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大関をたった14場所で陥落した男⑧見えない日本人ファースト

稀勢の里の優勝をテレビで観ていた筆者は、違和感を抱いていた。
千秋楽、稀勢の里は照ノ富士との一番で、立ち合い、豪快に「変化」した。にもかかわらず、観客も解説者も実況担当も、誰もそれを批判しなかったからだ。
前日、大関・照ノ富士の変化を残念だと感じた私は、稀勢の里のそれも同じくらい残念だった。どちらも、優勝がかかった大一番に、休場ギリギリの手負い状態。変化を選ばざるを得なかったということに変わりはない。それをわかっていても、やはり変化は相撲ファンにとって残念なものなのだ。
照ノ富士の変化は琴奨菊がまともに食らい、一瞬で勝負がついたのに対し、稀勢の里のそれは照ノ富士がかわし、変化自体では勝負がつかなかった、という違いはあったにしても、だ。変化が批判されるべき取り口であれば、どちらも同様に批判されておかしくない。
それなのに、稀勢の里の変化は仕方がないと同情された。この状況こそが、目に見えない日本人ファーストによる差別なのではないか。「モンゴルへ帰れ」という直接的な攻撃よりも自覚しにくい分、ずっとやっかいだ。

そんなことを照ノ富士に伝えると、
「変化自体はお互い様。それしかなかったんでしょう。俺はケガを隠してたし、(反応の違いには)そういう影響もあったと思う」
と、彼自身は、二つの変化に対する世間の反応の違いを冷静に分析していた。しかし、ふいに「その取り組み、ちゃんと見た? 」と言いだし、千秋楽の映像を一緒に振り返るとになった。

いくつかの角度から撮影された動画を注意深く見ると、照ノ富士がはたき込まれて体が落ちる時、稀勢の里の左手が、照ノ富士の髷を掴んでいるように見えた。西側からの映像では、特にはっきりとそう見える。髷を掴むことは禁じ手だ。物言い※ がつき、検証の結果、反則負けになることもある。
映像を見ながら、照ノ富士は、「見えているのに見えていないふりをする人がいる」とだけ呟いた。

実際は「見て見ぬふり」ではなく、勝負審判が気付かなかった、もしくは掴んではいないと判断されただけだろう。そして、照ノ富士本人もそれはわかっている。それでも今になって、私のような無名のインタビュアーにあえてこの話題を伝えたのはなぜか。


優勝を逃した日のインタビューで照ノ富士は「目に見える痛みと見えない痛みがある」と語っていた。ネットニュースでそれを読んだ筆者は、隠していた膝のケガのことを言っているのだと思っていた。
しかし、この言葉は、このどこか日本人ファーストな風潮に傷ついていることを、大関の品格を保ちながら精一杯訴えた、照ノ富士の心の叫びだったのだと、今になって理解した。

1年前の千秋楽での出来事を一通り思い出した後、
「本割が終わった後は、まだ決定戦があるし、次で勝てばいいやと思っていた。でも、いろんなことを思い出して、熱くなりすぎて負けちゃったんだよね」
と、悔しい気持ちを隠すように、少しおどけてみせた。(つづく)

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※物言い・・・行司の判断した勝敗に対する異議申し立て。勝負審判と控えの力士が物言いをつけられる。


(本記事は、(株)宣伝会議が主催する教育講座「編集・ライター養成講座」の卒業制作として提出した記事から掲載しています)

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