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空気と光と友【ハイダグワイ移住週報#28】

この記事はカナダ太平洋岸の孤島、ハイダグワイに移住した上村幸平の記録です。

4/29

7時に起床。猫はすでに起きていて、朝ごはんをくれと顔もとで小さく鳴いている。心配とは裏腹に、外は美しい天気だ。カヌーキャンプ日和である。

昨日まとめておいたバックパックに寝る時用のベースレイヤーを詰め込み、ウォーターバッグに飲み水を入れる。夜に実花が作っておいてくれたチリ・ビーンズをタッパーに移し、二日間分の食料と水があることを再確認する。あとは酒屋で美味しそうなビールを買っていくだけだ。

早く起きてきたヘレンが車に荷物を乗せるのを手伝ってくれる。
「朝ごはん、何にする?」
「カレーの残りがまだあったはずだから、昨日もらった鹿シチューも混ぜてご飯に乗せて食べよう。温めてくれる?」
わかった、とヘレンが冷蔵庫から鍋を取り出して火にかける。いくら料理をしない彼女でも温めるくらいはできるだろう。

9時ごろにのそのそと実花も起きてくる。あまり寝られなかったようで、眠そうに今日の支度を始める。カレーと白米をかき込んで、残ったお米でヘレンにおにぎりを握ってもらう。テントは二つ、寝袋とスリーピングマットは三つ、食料も十分。これでまず大丈夫だろう。

実花には朝ごはんを食べさせておいて、準備の終わった僕とヘレンでカヌーを借りにいく。ヤクーン湖には誰でも使えるボートがあるという話だが、もし無かった時のためにタモのカヌーを借りていく。
「アドヴェンチャー日和だな!」
仕事用のヘッドセットをつけたままタモが出てくる。
「貸してもらえるカヌーセット、どこにある?」
「カヌーは川沿い、ライフジャケットとパドルは倉庫にあるはずだ。車に乗せる時には呼んでくれ」

今回借りるカヌーは3人乗りのカナディアン・カヌー。なかなか大きくて安定しており、パドルスポーツなど特にやったことのない人間でも安心して乗れる船だ。タモが手を貸してくれ、男手二人で車の上に載せる。思ったより重い。これを女子二人と降ろすのは大変そうだ。

実花をピックアップし、ハイウェイを一路南に走らせる。まずは南部のダージン・ギーツ村に向かい、そこから林業道路を1時間ほど走ることになる。南の村までの長いハイウェイはカープール・カラオケ。昨今K-POPメドレーを実花とふたりで熱唱し、うしろでヘレンが見守るという構図である。キャンプに向けてテンションを上げる。

ダージン・ギーツの前に広がる入江も素晴らしい眺望。クジラが顔を出さないかと双眼鏡で覗ってみるが、成果なし。村の酒屋で美味しそうなIPAのシックス・パックを買い、林業道路に入る。
「今で半分くらいかな?」
助手席で実花がマップを確認しながら現在地を教えてくれる。林業道路は景色も大きく変わらず、案内も少ないため迷ってしまうことも多い。いつもGPSで居場所を確認しながら進む。

なかなか湖を示す案内板が出てこなくて不安だったが、小さな橋を渡ったところで青い看板がもうすぐ目的地だと教えてくれる。ひと安心。木漏れ日の差し込むトレイルヘッドに駐車する。僕の車の古いタイヤもなんとか持ち堪えてくれた。本当にいつも新しいタイヤにしようと思ってるんだけど、忙しくて替えられていなかった。

トレイルヘッドから湖までは800メートルほど坂道を下っていくことになる。キャンプギアで膨れ上がった95Lのバックパックを背負い、ふたりにも食料やライフジャケットなどを持ってもらう。カヌーは車に乗せたままだ。
「ビーチに使えるボートがあるといいね」
「そうだね。戻ってきて降ろして持っていくのは勘弁してほしいよ」

駐車場から湖までの短いトレイルは、巨大なスプルースとヘムロックが繁茂している。ヤクーン湖とそこから流れ出すヤクーン川が作り出す沖積平野は、絶えることのない雨とサーモンのもたらす窒素循環によって、北米大陸でも最も豊かな森のひとつに数えられる。倒れた木の根っこが巨人の顔のように見える。

15分ほどかけて森を出ると、一気に視界が開ける。美しい白砂のビーチが広がり、目の前にはずんと湖が広がっている。その向こうには雪を帯びた山々を望むことができる。最高なロケーションだ。
「見て!ボートがちゃんと繋がれてる!」
木に括り付けられたアルミ製ボートを見つけたヘレンが嬉しそう。船内にはいくらかのライフジャケットとパドルもある。勝った。あのカヌーを車から下ろして、トレイルを1時間くらいかけて歩いて降ろし、また明日持って上がることを想像するだけで萎えていたので、ひと安心。

まずは昼ごはんにしよう、ということでガソリンストーブに火をつける。ポンピングは少し面倒臭いが、その火力は本物。スーパーで買ったインスタントラーメンにハムを乗せ、おにぎりと一緒にいただく。
「ヘレン姉さんのおにぎり美味しい、なにこれ!」
実花がおにぎりを一口齧って驚く。まぜごはんのもとを使ったおにぎりは冷えていても絶品である。ひとり二つだが、僕はスープに混ぜて雑炊にして食べてしまう。

それにしても、湖でキャンプというのもなかなか悪くない。海岸でキャンプするのと違って潮汐も考えなくていいし、風もおだやかなので堂々とビーチにテントを張ることができる。ボートがあるエリアにタープを張ってキャンプファイヤと食事の場にし、50メートルほど離れたビーチ上にテントを二つ張る。新しく導入した広いテントを女子二人に使ってもらい、僕は使い慣れた山岳テントで眠ることにする。

キャンプ地の設営が終わってから、湖にボートを浮かべる。どこかの砂浜でお茶にしよう。ふたりにライフジャケットを着せ、シートに座らせてから僕が岸を蹴って船に飛び乗る。
「ふたりともカヌーは初めてやっけ」
「あの時以来かも、沖縄のマングローブのなかを漕いだでしょ?」
そういえば、実花とは3年前の春に二人で沖縄中部を旅したんだった。ほぼ個人行動という不思議な二人旅だったが、どこかの一日でバスを乗り継いでカヌー体験に行ったんだった。あのときはまだ大学生だった僕たちが、今こうしてカナダの島にある湖でボートを漕いでいるなんて、人生というのは不思議なものだなと思う。

湖は平らかで、僕たちのパドルが水を掻く音だけが響く。何回か雄叫びを上げてみると、近くの山や丘に反響して聞こえてくるのが面白い。僕と女子二人のどちらかが交代ばんこで漕いでいたが、すぐに実花がバテたのでヘレンとふたりで漕ぎ進める。

カヤックのようにスピードはないが、水の上に浮かんでいるということを楽しむにあたっては悪くない船だな。そう思っていると、船の後ろにコップ数杯分くらいの水が溜まっているのが目に入る。どこかに穴が空いているようだ。湖に浮かんでいる島を目指し て漕いでいたが、思ったより遠いというのもあってキャンプ地の近場の砂浜を目指すことにする。30分ほど漕いで、一度上陸。

魔法瓶のお湯を3つのカップに分け、緑茶パックでお茶を淹れる。ふたりはスーパーで売っているクリームサンドクッキーがとても気に入ったらしく、次から次へと口に運んでいる。

水の上まで木々の張り出した森の近くを漕ぎ、キャンプ地に戻る。ふたりに大きな焚き木を探してもらい、火をつける。風の助けもあってすぐに火は大きくなり、暖を取れるくらいになる。外でも自信を持ってどこでも火を起こせるようになったことが嬉しい。
「私、わりとこの作業好きかも」
実花は火の管理が気に入ったらしく、ビーチを歩いて乾いた木を見つけてはキャンプファイヤに放り込んでいる。

湖で泳ごう、と僕は水着に着替える。実花は火に夢中だったが、ヘレンは「わたしも泳ごっかな」と乗り気である。せーので湖まで走ったが、足先が水についた瞬間に少し選択を後悔する。まだ四月なのだ。ヤクーン湖の水温は雪解け水なみの冷たさで、透き通った湖で泳ぐのは気持ちいいが数十秒浸かるので精一杯。すぐさまタオルで身体を拭き、火で暖をとる。

夕食にする。昨晩つくったチリ・ビーンズを火にかけ、生卵を三つ落とす。北アフリカ風だ。卵に少し火が通るくらい温めて、皿に分ける。これがなかなか美味しい。三種類の豆をトマトソースとスパイスで煮込んだ後、少しミルクを入れたのが正解だった。辛さの奥にコクが生まれ、卵を混ぜて口に運ぶとちょうどいい塩梅になる。ビールが進む味だ。

寝支度をしていると、虹だ!とヘレンが山の方向を指差す。斜陽が山々を燃え上がらせており、先ほどまで雨が降っていたあたりには二重に虹が出ている。こんなにダイナミックで開放的な光景を独占できるなんて、なんて恵まれたことだろう。

9時過ぎに辺りが暗くなり始め、おやすみをいってテントに潜り込む。湖の波の音で何回か起こされたが、その度にここは海じゃないんだと深呼吸した。

4/30

8時過ぎに起きてテントから出ると、早起きのヘレンはすでにビーチを散策していた。波が小さく押し寄せ、また引いていく。砂が水に撫でられる音が、長旅で疲弊していた身体と心を浄化してくれる気がした。
「よく寝れた?」
「うん。あの薄手の寝袋も寒く無かったし」
それはよかった。テント泊をすることのないふたりをいきなり湖の辺りで寝かせたので、彼女たちがちゃんとリラックスできたか不安だった。実花もあとからゆっくり起きてくる。彼女が寝起きでご機嫌なのはめずらしい。

朝ごはん。お湯を沸かしてお茶を淹れ、パンケーキミックスをかき混ぜてフライパンで焼く。あまり火力調節のできないガソリンストーブでは焼き加減を見定めるのが少し難しいが、3人分焦さずに焼けた。バターとメープルシロップをかけていただく。間違いない味だ。

テントを撤収し、バックパックに寝袋などを詰め終わった時には昼前だった。早く街に戻って博物館でも見ようかと思っていたが、時間的に難しいかもしれない。実花がもう一度ボートを浮かべたいというので、ふたりでキャンプ地のまえでぷかぷかとする。ヘレンは砂浜で寝そべっている。

ボートを上げて木にくくりつける。カヌーを持って降りなくて良かったと再度ほっとする。タープを折りたたみ、食料や水がなくなって軽くなった荷物を分担して車まで荷上げする。

「あれはスプルースだっけ?」ヘレンが森のひとつの木を指さしていう。
「そう、殴られたみたいな跡があるからね」
ヘレンは木の名前に興味があるようで、教えた見分け方をすでに飲み込んでいる。物覚えが早い。アプリを駆使して鳥の名前までサーチしている。

車まで戻り、荷物をトランクに入れる。ヤクーン湖、いいキャンプ地だった。なかなか疲れが溜まっていたが、帰り道もカラオケ大会になったおかげでご機嫌でハンドルを握ることができた。ダージン・ギーツ村の中華料理店でたらふく食べて、博物館に寄るパワーはなかったのでマセットまで帰った。

5/1

「明日はスキディゲートで歯医者の予約があるから、もし博物館まで行きたいなら一緒に来な」
タモが乗せてってくれるということなので、朝10時前に3人で隣の家に行く。緑のバスにはすでにたくさんの荷積みがされていた。タモは明日フェリーで本土に渡り、BC州北部のイスクートに数ヶ月滞在する予定だ。キャンプ道具から衛星ネットアンテナまで積んだバスは動く仕事場でありながら住居である。

「このバスで行くのかい?」
「出発前のテスト運転だ!女子二人は後ろに、コウヘイは助手席に座りなよ」
バスの後部は畳が敷いてあって、寝転べるスペースになっている。最近手に入れたんだ、とタモは自慢げである。畳なんてどこで手に入れたんだ、と聞くとフェイスブックで見つけたということ。今時はSNSでなんでも手に入るものだ。

スキディゲートまでの道中、僕のこの島での兄貴分といろいろ話をする。タモは本土の小さな先住民コミュニティであるイスクートに通い、長老たちのドキュメンタリーを撮ったり子供達をキャンプに連れて行ったりして10年目になる。
「今年はイスクートとハイダの子供達をそれぞれ10人連れて、お互いの街を行き来するプログラムをやるんだ」
「すごい!思い入れのあるふたつの地域をそんな形で繋げられるなんて、積み上げてきた信頼の賜物だよ」

ハイウェイが海岸沿いに出ると、平らかなへケート海峡は雲ひとつない空の下で輝き、まるで南国のようだ。
「ハワイみたい!」とヘレンがビデオを回している。タモがハイウェイの途中でバスを止め、ビーチを散策する。マテ茶を啜りながらごつごつした岩で覆われたビーチを歩くというのは、『小さいけれど確かな幸せ』である。

 

久しぶりに博物館にくる。受付のリアーナも元気そう。
「最近は忙しい?」
「まだまだ暇ね。もう少ししたら怒涛の観光シーズンになるから、別にこのくらいで今はちょうどいいわ」
19歳なのにしっかりしすぎているよな、と彼女と話すと毎回思う。

展示をざっと周り、ミュージアムショップのリンに挨拶しにいく。
「で、最近はどうなの?元気にしてた?」
彼女は博物館のドンのひとり。いつも気にかけてくれる優しく面倒見のいいおばちゃんだ。
「マセットでの仕事は順調だよ。今回は友達をつれてきたんだ」
「あらそう。あなたもローカルのひとりなんだから、いろいろ見せてあげないとね」
実花は「爆買いジャパニーズになる」と意気込んでショップを片っ端から見て周り、目についたものをどんどん手に取っていく。
「こういうところでお金を落とすためにいつも稼いでるんだから」

古巣のビストロにも顔を出しに行く。シェフのアーモンドとエリンは僕をみると嬉しそうに厨房から出てきて大きなハグをくれる。
「ビジネスはどうだい?」
「ガンガン儲かってるよ。ケータリングにも引く手あまただしな。ちょっと食べてきなよ」
看板メニューの一つ『トーキョー・ストリート・フライズ』を二箱テイクアウトする。ハンドカッターで切ったじゃがいもを一度低温で火を通し、提供前に高温でカリッと揚げる。そこにわさび風味のマヨネーズをたっぷりとかけ、紅生姜と味付けのりを散らせたフライドポテトである。止まらないね、とヘレンとふたりで実花を待ちながらつまむ。

400ドル分お土産を購入した実花は満足げだ。博物館の前でタモのバスにピックアップしてもらい、マセットに戻る。僕はそのまま仕事に。

仕事から帰ると、またタモの銭湯に明かりが灯っていた。タモとヴァネッサと一緒に、ふたりもお湯に浸かっていた。湯船は人を近づけるようで、すっかり打ち解けておしゃべりに興じている。シダーの芳しい浴槽につかると、ほっと長い息が出た。

5/3

実花とヘレンの最終日。どう過ごすか迷った末、「気に入った場所にもう一度行くのがいいよね」ということでまたトウ・ヒルのハイキングコースに行く。今日はトウ・ヒルのトレイルヘッドまで行かず、手前のアゲーテ・ビーチに車を停め、そこから砂浜を歩く。

まだ潮が下がり切っていなかったので、大きい岩をよじ登って進む。黒い岩が海面から顔を出し、まるで握り拳のような不思議な形をこちらに見せている。

今日は崖の上までは上がらず、したの岩場でゆっくりお茶をする。実花は昼寝モードに入ったので、ヘレンと緑茶を啜りながらいろんな話をする。
「ヘレンは何年くらい日本にいるつもりなの?」
「日本では3年くらい働こうと思ってるけど、その先はまだ未定かな」
初対面で遊びにきた人間と二週間も同じ時間をともにするなんてあまりないことだけど、ヘレンとはすんなり仲良くなれた。ずっと前から知ってるような気もする。

潮が引いてくると、ブロー・ホールが現れる。トウ・ヒルの前の岩場は複雑な構造になっていて、波が穴に押し寄せて圧力を高め、噴水のように高く噴き上げられる現象だ。大きい波は力強く岩場に水を送り込み、轟音とともに5メートル以上の高さまで水柱が立つ。

 

お昼には友人のJJがビーチパーティをするというので顔を出しに行く。タロンがグリルに火をかけ、ビールを啜っている。肝心のJJはまだきていないが、続々と友達が集まる。春にマセットで韓国料理店を開くんだ、というコリアン・カナディアンのアーロンとは初めまして。

「今日は肉よ!10キロ持ってきたから、食べ切るまでみんな帰っちゃダメ」
いつものように遅れてJJがやってくる。今日は彼女が祖国クロアチアの料理を振る舞ってくれる。『チェバピ』はバルカン半島でよくみられる肉料理だ。挽肉を短い棒状にしてグリルし、ポテトやフラットブレッドとともにいただく。

独特の形状をひとつずつ手で成形していくのかと思いきや、彼女はひき肉の塊をそこを切ったペットボトルに入れ、ところてん方式で押し出し始めた。なかなかクリエイティブである。

それにしても、今日集まったメンバーは非常に多国籍。上司のダニエルはドイツ人、同僚のテスはフランス、ゼリンはバングラデシュ、JJはクロアチアからの移民だ。僕は日本、ヘレンは韓国。
「カナダ出身は俺とアーロンだけか!」とタロンも驚いている。

チェバピを火にかけた鉄板で十分にグリルし、焼きたてのフラットブレッドにバターをたっぷり乗せ、サワークリームソースや玉ねぎのピクルスなどをずっしりと乗せて口に運ぶ。チェバピ自体はあくまで肉々しく、ジューシーな肉汁がたっぷりと口に広がる。それを受け止める芳しいパンと爽やかなクリームがまた絶妙だ。おいしい。

「コーホー!久しぶりだな!」
「ミスター・マイケル!無事に帰ってきたんだね」
昨年九月のワークショップで会ったきりのマイケルがビーチを遠くから歩いてやってきた。彼は半年ほどコロンビアで船舶の仕事をしていたのだ。よく焼けている。

マイケルはアコーディオンをバッグから取り出し、颯爽とメロディーを奏でてみせる。アコーディオンなんて見たのは小学校の音楽の時間ぶりかもしれない。からっとした陽気な音が出る、心楽しい楽器だ。おもわずみんなと裸足で小躍りしてしまう。

陽が少しずつ傾きはじめる。まだチェバピは食べ切っていなかったが、実花とヘレンをもうひとつトレイルに連れて行ってあげたかったので、JJにおめでとうをいって出発する。

向かったのは、ポート・クレメンツ村の奥にあるゴールデン・スプルース・トレイルだ。僕のいちばんのお気に入りの森で、どうしても彼女たちに見せる必要があった。

時刻は8時前。日没は9時前後なので、もう少し明るい。傾いた陽光が60メートル以上ある大木の最上部のキャノピーをオレンジに染め上げている。静かなところだ。

森を語る言葉を持てればといつも感じるのだが、数世紀のあいだ世界を見下ろしてきた巨大樹に囲まれていると、それらを人間の言葉にしようという営みすら浅はかなもののように思えてくる。感じることは理解することの何倍も重要、とどこかの本に書いてあったっけ。

はだしになり、苔の上を歩く。ときどき枝がちくりとするが、深い苔の上を彷徨っていると、自分がどこまでも沈んでいってしまうような感覚に陥る。
「あ、これ結構気持ちいい」
最初は躊躇していた実花も靴を脱ぎ、直に森を歩いている。足裏に感じる刺激は身体中に伝わっていき、じんわりと芯から温められるようだ。ちゃっかりついてきたウォーリーも構ってくれる女子が二人もいて嬉しそう。

少し冷えてきたのでマセットまで戻ることにする。ジュスカトゥラの入江に差し掛かると、木々の隙間から真っ赤な夕焼けが道路を照らしている。素晴らしいタイミングだ。すっかり潮が引いて干拓地のようになったジュスカトゥラ湾は、まるで鏡のように西海岸に沈む太陽を映している。ウォーリーがひょこひょこ歩いて行ったので、僕たちもおそるおそる潮の引いた海底に歩き出す。数センチだけ水が残っているが、海岸線は数キロ先まで後退しているようだ。

これ以上ないフィナーレである。ひたひたとぬかるんだ地面を歩きながら、友人の島滞在における最後の日の入りを上手く締めくくれてよかったと思う。ヤクーン川に流されてきた木々の墓場のように、湾には巨木たちが横たわっている。少し靄も立ち込め、沈みゆく陽光に照らされてキラキラと光っている。幻想的な光景だ。

疲れが溜まっていたのか、少し無口だった実花も気分が良くなったようだ。
「アイス食べたい!まだスーパー開いてる?」

深夜営業している唯一のスーパーでひとりひとつアイスのミニバケツを買い、家に戻る。あらかたパッキングも済んでいたようで、実花はお土産用にポストカードを描き、僕とヘレンはアイスを舐めながら映画を見た。

5/4

僕が起きた時には、すでに女子陣は支度を終えていた。やればできるものである。

「これ見て、いい感じじゃない?」
実花が滞在中に仕上げた作品を見せてくれる。我が家の窓から見たチョウン川の油絵と、博物館で売っていた「先住民アート練習帳」的な本で学んで描いた数々の動物の絵だ。よく描けている。
「これをポストカードにして、友達に配ろうと思って。いいお土産でしょ」

11時前に空港に向かう予定だ。荷物も車に積み、お茶を飲みながらぐだぐだしていると同居人のサシャが降りてくる。
「ビーチショップが開いてるはずだけど、一緒に行かない?」
朝ごはんも食べていなかったのでちょうどいい。彼女たちを空港まで送る前にテイクアウトして行こう。

ビーチショップは週末だけ営業しているカフェである。スープやシナモンロールが美味だが、個人経営というのもあってなかなか高額なのでしょっちゅうは行かない。ローストビーフのクロワッサンサンドをひとつ買って10ドル。時々の贅沢である。

空港には隣人のヴァネッサもいた。今日の便でヴィクトリアに向かうらしい。彼女の友達もいまさっき到着したようで、挨拶をする。
「彼らは数日島に滞在する教師たちなんだけど、サウナに火を入れて案内してあげてくれない?」
「いいよ。僕もいっしょに入っていいの?」
「もちろんよ。ベラ・クーラという先住民コミュニティで働いてる人たちだから、気も合うはずよ。恩に着るわ」
ヴァネッサとはしばしの別れである。またすぐ帰ってきてね。

ターミナルの目の前に停まっている小さな飛行機にタラップがつながり、搭乗手続きが始まる。といってもドアの前でスタッフが紙のチェックリストを読み上げて客を確かめるだけなのだが。

「お世話になりました、とっても楽しかったです」ヘレンはお礼を言う時、いつも丁寧語になる。
「こちらこそ、来てくれてありがとう。ヘレンと出会えてよかったよ、東京でも頑張ってね」
彼女の日本での奮闘が上手く身を結ぶことを祈る。

「あんま言えてなかったけど、ここまで来れてよかったなって思ってる」
実花と長めの抱擁を交わす。光り輝く知性としなやかな反骨精神を備えた彼女は、大学一年生の時に出会ってからいつでも最も尊敬する友人のひとりだった。定期的に連絡を取ったりするようなことはしないが、時たまに会うたびにお互いの現在地を確認し、さまざまなテーマについて長々と語り、次会う時までの健闘を祈り別れる。戦うフィールドは違えど、同志のような存在だ。
「こちらこそ。あんたのことはいつも尊敬してるよ、この島でいっしょに過ごせて嬉しかった」

ふたりの大切な友人を乗せた骨董品のようなプロペラ機は、ささやかな騒音を奏でて回転数を上げ、雲が覆う春の空に消えて行った。さあ、この島での仕事に戻ろう——やっと長い旅が終わった気がした。

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上村幸平|kohei uemura
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