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白い月に歌は響く 第五章②

 署に着くと、アリサは谷本とは別の部屋に通された。そこは普段使われていない小部屋。一つしかない窓には格子がはめられている。元々は取調室として使われていた部屋らしく、埃を被ったデスクとパイプ椅子が二脚置かれてあった。アリサは耐え切れず、常備しているウェットティッシュで埃を拭き取ってから椅子に座る。そしてじっとデスクの上を見つめた。

 谷本は隣の部屋にいる。隣は現在も使用されている取調室だ。この部屋とは違ってドアには電子ロックがかけられ、室内には監視カメラも設置されている。本気で谷本を尋問するつもりなのだろう。そう考えてから誰が取調べを担当するのか疑問に思う。新田だろうか。いや、彼は今まで取調べを担当したことはなかったはずだ。きっと、別の誰かが……。

 アリサは考えながらボードを取り出した。これを没収されなかったことは幸いだ。凶悪犯罪課専用ページに入り、捜査員たちへの指示を確認する。誰もが幹部殺しの事件にかかりっきりになっている。だが、新田への指示は見当たらない。おそらく彼には直接指示が出されているのだろう。では、やはり取調べは新田が行うのか。谷本はどうするつもりだろう。彼がこのまま大人しく取調べを受けるとは思えない。かといって黙秘を続けて身動きがとれないまま無駄な時間を過ごすとも思えなかった。
 谷本が何かしでかす前に、ここから脱出する方法を考えなければと思った矢先、部屋のドアが静かに開いた。

「失礼しまーす」

 遠慮がちな声と共に顔を覗かせたのは、資料整理に追われているはずの今井だ。彼女はアリサを見ると、複雑そうに微笑って会釈する。その腕には資料とファイルが大量に抱えられていた。

「あのー、すみません。なんか、よくわかんないですけど、ここに来るよう言われて」

 今井は言いながらアリサの向かいに腰を下ろす。拍子に抱えていたファイルや資料がテーブルの上に音をたてて散らばった。

「あー、すみません。ごめんなさい! すぐ拾いますから!」

 慌てて彼女は資料をかき集める。それを手伝いながらアリサは尋ねた。

「課長に言われたんですか?」
「いえ、新田さんに。課長は出掛けられたまま戻ってないんです」
「新田さんに? ここで何をしろって言われたんですか」

 拾った資料を渡してやると、彼女は礼を言いながらテーブルの上に資料を並べ始めた。

「島本さんがこの部屋から出ないように見てろって……」

 そう言ってから今井は探るような表情で「何かヤバいことでもしたんですか?」と聞いてくる。アリサは苦笑する。

「ちょっと指示違反をしただけですよ」
「そうですか。でも、それにしては妙ですよね。谷本さんは取調室にいるっていうし」

 答えを求める彼女の視線に、アリサは笑ってごまかすしかない。

「やっぱり教えてくれないんですねえ。残念」

 心から残念そうに言いながら今井は資料整理を始めた。気のせいか、元気がないように見える。だが、あの一方的なお喋りがないのならそれに越したことはない。アリサはボードを見つめながらどうするべきか考えることにした。

 谷本は取調室にいる限り、動くことはできないだろう。我慢も限界までくれば力ずくで脱出するかもしれないが、できればそんなことはさせたくない。

「取調べって新田さんがするのかな……」

 思わず口をついて出た言葉に今井が素早く「そうみたいですよ」と反応した。

「さっき、部屋に入っていくの見ましたから」
「……そうなんですか」

 では、もう取調べは始まっているのだろうか。新田が担当だなんて珍しいこともあるものだ。彼が、あの谷本を尋問できるとは思えないが。

「谷本さんって絶対に大人しく取調べ受ける人じゃないですよね。特に新田さんと相性も悪そうだし」
「そうなんですよね」

 ため息混じりに頷いたアリサを見て今井は意外そうな表情を浮かべた。

「心配してるんですか?」
「……いえ、別に。ただ谷本さんが同僚とトラブルを起こすとペアを組んでいるわたしにも何らかの影響があると思いまして」
「ああ、なるほど」

 素直に納得した今井は資料整理に戻る。やはり口数は少ない。何かあったのだろうかと思ったが、すぐにその理由を思い出した。おそらく、森田に怒鳴られたことがまだ効いているのだ。そんな今井に少し同情しつつ、アリサは再び考えに集中する。

 まず谷本を外に出すためには部屋の電子ロックを解除しなければならない。ロック解除には日替わりのキーナンバーが必要である。しかし、ナンバーは取調べを行う者にしか与えられない。アリサはふと目の前に座る今井に目を向けた。視線に気づき、今井は不思議そうに首を傾げた。

「あの、取調室のキーナンバー知りません……よね?」
「あー、わかんないですね。多分、今日のナンバーは新田さんしか知らないんじゃないですかね」
「ですよね」
「なんですか? 谷本さん救出作戦ですか?」
「そんなんじゃないです。ただ、こうしててもヒマなので考えてるんです。どうしたらバレないように外に出られるかなぁと」
「へえ! またまた意外です。島本さんって絶対にルールを破らない人かと思ってました」

 今井は目を丸くしている。たしかにいつもは指示に従うよう心掛けている。余計なことは考えず、好奇心も持たず、大人しく生きていくことが当然だと信じている。それなのに、なぜこのような考えを持つようになってしまったのか。考えなくとも谷本の影響であることは間違いない。それに加えて今は気になっていることもあるのだ。

「じつは、知人に頼まれて人を探してる最中なんです。頼まれたことを放り投げることはできませんから、早くここから解放されたくて」
「人捜し……? 谷本さんと一緒に探してるんですか?」
「ええ。元々は谷本さんが受けた依頼なので」

 そう答えると今井は深々と頷いて腕を組んだ。

「それって急を要することなんですか?」

 アリサは頷きながら「未成年が失踪したんです」と答える。

「未成年が……。それは心配ですね。失踪程度じゃ警察も動かないし」

 今井は考えるように目を瞑ると低く唸る。そしてパッと顔を上げた。

「やっぱり、システムをダウンさせるのが一番じゃないでしょうか」

 アリサがきょとんとしていると今井は「だから――」と続けた。

「電子ロックの解除ですよ。キーナンバーの取得は難しいですけど、電子ロックそのものをダウンさせればセーフティシステムが作動してロックは解除されるはずです」

 どうやら今井は協力してくれるようだとアリサは思わず笑みを浮かべる。

「でも、やっぱりシステムダウンさせるにはそれなりのリスクと技術が必要ですよね。島本さんはクラッキングのスキルはありますか?」

 一瞬何を言われているのかわからなかったが、クラッキングという言葉の意味を思い出して笑みを浮かべる。

「古い言葉を知ってるんですね。今ではクラッキングもハッキングも区別なくなってしまったのに。ハッキングも、今では古い言葉のようですが」
「え、そうですか? うちの家族の間では区別して使ってますけど」

 変わった家族だ。普通は私生活でそんな言葉が飛び交うことなどないだろうに。そんなことを思いながらアリサは答える。

「セキュリティの甘いシステムに侵入するぐらいはできますけど、たいしたことはできません。ましてや警察のシステムに侵入して破壊するなんて無理です」
「そうですか」

 少し残念そうに言いながら今井はテーブルに視線を向ける。

「今井さんはできるんですか?」
「そこそこできると思います。一応システム部志願だったんですよ。でも警察のシステムは特別なセキュリティを使ってますから一人ではちょっと厳しいです」
「ですよね……」

 二人はじっとテーブルを見つめて考える。侵入できたとしても感知されてしまっては元も子もないのだ。咎めを受けることなく外に出る方法でなければ。
 ふいに外からパトカーのサイレンが聞こえてきた。何か事件でもあったのだろうか。数台分のサイレンが遠ざかっていく。その聞き慣れたはずの音がひどく懐かしく感じられるのは、この古い部屋の中にいるからだろう。部屋の内装や広さはまったく違えど、その雰囲気は通っていた小学校の教室を連想させた。古い部屋には独特の匂いがある。アリサは昔からそう思っていた。
 そういえば、小学校の頃には避難訓練というものがまだあったような気がする。今では学校で団体行動を強制させることはない。当時、嫌々ながら参加したことを覚えている。このサイレンは避難訓練のときに校内で響いていた音に似ている。

「そうだ!」

 椅子を押し倒すようにして立ち上がると、アリサは部屋を見回した。薄汚く汚れた壁には何もない。ここには目的の物は設置されていない。当然だ。ここは取調室なのだから。急いで椅子に座りなおしてボードと向き合う。その様子を今井が不思議そうに見つめていた。

「どうしたんですか、突然」
「署内の見取り図ってデータにありましたよね?」
「多分、専用ページの危機管理情報のところにあったような」

 言われたページを開くと、確かに極秘データとして見取り図のファイルがある。アリサはそれを表示させると目を凝らして眺めていった。

「教えてくださいよ。何を探してるんですか?」
「非常ベルです」

 その答えに今井は眉を寄せて首を傾げた。

「非常ベルを探してどうするんですか? というか、そんなものまだあるんですか? 署内で緊急事態が生じたらボードで通報できるようになってるのに」

 たしかに今では非常ベルが設置されている建物は珍しい。古い建物でも誤作動が起こるという理由で積極的に取り外しがされているのだ。この警察署も例外ではない。だが、予算の関係で全てが取り外されたわけではないはずだ。

「警察署の非常ベルはシステムに直結しているんです。だから、多分作動させると非難誘導モードにシステムが切り替わるはず……」

 そう言うと今井は「そうでしょうか」と難しい表情を浮かべる。

「逆にセキュリティモードが作動したりしませんか? すべてのロックがかかってしまったり」
「そうかもしれませんけど……」

 しかし他に何か案があるわけでもない。非常ベルを作動させるだけならば低リスクで行うことができる。

「イチかバチか、ですよ」
「ダメだったら、他の手を考えるしかないですね」

 今井もそう言うとボードモニターと向き合う。もはや資料整理などそっちのけだ。こちらの方が楽しいのだろう。今井はすぐに非常ベルの場所を読み上げていく。

「地下の証拠管理室と一階の一般出入口付近、あとは……。ああ、留置所にもありますね」
「留置所は隣の建物だからダメですね。ここから一番近いのは――」

 言いながら見取り図を眺めていく。凶悪犯罪課がある階には一つだけ非常ベルが残っていた。

「非常階段付近ですね」

 今井が言った。非常階段は廊下の端。そこまで行くにはまず課の部屋を横切らなければならない。

「わたしが行ってきますよ」

 今井は意気揚々と言ってみせたがアリサは首を横に振る。

「今井さんはわたしの監視役なんですよ? わたしを残して部屋を出たら責任問題になります」
「あ、そうですね……」

 彼女は少し考えるとパッと笑顔を浮かべた。

「じゃあ、一緒に行きましょう。島本さんはトイレに行くってことで」

 なるほど。それならば不自然ではない。アリサは頷くとボードを閉じてポケットに収めた。

 取調べ室を出ると、すぐそこには凶悪犯罪課の部屋がある。心配とは裏腹に捜査員は誰もいない。だが油断はできない。アリサたちの行動はカメラで監視されているはずだ。

「たしか非常階段付近はカメラの死角ですよね」

 確認するような今井の呟きが背中に聞こえる。たしかそうだったはずだが、確信はない。さすがにカメラの撮影範囲までは把握していなかった。不安を残したまま、廊下に出て非常階段へ向かう。トイレはその手前にあった。

「島本さんはそのままトイレに行ってください。わたしが押しますから」
「でも、バレたときに迷惑が――」
「何言ってるんですか、水くさい。友達じゃないですか」

 友達という言葉に戸惑いを覚える。いつの間にそんな仲になったのだろう。アリサが振り返ると島本はなぜか嬉しそうにキラキラとした笑みを浮かべていた。この様子では、何を言っても引き下がりそうにない。

「……よろしくお願いします」
「任せてください!」

 大きく頷いた今井に頷き返して、アリサは女子トイレへ入る。落ち着かない気持ちを胸に、鏡の前に立った。数時間ぶりに見る自分の顔はひどい有様だ。もともと化粧はほとんどしない主義だが、クマがひどい。疲れのせいか頬がこけているようにも見える。深く長いため息をつきながら、意味もなく蛇口を捻って水を流した。勢いよく流れる水に両手を濡らす。
 トイレには誰もいない。廊下からも足音は聞こえてこない。今井も足音を忍ばせているのだろう。そう思ったとき、けたたましいベルの音が鳴り響いた。普段聞くことのないその音にアリサの鼓動は速くなる。急いで水を止めて廊下へと走る。そこには両耳を押さえた今井が少し戸惑った表情で待っていた。

「これ、大丈夫ですか?」

 怒鳴るようにして彼女は言う。アリサは首を振ってわからないと答えながら廊下を走り出した。向こうからは慌てた様子で走ってくる者の姿がある。別の課の刑事たちだろう。彼らはあたふたしながらエレベーターのボタンを連打していた。避難時にエレベーターを使おうとするなど自殺行為だと思いながらアリサは凶悪犯罪課の部屋へ戻った。急いで谷本がいる取調室を確認したが、まだドアは閉まったままだ。

「ダメだったんですか?」

 追いついてきた今井が不安そうに声をあげる。アリサが取調室のドアを叩こうとしたとき、勢いよく内側からドアが開かれた。

「この、バカ野郎が!」

 怒鳴り声と共に谷本が出てきた。彼はアリサを見ると「おう」と手を挙げる。

「このやかましいのは非常ベルか?」

 アリサは頷きつつ谷本の後ろに目をやる。どういうわけか新田が出てこない。その視線に気づいた谷本は取調室を振り返りながら鼻で笑った。

「あいつなら中で伸びてるぞ」
「え! どうして」
「非常ベルが鳴ってるってのに取調べ続けやがるから、いい加減にしろって殴っちまった。ったく、刑事のくせに一発で気絶しやがって。情けねえ」

 アリサは思わず頭を抱えた。穏便にすまそうと思ってした行動が裏目に出てしまったようだ。谷本はそんなアリサを不思議そうに見ていたが、すぐに視線を移した。

「今井、お前は何やってんだ?」

 見ると彼女は立ったままボードを開いて何か操作している。

「ちょっと、メールを」
「メール? 誰に」
「ええ、ちょっと」

 彼女は、ただそう言っただけで操作に集中している。谷本は聞くことを諦めたのか眉間に皺を寄せると腕を組んで天井を見上げた。

「うるっせえな。これ、なんとかならんのか」
「すみません」

 思わず謝ったアリサに谷本は怪訝な表情を浮かべる。だが、すぐに驚いたように目を丸くした。

「まさか、これお前らの仕業か?」
「お二人とも、今のうちに行った方がいいんじゃないですか?」

 アリサが答える前に今井が言った。

「でも、新田さんが……。このまま行っても逃げ出したと思われかねないですよ」
「大丈夫です。わたしに任せてください。友達の為ならどんなことでも、がわたしのモットーですから!」

 なぜか自信満々に今井は言うと軽く手を振り、取調室へ消えて行った。谷本は困惑した表情を浮かべていたが頬を掻きながら「じゃあ、行くか」と部屋を出て行く。アリサは今度ゆっくり彼女の話を聞いてあげようと心に決め、谷本の後を追った。

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