見出し画像

リンネの目 ③『目』

 二杯目の紅茶を口に含みながら、槙は向かいに座る美鈴を眺めていた。まだケーキを食べている。あれから約一時間。どうがんばっても食べ切れなかった槙の分まで彼女は食べていた。どういう胃袋をしているのだろう。あんなに生クリームを食べて気持ち悪くならないのだろうか。
「すごいですね」
 一時間前と同じことを、槙は無意識に呟いていた。美鈴が顔を上げる。
「なにが?」
「ケーキ、よくそんなに食べられるなと思いまして。気持ち悪くなりませんか?」
「全然。けど、さすがにちょっと満腹になったかなぁ」
「当分、ケーキは食べなくても大丈夫だね」
 教室の後ろから鈴音が言った。彼女は宿題を終えたのかテーブルの上を片付けて首の筋を伸ばしていた。微かにコキッと音が聞こえる。
「えー、それはやだ。そうだ。今日の前金でケーキ買って帰ろうよ」
「この勢いで食べてたら糖尿になるから却下」
 そんなぁ、と美鈴は情けない悲鳴を上げた。
「それにもう一人の僕が太ってるなんて、醜すぎて耐えられない」
「……明日から、自重します」
 美鈴は悲しそうに俯きながら残っていたケーキを食べ終えた。そしてふいと視線を窓に向ける。
「ポチ、遅いなぁ」
「相手は人間だからね。手間取ってるんじゃない」
 鈴音はソファから立ち上がると窓の近くに立った。窓の向こうに見える空は茜色に染まっている。
「カップ、洗ってくる」
 鈴音は自分のカップを手に持つと廊下へ出て行ってしまった。
「じゃ、わたしも。マッキーも行こ」
 誘われるままカップを持って廊下に出ると、廊下の真ん中辺りにあるトイレの前に鈴音の姿があった。手洗い場で洗っているのだろう。
「あの教室、まるでお二人の私室みたいですけど、先生に叱られたりしないんですか」
 並んでカップを洗いながら槙は尋ねてみた。手洗い場には食器用洗剤と専用のスポンジまで用意されてあった。
「んー、ここって基本的に放置されてるから、何も言われないかなぁ」
「一応、許可は取ってありますけど」
「そうなんですか」
「そうそう。いい先生が一人いて――」
 言いかけた美鈴がふいに妙な表情を浮かべた。
「どうしたんですか」
「うん、ポチが帰ってきたんだけど、見つからなかったみたい」
「見つからない? 気配がなかったってこと?」
 鈴音の問いに美鈴は首を横に振る。
「途中で途切れてた」
「そう……。今から行ってみようか。その途切れた場所まで」
 鈴音はそう言うとカップを持って部屋へと戻って行く。事情はよくわからないが、どうやら事はうまく進んでいないようだ。美鈴も槙に「ごめんね。なんか手間取りそう」と申し訳なさそうにしながら戻って行った。

 学校を出た三人は坂を下って槙が車を停めているコインパーキングへ向かった。
「それで、どこに行けば?」
 エンジンをかけながらミラー越しに尋ねると、美鈴は軽く目を閉じて呟くようにある神社の名を答えた。そこは沙歩が友人と別れた交差点から程近い場所にある大きな神社だった。
 言われるがまま車を走らせてその神社の近くに停めると、美鈴は外に出て何かを確認するように周囲を見渡しながら歩き出した。彼女の行く先は神社近くの路地だ。母親の話によると沙歩はこのすぐ近くにある商店街へよく行っていたらしい。小さな商店街ではあるが、カラオケ店やゲームセンターなど子供が遊べる場所も多い。行方知れずとなった日も、そこへ向かおうとしていたのかもしれない。そのとき、ふいに美鈴が立ち止まった。
 狭い道の両脇にはアパートやマンションが並び建ち、その間に駐車場があった。たしかこのまま真っ直ぐ行けばコンビニがあり、そこを右折すると商店街へ出るはずだ。だが、美鈴はマンションとアパートの間に作られた駐車場の前にぼんやりと立ったまま動かない。隣のアパートは古く、入り口には立ち入り禁止の柵が置かれてあった。
 槙は眉を寄せる。どこかで見たような場所だ。テレビか新聞でこの場所を見た気がする。じっと考え込んでいると鈴音が「ここ?」と口を開いた。美鈴は頷いて、右手を駐車場の入り口に向ける。
「この辺りをウロウロして、その辺で最後」
 槙は彼女が示した場所を見た。月極駐車場の入り口。ただそれだけだ。何か特別気になるものがあるわけでもない。槙は駐車場内に入ってみた。車が数台止まっている。古い駐車場なのか、アスファルトがひび割れていた。
「何もないですね」
 そう言って振り向くと、美鈴が表情を歪めていた。何か見たくない物を見てしまったような、そんな顔だ。その視線は槙の足元へ向いている。
「そこに、何かあるの?」
 鈴音が聞くと「目がある」と囁くような声で彼女は答えた。
「目?」
 慌てて片足を上げて地面を確認してみるが、あったのはアスファルトの隙間から生え出た雑草だけだった。しかし、美鈴の視線はじっと槙の足元を捉えたままだ。なんとなく薄気味悪くなって槙は鈴音の隣に移動した。
「彼女の?」
 鈴音が問う。美鈴は眉間に皺を寄せて首を傾げた。
「違うみたい。でもこの場所にあるってことは関係あるかも……。食べさせてもいい?」
 美鈴は鈴音に問う。鈴音はため息をつきながら口を曲げた。そして横目で槙を見て「しょうがないね」と頷く。
「ポチ」
 美鈴は何もいない地面に呼びかけると静かに瞼を閉じた。背筋を伸ばし、凛とした様子で立っている。その姿は、それまでの美鈴とはまるで別人のように見えた。それから数秒ほどして、彼女は苦しそうに顔を歪ませて目を開ける。
「誰の目だった?」
「わかんないけど、たぶんこの辺に住んでる人だよ。沙歩ちゃんが見えた」
 見えた、とはどういう意味なのか。もはや槙には状況が理解できない。槙はじっと二人の会話に耳を傾けた。
「ここで彼女は何を?」
「何も。でも、なんか変だった」
「変?」
 美鈴は頷くと駐車場の入り口へ移動し、こちらに身体を向けて立つ。
「こうやって、あの辺りを眺めてたんだけど」
 彼女は言いながら斜め向こうを指した。そこはマンションのエントランス。近くには植え込みがある。
「なんか、ぼんやりと眺めてたんだよね。まるで――」
 目を落としたみたいに、と彼女は続けた。
「落としたんじゃないの?」
「でも落ちてないよ。それに、目が落ちたとしても失踪する理由にはならないでしょ」
「まあ、たしかに」
 鈴音は言いながら、ふと思い出したように美鈴が指したマンションに目を向けた。
「そういえば、この辺りで前に事件があった気がするな」
 それを聞いて槙は思わず声をあげた。
「そうです。ああ、やっと思い出した。たしか去年の夏にここで事件があったんです」
 すると双子が「どんな事件?」と声を揃えた。槙は記憶を探る。
「たしか――そこのマンションの入り口で酒に酔った男が包丁を振り回したんです。取り押さえようとした友人の男が刺されて死亡。犯人は逃走後、左胸を自ら刺して自殺」
 その頃、槙は交番勤務だった。警察学校の同期がこの近くの交番に勤務しており、その話を聞いたのだった。
「けど、それと沙歩ちゃんの失踪とは関係ないと思いますが」
 しかし鈴音は意味ありげな視線を美鈴に向けた。
「どう思う? 美鈴」
「えー、どうかなぁ。ただぼんやりしてただけかもしれないし。本気で家に帰りたくなくてどこかに行っただけってことも」
「可能性の話だよ」
「……まあね。たしかに、可能性としてはあるかもだけど」
 美鈴はそう言うと頭を掻きながらため息をついた。
「あの、そろそろ聞いてもいいですか」
「んー、なにを?」
「お二人がここで何をしているのかまったくわからなくて。そもそも、目ってなんですか」
「目は、目だよ」
 美鈴は槙の目を指差した。まったく説明になっていない。
「えっと、俺には何も見えませんでしたが」
「僕たちが言う目というのは、つまり記憶の塊みたいなものです」
 鈴音は言いながら来た道を引き返し始めた。車に戻るのだろう。槙と美鈴も並んで歩き出す。
「記憶の塊が見えるんですか」
「美玲が……いえ、ポチが教えるんです」
「目が落ちてる、と? それはどんなものなんですか」
「どう見えるのか、ということならばわかりませんよ。僕には見えませんから」
「美鈴さんもですか」
「うん。見えないよ。ただ、目があるとすごく嫌な感じがするの。なんていうか、圧迫されてるというか。そんな感じ」
 ならば、なぜ『目』という呼び方なのだろう。そう尋ねると鈴音は面倒くさそうに「目というのは」と言った。
「ポチのエサみたいなものです。ポチがそれを食べると美鈴に情報が転送される。つまり、知らない記憶を美鈴は見る羽目になるんです。まるで他人の目を自分に入れられたみたいに」
 だから目と呼んでいるんです、と彼女は言った。
「でも、それじゃ美鈴さんが大変なのでは。その、ポチが食事をするたびに他人の記憶を見ることになるんですよね」
 それはかなりの苦痛ではないだろうか。もちろん、槙にはそれが本当のことかどうかわからないのだが。
「大丈夫だよ。ポチ、目はあまり好きじゃないから」
「ムシの中には目が好物というのもいるのでしょうが、ポチに限っては目が嫌いなようです。だから、美鈴が頼まない限り食べたりはしない。普段は気配を辿らせる程度ですから」
「気配というのは、目とは違うんですか」
「違いますね。気配は人が残した軌跡みたいなもの。まあ、他人の記憶に違いはないですが、目と比べて情報量はかなり少ない」
「気配を辿ってもらってるときも記憶はずっと流れてくるんだけど、なんだろ。こう、テレビを、ながら見してる感じ? 意識しなかったら気にならないの。ポチはこっちの方が主食らしいんだよね」
 美鈴が言った。なるほど、と頷きながら槙は首をかしげる。
「しかし、その目というのはどうして落ちてるんですか。だって人の記憶なんでしょう? よくわかりませんが、記憶は人の脳内に収められているものじゃないんでしょうか」
「もちろんそうですよ。だけど、人間はその記録されている記憶をすべて思い出せるわけじゃない。あなただってそうでしょう?」
 鈴音は立ち止まって振り返った。たしかに彼女の言う通りだ。幼い頃のことはもちろんのこと一年、いや、数ヶ月も経てば記憶は曖昧になってしまう。
「人は記憶を脳に記録すると同時に、ある場所に保管しているのではないかと僕は思います。思い出すことができるのは記録された記憶ではなく、保管された記憶。保管された記憶は時間の経過と共に薄れていくのではないかと。さらに、人は保管した記憶を何かの拍子に落とすんです。感情が高ぶったときなんか、きっかけになりやすい。極度に感情が高ぶったり、恐怖を感じたりした場合、その前後の記憶がなくなっていることがあるのがそれです。でもそういう場合に落とした目はたいした情報を持っていません。落ちるはずのない目が衝撃で落ちてしまったわけですから、ごく一部の記憶しか含んでいない。だからそういう類のものならば、最終手段としてポチに食べさせたりします。だけど中にはそうではない目もある」
「どんな?」
「たとえば、殺された人間の目です。その瞬間がすべて込められたもの。予期せず死に逝く人間は、その瞬間、自分のすべてを世に残そうとするんです。そのときに落とされた目は、すなわちその人間の分身ともいえる」
 あくまで僕の持論ですけどね、と彼女は言って再び歩き出した。
「鈴音って、難しいこと言うよね」
 並んで歩いていた美鈴が「わたしも説明は下手だけどさぁ」と笑う。
「マッキー、わかった? 今の話」
「いや、難しくて」
 苦笑して答えてから槙は「じゃあ」と鈴音の背中に声をかけた。
「生きてる人が目を落としたら、その持ち主はどうなるんですか」
「別に、どうもなりませんよ。少しぼんやりするくらいです。記憶は常に作られていくものですから、すぐに元に戻ります。……通常は」
「違う場合も?」
 鈴音は槙の車の横で立ち止まった。そして後部座席のドアを開くと、こちらに顔を向けずに「稀に、目は人に取り憑きます」と言った。槙は思わず美鈴に顔を向けた。美鈴は困ったような笑みで首を傾げると鈴音に続いて後部座席に乗り込む。
「取り憑く……」
 口に出して呟いてみたが、その意味を理解することはできなかった。
「マッキー、早く帰ろうよ」
 後部座席から美鈴の声がする。槙は頷いて運転席のドアを開いた。

前話   次話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?