大関をたった14場所で陥落した男③三兄弟の出会い「間垣部屋」
照矢は、入るべくして間垣部屋に入った。
「名古屋の実家から歩いて1分程の所に相撲部屋の宿舎があった。初めて激しい稽古を見て、とにかく面白くて、毎日勝手に遊びに行っていた。場所が終わって引き上げちゃうと、今の言葉で言えば相撲ロスな感じ」
中学2年の頃には、相撲部屋に入りたいという気持ちが高まっていたが、両親の勧めもあって高校には進学した。
「高校に入ったら気持ちも変わるかもしれないとでしょうって、両親は諦めてほしかったみたい。でも変わらなかった」
2001年1月、「呼出し」人生をスタートさせた。
駿馬は、1つ年上の兄を真似て、近所の相撲教室に通い、熱を上げた。小学一年生だった。
地元石川で中学、高校と相撲を続けた。その先の道も考えたかったが、当時の身長は入門基準の172センチには到底足りず、未練を断ち切るように相撲部の無い大学へ進学した。
ところが2001年、大相撲では第二新弟子検査が導入された。167センチ以上であれば体力検査と合わせて入門可能となった。一度は諦めた相撲への想いが沸々と再燃した。
「所属ゼミの先生から進路調査があって。それに『力士』と書いて提出した」
先生は驚きつつも、学内に力士出身の教授がいることを教えてくれた。話を聞くと、一時、相撲部屋で暮らした経験があり、やはり身長基準で入門を断念していた。2004年、その教授から間垣部屋を紹介され、ようやく夢の入り口に漕ぎつけた。
一方、2010年の終わりに間垣部屋に入門した照ノ富士は、大きな身体に恵まれたものの、17歳で柔道を始めるまで、本格的なスポーツはしてこなかった。
同郷の元横綱・朝青龍の活躍や、日本への観光旅行中に見た相撲部屋の稽古に心を奪われ、いつしか相撲をやりたくなっていた。飛び級で大学に進学していた程の秀才だったが、鳥取城北高校の留学生募集に応募し、高校編入という形で来日した。
「鳥取には1年もいない。8か月くらいで東京に来た。でもその頃には日本語も上達してたよ。自分、頭が良いんで」
実際話すと、なるほど頭の回転が速い。時折冗談を交えながら話す様は、日本の青年と何ら変わらない。いや、それ以上に、サービス精神にあふれた好青年だ。こちらの質問の意図を素早く察知し、すべてを聞かなくても答えをくれる
「自分で部屋を選んだわけじゃないよ。外国人は選べない。人数に制限があるから」
こうして、偶然にも同じ部屋で相撲道を進みはじめた三人。
しかし、最初から、今のような強い結びつきがあったわけではない。 (つづく)
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(本記事は、(株)宣伝会議が主催する教育講座「編集・ライター養成講座」の卒業制作として提出した記事から掲載しています)
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