白い月に歌は響く プロローグ
静かな夜だった。彼女はゆっくり息を吸い込んだ。わずかに湿った空気が心地よい。
「来るな。来るなよ!」
しんとした空間に耳障りな声が響く。目の前で男が泣きながら懇願している。
ここはどこだろう。
彼女は思った。周りは暗闇に包まれ、様子がわからない。光がない。それなのになぜこの男の姿だけはっきり見えるのだろう。彼女は一歩、足を前へ踏み出した。男は怯えた表情で尻餅をつき、後ろ向きのまま這いずっていく。
この男は誰だろう。
見覚えがなかった。顔に痛みが走り、彼女は頬に手をやる。硬い葉があたっている。再び周りに目を向けると、無数の木々が密集して生えているのがわかった。
ここは外か。
彼女が思った瞬間、白い光が暗闇に降ってきた。空を見上げると月が雲から顔を覗かせたところだった。彼女は薄く微笑む。月を見るのは久しぶりだ。
また一歩、前へ進む。
男は表情を引きつらせて後ずさりしていく。怪我でもしているのか、彼の右腕はゆらゆらと力なく揺れていた。
「俺が悪かった! な? 何も言わないから、データも全部消すから。だから、だから殺さないで……」
何を言っているのだろう。
彼女は不思議に思いながら男の顔を覗き込んだ。やはり知らない男だ。見知らぬ男は必死に命乞いをしている。その目は、彼女の左手に向いていた。彼女も自分の左手に視線を向ける。月の光に照らされて鈍く黒光りしている鉄の塊。拳銃だ。エアガンかもしれない。どちらも実物を見たことがない彼女には区別がつかなかった。
静かな森には虫達の声がきれいに合唱している。その声に耳を傾けながら彼女は一歩、また一歩と男の方へ足を進めた。どこかに打ち寄せているのか、波の音が聞こえる。虫の声、波の音、男の命乞い、そして……。
「謝られても、もう遅いし」
かすれた女の声がした。彼女は振り返る。しかし、そこには誰もいない。
「あんたが余計な事するから」
かすれた声は彼女の口から発せられていた。
「今までどおり、くだらない取材を続けてれば生きていられたのにね。あ、それからあんたが調べたデータ、もう全部壊したからさ」
彼女は銃をもてあそぶように揺らしながら言った。頬に髪の毛がかかる。金色の髪。
「やめてくれよ。頼むから」
男はじりじりと下がり続けながら訴えてくる。彼女は男が後ずさっていく速さに合わせながらゆっくりと追い詰めていく。波の音が大きくなってきた。
「それが人にお願いする態度ですか? お兄さん」
面白そうに彼女は銃口を男の顔に向けた。
「す、すみませんでした。どうか、どうか助けてください」
男の声は震えていた。
「あ、気をつけて。後ろ危ないよ」
男が振り返った。そこは崖だ。その下には激しく波打つ海が広がっている。彼女は薄く笑みを浮かべながら男の前にしゃがみ込んだ。
「情けないなぁ。あんた、有能なのにね。一人で調べてあたしまでたどり着いたんだから。だけどさ、あのことを公表されると困るんだ。わかるよね?」
男は首を横に振る。まるで子供が駄々をこねるように。月の光に照らされたその顔はこわばり、目は不自然なほど大きく見開かれていた。
「まだね、終わってないんだよ。だから邪魔しないでね。お兄さん」
彼女は笑ってさらに一歩前へと進んだ。すると男は何かの糸が切れたかのように突然「この、化け物が!」と怒鳴り始めた。
「いいか! あれは絶対公表して――」
男の声が消えた。大きく波が跳ねる音が響いた。彼女の視線の先に、もう男はいない。彼女は深く息を吐いて男がいた闇の中を見つめていた。
「もう、公表できないね」
彼女は道を戻り、赤い車に乗り込んだ。スピーカーから歌が流れている。
聞き覚えのある歌。
車はそのままゆっくりと走り出す。
そこで突然、視界は暗闇に落ちた。何も見えない。何も聞こえない。しかし、頭の中ではメロディーが生まれ始めていた。同時に男の声が頭の中で鳴っている。
『バケモノ……』
わたしは誰だろう。わたしは……。
彼女の意識は薄れていった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?