周囲に目を向けると、近くのマンションから若い男が出てきた。男は怪訝そうな視線をこちらへ向けながら遠ざかっていく。
「……少し移動したほうがいいかもしれませんね。なんか、俺たち浮いてますし」
 この近辺の住人でもない人間が、いつまでも同じ場所に留まっていては怪しまれても仕方ない。そう思ったのだが双子は不思議そうに顔をこちらへ向けた。
「浮いてる? そうかな」
「別に。自意識過剰なんじゃないですか」
「え、自意識過剰……」
 軽くショックを受ける槙を置いて二人は駐車場に設置された自動販売機の前に移動する。
「ねえマッキー、ジュースおごってよ」
 美鈴が声を投げてくる。ついさっきまで何か飲んでいなかっただろうか。そう思いながらも、槙は財布を取り出した。
「ところでさ、沙歩ちゃん探すのってマッキーの個人的な依頼だって言ってたじゃん?」
 美鈴は並んだボタンを迷うように指でなぞり、炭酸飲料のボタンを押した。ガゴンと音が響き、缶が出てくる。
「でも、警察官って忙しいんでしょ? 仕事サボっちゃっていいわけ?」
「別にサボってるわけじゃないですよ。ちゃんと仕事をしてから来てますから」
 普段から仕事を溜めずにこなしてきたおかげだろう。今のところ、仕事が溜まる気配はなかった。そう伝えると鈴音がふうん、と頷いた。
「よほど暇な課なんですね」
 曖昧に笑って答えていると、ふと美鈴がアパートへ視線を向けた。
「きた?」
 鈴音の問いに美鈴は頷くと、すっと目を閉じる。こうしてポチから情報を受けているのだろう。一見すると、ただ目を閉じて立っているだけだ。しかし、なぜか彼女の回りの空気が止まっているように感じるから不思議だ。情報を受け取ると簡単に言うが、実際はどのようになっているのだろうか。頭の中が繋がっているのではないかと彼女は言っていた。それはポチと美鈴の脳内の神経が繋がっているということだろうか。一人考えてみたが、もちろん答えが出るはずもなかった。
 数十秒ほどして、美鈴は静かに目を開けた。
「どうでしょうか」
 なんとなく緊張しながら尋ねると、美鈴は小さく唸った。
「どうだったの」
 鈴音が問うと、ようやく彼女は「うん」と答えた。
「沙歩ちゃんがこのアパートに入ったのは確かみたい。こないだポチが食べ零した気配が残ってた。なんか、家に帰りたくなくて隠れ家的な場所を探してたみたい。それと他の気配もあった。たぶん、このアパートに残ってた目の気配」
 本当ですか、と声を大きくした槙に美鈴は「だけど」と付け加える。
「ちょっとよくわからないんだよね」
「わからない? 彼女はこのアパートで憑かれたんじゃないの?」
「うん。憑かれたのは確かだと思う。その目の気配は移動してるし。だけど、その肝心の気配がさ――」
 薄いの、と彼女は言った。その言葉に鈴音も怪訝そうに眉を寄せる。
「憑いてるのに薄いの?」
「そうなの。ぼんやりしててさ。なんか、矛盾してるよね」
「その目が古いからじゃないですか?」
 もしこのアパートで起きた事件で死んだ者の目ならば二十四年も経っていることになるのだ。もしかすると消えかかっていたのかもしれない。しかし鈴音は「わかりませんね」と腕を組んだ。
「さっきも言った通り、僕たちはそんな年月の経った目を知りませんから。だけど、気配が薄いというのはやはりそういうことなんでしょう。彼女に憑いた目は、二十四年前の事件で死んだ者の目という可能性が高い。疑問なのは、気配が薄くなるほど消えかかっていた目が人に憑くことができるのかということです」
 そうだよねえ、と美鈴も頷いた。
「もし憑くことができても、すぐ落ちそうだよね。記憶が薄くなった目に、人を何日も操れるとは思えないし」
「でも、実際に彼女は薄い目に憑かれたまま何日も行方をくらましている。謎だね」
「だねえ」
 気配を追うことはできないのか尋ねると美鈴は足元に目を向けた。
「できないことはないと思うけど。どこまで辿れるかなぁ」
 彼女は手に持った缶をくわえるように口に当てた。
「そういえば惣付のアパートの近くで目撃されてたんでしたよね、彼女」
 ふと思い出したように鈴音が言う。槙は頷いた。
「じゃあ、そこを集中的に探してみよう」
 その言葉に、美鈴は自信なさそうに頷いた。そして三人は来た道を戻って交差点へ向かう。
「あのさあ、なんていうか要領悪いよね、わたしたち。行ったり来たり、何してんのって感じなんだけど。しかも歩きでさ」
 疲れたように美鈴は肩を落とした。コンビニのゴミ箱に飲み干したジュースの缶を放り投げるとため息をついて背を丸める。
「仕方ないよ。それが美鈴の探し方なんだから」
「わたしじゃないよ。ポチの探し方だよ。あー、もう」
めんどくさくなってきた、と小さな声が聞こえた。
「僕は最初からめんどくさいよ。それで、気配は?」
 美鈴は少し目を閉じてから左の方を指差した。
「こっち」
 横断歩道を渡るわけではないようだ。フラフラと歩く彼女の後ろに続くが、すぐにその足は止まってしまった。美鈴は腰に手をあてて眉を寄せる。
「消えちゃった」
 気配がなくなったのだと彼女は言う。そこは目抜き通りを半分ほど来たところだった。すぐ近くにはバス停がある。
「バスに乗ったんでしょうか」
 言いながら時刻表を確認する。行き先は四ヵ所。さすがに大通りだけあって本数が多い。
「それか、タクシーかもしれませんよね」
 鈴音がうんざりしたように言った。たしかにその可能性もある。まだ小学生の子供が一人でタクシーに乗れば、運転手の記憶にも残っていることだろう。しかし、タクシー会社がわからなければ調べることもできない。
「警察官なんだから調べられないの?」
「残念ながら、警察としての捜査ではないので……」
 そうだよねえ、と美鈴は息を吐く。彼女の横顔はひどく疲れて見えた。顔色が悪い。心配になって見つめていると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「いえ、あの、顔色が良くないようなので」
 美鈴は「え、そうかな」と鈴音を見た。鈴音はわずかに眉を動かす。
「今日はもう終わったほうがいいね。手詰まりだし。やっぱりポチは人探しに向いてないんだよ」
「そんなことないよ。ここまで辿れたじゃん」
「気配の拾い過ぎでダウン寸前でしょ」
「ダウン?」
 槙がおうむ返しに尋ねると、鈴音は頷いた。
「気配を辿るということはポチが記憶を取り込んでるってことです。わずかな記憶でもそれは他人の記憶です。そんなものが連日ずっと頭に入ってきたら疲れるのも当然ですよ。テレビのながら見でも、長時間はできないでしょう?」
 たしかにその通りだ。見たくもない他人の記憶を強制的に頭の中へ送られてくる。想像しただけで気分が悪くなりそうだった。
「すみません。考えてみれば、そんな大変な作業を無遠慮に頼んでしまって……」
「そんな大げさだよ」
「いえ。今日はもう休んでください」
「でも、早く見つけたいんだよね?」
 美鈴は青白い顔に心配そうな表情を浮かべた。たしかにその通りだが、このまま何も手がかりのない状態でポチと美鈴だけを頼りに探すわけにはいかない。
「俺は一度戻って、あのアパートの事件について詳しく調べてみます。情報があれば沙歩ちゃんがどこへ向かったのか検討がつくかもしれませんし」
「そうですね。では、調べが終わったら連絡をください」
 槙は頷いて美鈴を見る。彼女は疲れた顔に笑みを浮かべていた。
「送っていきましょうか。家まで」
 しかし、二人は揃って首を横に振った。
「マッキーは早く仕事に戻りなさい」
 じゃあね、と美鈴は明るく手を振って頼りない足取りで歩いて行く。鈴音はそんな彼女を支えるようにしながら去って行った。
 二人と別れて槙は失踪捜査課へ戻った。部屋には誰の姿もない。課長は午後から会議があると言っていたのを思い出す。他の同僚はまだ戻ってきていないようだ。今のうちに情報を集めてしまおうと、槙は携帯電話を開いた。番号を呼び出し、数回のコール音のあと「なんだ、槙か。どうした?」と聞きなれた声がした。
「あ、三次さん。お忙しいところすみません。実は、今朝言っていた二十四年前の事件について、もう少し詳しい情報が必要になりまして」
「なりましてって、お前――」
 三次の苦笑しているような声。外にいるのか、車のエンジン音が微かに聞こえる。
「なんだよ、ただの好奇心じゃないんだな? なに調べてるんだよ。そっちの捜査か? いや、だったら自分で資料調べるはずだもんな。個人的な用件か」
 さすがは先輩ですねと槙がため息をつくと、電話の向こうで笑い声が響いた。
「お前はうっかり口が滑るんだよな。それ、直したほうがいいぞ」
 それで、と彼は続けた。
「個人的に、お前は何をしてるんだ」
「人探しです」
 こうなっては隠すわけにもいかない。槙は双子たちのことだけ伏せて事情を正直に話すことにした。
「なるほどな。そりゃあ、母親に真正面からそんなふうに頼まれちゃ、じっとしてられないよな。けど、なんでその子と二十四年前の事件が関係あるんだ?」
 それはですね、と答えながら槙は考える。
「――彼女が最後に目撃された場所が、ちょうどその住所だったんです。彼女とその場所と、何か関わりがあるのかと思いまして」
 へえ、と三次が言う。そして息を吐くような音が聞こえた。
「なんか怪しいが、まあいいさ。あとで調べてメールしてやるよ」
 礼を言って通話を終える。なんとなく嘘をついてしまったような気分で心苦しい。
「……すみません」
 手に持った携帯電話に謝って、槙は仕事に戻った。

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