森の小さなサウナで【ヘルシンキ紀行:中編】
8時前に目が覚める。犬ぞり旅以降続いていた『極地時差ボケ』もだいぶ落ち着いてきたようだ。貸してもらったソファベッドの寝心地は最高だった。窓の外の気温は十度を少し下回っていたが、部屋の中はとても暖かい。
「フィンランド・スタイルの朝ごはんにしよう」
マッチでコンロに点火して、エリサはケトルを火にかける。昨晩スーパーで買ったレタス、トマトときゅうりを切り分け、田舎風情のある旅人が描かれたパッケージを取り出す。手のひらサイズの丸いライ麦パンが入っていて、それらを半分に切ってトースターに入れる。ゴーダチーズのブロックを北欧式チーズスライサーで薄くスライスする。
パンが焼けると、そのカリッとした表面にバターをたっぷりと塗る。これもまた美味しそうなバターである。レタスを数枚並べた上にチーズを敷いてベッドにし、新鮮なきゅうりとトマトのスライスを乗せる。ごくシンプルなオープン・サンドウィッチである。
シンプルだからこそ、素材一つ一つの味が際立つ。何よりもパンである。北米や日本の空気ばかり含んだヘナヘナなパンではなく、極めて密度が高い。トーストすると外側はカリッと香ばしくなり、内側はライ麦のしっとりとしたテクスチャと心地よい酸味が口の中で楽しい。チーズと野菜たちはあくまでパンの旨みを引き立てるためのものなのかもしれない。思わず背筋がぴんとする。
「その小さい扉は何?」
窓の横に扉がついている。収納にしてはあまり大きいとはいえず、電気基盤にしては変な場所である。
「私の夢の本棚、スモール版よ」
エリサが扉を開くと、所狭しと本が並んでいる。小説やエッセイ、写真集も。もともとは冷蔵庫のなかった時代に冷やしておきたいものを入れておくコールド・ストレージとして使われていたようだ。彼女は一冊の分厚い写真集を渡してくれる。
「フィンランドのすべての国立公園が載ってるわ。いつか制覇できたらなっていつも読みながら思うの」
巻頭の地図を見ると、フィンランド全域に散らばる国立公園がマークされている。それにしても本当にすごい数の湖があるものだな、と感心してしまう。
今日は午後から湖の辺りにあるプライベートサウナに行こうということになっていた。その前に午前中はヘルシンキの街を見て回ることにする。シティサイクルを数ユーロで借り、ダウンタウンに向かう。トラムが走る市街地は首都と言ってもそこまで車通りも多くなく、心地いいサイクリングができる。まだ春の始まりで顔に受ける風は冷たいが。
10分も走らないうちに、開けた広場に出る。あれが国会議事堂、あれはオペラハウス、と次々に出てくる大きな建物をかわしてエリサについていく。そのなかに、曲線を帯びた木目調の造形と大胆なガラス張りが一際目立つ建物に近づく。
「ヘルシンキ中央図書館よ。6、7年前に出来た新しいヘルシンキのシンボルなの」
『オーディ』の名で親しまれるヘルシンキ中央図書館は、フィンランドの独立100年を記念して建設された。本の貸し出しのみならず、大小様々な会議室や自習室、楽器のそろった音楽スタジオやキッチンスタジオ、工具や3Dプリンタのような制作装備や技術提供もしているのだという。
最上階に上がると、そこは本が並ぶスペース。面白いのは、本棚の高さが人間の目線よりも低いことだ。サッカーコート数面に及ぶであろう広大な空間。白く波打つ天井がまるで『本の楽園』にいるような感覚にさせてくれる。子供達は走り回り、若者たちは勉強に熱心で、お年寄りたちはおしゃべりに興じている。
民主主義の城だな、と感じざるを得ない。バルコニーからは大通りを挟んで向かいに佇む国会議事堂が見える。まるで図書館が立法府に睨みを利かせているようだ。
また自転車を走らせ、ヘルシンキ中央駅を覗いてから目抜き通りに繰り出す。マリメッコ、イッタラ、アラビアといったフィンランドが誇るデザインメーカーが立ち並んでいる。
フィンランドが誇る伝説的建築家・デザイナーのアルヴァ・アアルトらが立ち上げた家具メーカー・アルテックのお店に入る。白樺を生かした美しい家具の数々に魅了される。将来こんな書斎が欲しい、こんな本棚があれば最高、こんなディナーテーブルに友達を招きたい、という話で盛り上がる。なんとか稼がねば。
繁華街を出て海沿いまで歩く。左手にヘルシンキのシンボルである大聖堂が見えるあたりでようやく観光地ぽくなってくる。フィンランドの伝統的料理のひとつである『サーモンのクリームスープ』を売る屋台が立ち並んでいる。観光客たちは十数ユーロ払い、満足げに湯気の立ち上るスープをスプーンで掬って口に運んでいる。
水辺に出る。ヘルシンキの海の玄関口であるエテラ港にはストックホルムやタリンとを結ぶ大型フェリーが停泊しているのが見える。小さな水上バスの前で係員が乗客を船内に誘導している。
「これに乗るよ、急いで!」
券売機でふたりぶんのチケットを買い、船に乗り込む。水上バスはゆっくりと動き出す。フィンランド湾には濃霧が立ち込めていて、どこに向かっているのか見当もつかない。
「これは今どこに向かってるの?」
「『スオメンリンナ』、フィンランド要塞って意味。島そのものが海防の拠点になっていたの。いつもならヘルシンキの港からよく見えるんだけど、今日はまったくね」
20分ほどで船がスピードを落とすと、真っ白い霧の中からうっすらと島影が見えてくる。堅牢な石垣が海岸線を覆っており、島自体が巨大な要塞となっているようだ。現在でも刑務所として使われている区画もあるのだとか。
霧に覆われて仰々しい雰囲気を醸し出している中世の建築のなかを歩く。夏には気持ちのいいピクニック場所になるのだろうな。
チケットの有効期間が1時間半だったので、軽く要塞内を歩いてからヘルシンキまで戻る。近くの市場にジャパニーズレストランががあるというのを見つけ、また自転車を漕いで行ってみる。天井の高い旧市場を改修したフードコートの一角に、日本食を取り扱うお店があった。
唐揚げ丼のようなものを頼んだのだけれど、これがなかなかに美味しかった。カリカリに揚がった唐揚げにはコクの強いマヨソースがかかっており、ご飯の量も申し分ない。15ユーロ弱くらいしたけれど、それはご愛嬌ということにしておこう。
さて。本日の主題、サウナである。
その容赦なきまでに暑い蒸し部屋は、フィンランドが世に生み出した最も素晴らしいものの一つであり、フィンランド人の精神そのものである。日本だけでなく北米やヨーロッパ全般でも意識の高い若者のウェルビーイング的な趣味になっており、サウナ巡りにやってきた外国人でヘルシンキの公衆サウナは連日満員御礼のようだ。
「あんな人だらけのサウナ、入れたもんじゃないわ。本物に連れてってあげる」
彼女は自信ありげに言う。まずはスーパーでビールとお菓子を買い込み、エリサの友達であるリペをピックアップする。近所に住んでいるという彼女はレッドブルのマーケティングで働いている。年も近く、趣味の合う二人はよく一緒に遊ぶのだとか。ヘルシンキっ子の週末に混ぜてもらっているようで楽しい。
エリサのシュコダはまたヘルシンキ郊外に走る。目的地は国立公園の中に位置するとある湖。ヘルシンキ自然協会が所有するプライベートサウナがあり、会員だけが予約して使えるのだ。30分ほど走ったところで、車は小さな小屋の横に停まる。
とても静かなところである。赤いサウナ小屋がふたつ並び、薪小屋とトイレがすこし奥まった場所にある。湖にはまだ氷が張り、一部分だけ飛び込めるように穴が開けてある。僕たち3人以外誰もいない。
「よかった!管理人さんが火を入れておいてくれたみたい」
サウナ小屋に入るとまず更衣室があり、つぎにタイル張りの洗い場がある。電気も水道も通っていないので、大きな釜に沸かされたお湯を湖の水と混ぜてかぶる。サウナは4畳ほどの広さで、サウナストーブの殿堂「ハルヴィア」の薪ストーブでは煌々と火が踊っている。
水着に着替え、桶に湖の水を汲んでビールを冷やす。準備完了、さあ暖まろう、とするとリペは踵を返して湖の方に進んでいく。
「とりあえず、一回湖に入っとかない?」
すらりとした足で凍った湖に躊躇なく浸かる。深呼吸をして、心地良さそうだ。入りなよ、とエリサに勧められて僕も足を伸ばす。これまで感じたことのない水の冷たさである。それもそのはず、かろうじて凍っていないだけなのだから。腹の底から変な声が出るのを見て、エリサとリペが笑い転げている。
ストーブで十分に温められた空間に入り、肌触りの心地いいベンチに座る。サウナ室は年季が入っているが、とても丁寧に使われてきたようでどこか懐かしい親しみやすさがある。ベンチに座ったまま、2メートル弱離れたサウナストーンにエリサが手慣れた調子で水をかける。じわっと水が蒸発する音が心地いい。
「気の置けない友達や家族と、静かな湖のほとりでじっくり身体を温めておしゃべりする。これこそが真のフィンランド・サウナよ」エリサは誇らしげだ。
「そうね。よく外国のジムとかでまるで修行のようにストイックにサウナに入っている人を見かけたりするけど、あれはちょっと違うよ」とリペ。
フィンランド人はステレオタイプとして『寡黙な森の民』として描かれることが多いが、そんなフィンランド人が唯一饒舌になる場所がサウナなのである。
昨日エリサと話していたことを思い出す。『幸せの国』のように語られることの多いフィンランドだが、その幸せの価値観は外の人間が想像するものとは少し異なる。
「『もっと世界は良くなる』というよりは『最悪よりまだマシ』というメンタリティね」
西にスウェーデン、東にロシアといった大国に挟まれ、歴史を通じて彼らの支配下にあったフィン人である。100年ほど前に独立を勝ち取ったものの、幾度の紛争で国境線の変更を余儀なくされてきた。今でも、いつ隣のとち狂った大国が攻め入ってくるか分かったものではない。
世界はもっと悲惨になりうるのだから、まだマシな現状をとりあえず祝おうじゃないか——歴史的な背景を鑑みると、フィンランド人の少し変わった『幸せのマインド』を少し理解できる気がする。
「ロウリュ、してみる?」
バケツを渡される。柄杓で水を掬ってサウナストーンに投げる。水分が弾ける心地いい音を奏でて蒸発し、肌に一気に熱波を感じる。
じんわりと汗が滲み、サウナ室を出る。そのままそろりと凍った湖に身体を浸す。血が体全体を駆け巡るのが手に取るようにわかる。15秒ほど深呼吸していると、肺から気管を通って吐き出される空気も冷たい。氷の張った湖で泳ぐ『アヴァント』は、フィンランドのサウナ文化と切っても切り離せない関係にあるのだ。
身体を拭き、ベンチに座ってきりっと冷やされたビールを口に含む。そこはかとない幸福である。北欧の凛とした森に囲まれていると、真から心が休まる。ハイダグワイの生命力の溢れるレインフォレストは目に見えないパワーを与えてくれるが、こうした静かで滋味に富んだ白樺の森にはどこか安寧をもたらしてくれるものがある。何を急いでいるんだ、少し深呼吸をしなさい、と。
数セット汗をかいた後、桶の水で身体を洗う。サウナの後にはティータイムだ。リペがフィンランド語の歌をいろいろと聞かせてくれる。デンマーク語・スウェーデン語・ノルウェー語がほぼ方言的な違いに過ぎないのに対し、フィンランド語は全く別の語族に属している。母音をしっかりと発音するフィンランド語はどこか日本語に近い響きがある。
「こんなの見つけたよ」とリペが見せてくれたのは『日本語で歌うフィンランドの心』なるアルバム。聴いてみると、たしかにフィンランドの『まだマシ』的なマインドが中世チックなメロディに乗せて歌われていて、おかしくて笑ってしまう。
「フィンランド人はカラオケ・バーに行けば、こぞって悲しい曲ばかり歌うのよ」
「カラオケ・バー?ヘルシンキにもあるの?」
「あるって、大流行りよ。私たちもよく飲みに歌いにいくわ」
聞くところによると、いわゆるカラオケボックスではなくカラオケのあるスナックのような場所がヘルシンキ中にあるらしい。サウナ後の予定も特になかったので、夜はカラオケ・バーに行ってみることにする。ふたりともお気に入りのお店があるらしく、どこにいくかの作戦会議をしている。
帰り道のドライブではフィンランドにおけるカラオケ鉄板ソングメドレーで盛り上がる。個人的に気に入ったのは、カリ・タピオが歌う「オレン・スオマライネン(olen suomalainen)」。俺はフィン人、という曲名通りフィンランドで生きることについてを悲壮感漂う短調のメロディに乗せて歌っている。
「人生は辛い、幸運なんて訪れない——そのことを本当に理解できるのは、フィン人だけだ」
彼の歌声を聴いていると、フィンランドという国の国民性が少し垣間見られる気がした。
ヘルシンキのエリサの家に戻り、軽い夕食を取る。腹を満たし、80年台のダンスミュージックをかけてテンションを上げる。うっすらと雨の降るヘルシンキの街に、自転車で繰り出す。友達と夜の街を走っていると、大学時代に寮の仲間たちと恵比寿のサウナまでペダルを漕いでいた頃のことを思い出す。都会で遊ぶのも久しぶりだ。
駅に自転車を停め、まずはベーグル・バーの「イースティ・ボーイ」に入る。ベーグルサンドをビールが美味しいパブということだが、今日はお店のアニバーサリー・パーティか何かでライブ演奏があった。これがまたディプレッシングな曲ばかり。周りに座る街の人々も「うんうん、これだよ」といった調子で神妙そうに聴き入っている。
エリサとリペは軽い軽食とサイダーを取り、僕はそこまでお腹も空いていなかったのでビールをいただく。ボトルリストも充実していて悩んだが、選んだのはコペンハーゲンのブルワリー「To Øl」のペールエール。舌の上で転がすとしっかりボディが効いているが、後味はさっぱりクリスピー。パイントグラスを傾けながら、僕もまわりのフィンランド人にならい、下唇を噛んで深く頷きながら演奏に耳を傾ける。
演奏が終わり、店も少し騒がしくなったのでカラオケ・バーに向かう。
「もう席が埋まってるかも」とリペが心配していたが、彼女の予想通りバーは満員御礼。見たところ普通の混み合ったバーだが、いたるところにテレビスクリーンがついていて今誰かが歌っている楽曲の歌詞が映し出されている。店のバーコードをスキャンし、スマホで歌いたい曲をリクエストするシステムのようだ。
「ヘルシンキに来たなら、これは飲んどかないと」
エリサが僕に注文してくれたのは、『ロングドリンク』。カクテルの種類ではなく、フィンランドで広く親しまれている缶入りカクテルのブランド名だ。1952年のヘルシンキ夏季オリンピックに合わせて作られたようで、レトロなパッケージが可愛い。これがまた美味しい。ジンをグレープフルーツジュースで割ったもので、酎ハイのようにするりと飲める。
端っこのカウンター席が空いたので、3人で肩を寄せ合って座る。土曜日の夜である。店内はすっかり酔っ払った大人たちで満たされ、マイクが次々と渡っていく。人々はべつに他人の歌に聴き入るのでもなく、歌っている人も周りを特に気にせず気持ちよさそうに独唱する。耳を覆いたくなる歌声もあれば、おもわず拍手を送ってしまうベテラン・カラオケシンガーもいる。
カラオケが生まれた国の出身者として縮こまっているわけにもいかない。自分がフルで気持ちよく歌えて、ヘルシンキの酔っ払いたちも知っているかもしれない曲はなんだろうと少し考え、ビーチ・ボーイズの「ココモ」もリクエスト。50人以上入っている店内にマイクが一つしかないので、なかなか自分の番が回ってくるまでに時間がかかる。
30分ほど待って、ようやく僕の出番である。それなりに遅い時間だったので僕もほどよく酔いが回っており、バーのスクリーンを覗きながら気持ちよく歌う。エリサも嬉しそうに動画を撮っている。
エリサが歌い終わった頃にはすっかり夜も更けていた。今日はここで解散。リペにおやすみをいって、エリサとまた自転車で家に戻る。さっと熱いシャワーを浴び、布団に潜り込む。