シロたろし処女小説「ばあちゃんの葬式」


結局、ばあちゃんの死に目には会えなかった。94歳。誰もが認める大往生だった。自宅から池袋まで33分。池袋から大宮まで24分。15分待って来た新幹線に乗り継いで27分。高崎駅のロータリーでタクシーに乗り込んで20分。実家の玄関ドアを開けると、もう線香の香りが漂っていた。

ばあちゃんは真っ白な布団に横たわって、顔は白い面布で覆われていた。枕元には葬儀屋が手配したらしい御霊前セットが置かれ、線香の煙がただよっている。母さんからLINEが届いたのが池袋で湘南新宿ラインを待っていたときだったから、亡くなってから2〜3時間でここまで手配できるんだ。葬儀屋ってすごいな。そこまで考えたときに、僕は「死人」を初めて見たことに気がついて、少し動揺した。

母さんが泣き腫らした顔でお茶を運んできた。「ばあちゃん、頑張ったんだよ。あんたが帰ってくるのを待ってたんだろうね」ばあちゃんが亡くなったのは少なくとも2時間前だし、待ってたって言うにはちょっと無理があるんじゃないかな。でも…最後に会ったのは去年のお盆だったから、半年近く前か。やっぱり今年の正月に帰省しておけばよかった。

「顔見てあげて」「え?」「顔。ばあちゃんの」ああ。映画とかドラマで見たことがあるやつだ。「母さん、テルが来てくれたよ」母さん、普通に喋りかけるんだな。面布をずらして、ばあちゃんの顔を覗き込む。そこにいたのは、僕の知っているばあちゃんだった。ちょっとほっとした。死んだ人は顔が別人に見えるみたいな話をどこかで聞いたことがあったけど、全然そんなことはなかった。ただ眠っているみたい。「今にも起きてきそう」っていうのは、こういう状態のことを言うんだな。


でも、起きてこないんだよな。


そう思ったら不意に涙が出そうになって、僕は慌てて視線をずらした。窓の外には、子どもの頃から見慣れた、隣の公園のブランコが揺れていた。

保育園に迎えに来てくれたばあちゃん、母さんに内緒でお小遣いくれたばあちゃん、庭の梅の木から落ちた僕を背負って病院に運んでくれたばあちゃん…。そんなシーンが頭に浮かんでは消えた。よくあのブランコに僕を乗せて遊ばせてくれたっけ。やばい、本格的に泣いてしまいそうだ。


でも…


ここで僕が泣くのは違う気がした。大学に入って以来ずっと東京で、学生時代の仲間と立ち上げた劇団で売れない役者なんかやっている僕は、公演活動やアルバイトにかまけて帰省するのも年に1回か2回。決していい孫じゃなかった。だから、ここで泣くのはなんだかずるい気がする。泣いてもいいのは、人見知りで老人施設に入るのを断固拒んだばあちゃんをつきっきりで介護していた母さんや、入婿で母さんの尻に敷かれながらも介護や家事に協力していた父さん、それに…

「おう」振り返ると、兄貴が立っていた。「帰ってたのか」「うん」気づかれないように涙を拭う。6つ違いの兄貴は地元の市役所に勤めている。実家から通っているので、ばあちゃんともずっと同居していたことになる。ばあちゃんの病院の送り迎えや食事の世話や、母さんがぎっくり腰をやったときには、代わりにばあちゃんのシモの世話まで引き受けてくれていたと、母さんから聞いた。

「いいのか?エンゲキの方は」「あ、うん。今は稽古ないから」「お通夜は明後日の金曜日で、告別式は土曜日な」「わかった」淡々と会話しているけど、兄貴は泣いたのかな。横顔からは、その気配は感じられなかった。


ぴんぽーん


玄関のベルが鳴った。「あら、アオキさん。わざわざ来てくださったの」「ケアマネさんから連絡もらって、ご迷惑だと思ったんですけど、とらさんにお別れだけさせてもらいたくて」「迷惑なんてとんでもない。母さん喜ぶわ。ほら上がって」「じゃあ、おじゃまします」

そう言って入ってきたのは、50代くらいの、エプロンをかけた女性だった。「あら、こちらお孫さん?」「そ。弟の方。いま東京から。こちらヘルパーのアオキさん」そういえば、母さんがぎっくり腰をやったときに、さすがにオムツを替えたり毎食食事の世話をしたりするのは、仕事のある父さんと兄貴だけじゃ無理だってことで、そういう人に来てもらうことにしたって話を思い出した。「アオキさん、顔見てあげて。母さん、アオキさん来てくれたわよ」

アオキさんは座布団を外して膝立ちすると、ローソクから線香に火をつけて、手を振ってその火を消した。煙が昇る線香を香炉に立てて、手を合わせておがみ、面布をずらす。仕事がらこういうシチュエーションに慣れているのだろう。その無駄のない仕草に思わず関心してしまった。「…きれいなお顔。とらさん。がんばったね」そう言いながらばあちゃんの髪を撫でるアオキさんの頬を、涙が伝っていた。「顔見てあげて」からの一連の完璧な正解を見たような気がした。

「本当に、アオキさんにはいつも助けてもらって」「とんでもない。とらさんとっても優しい方で、いつもお伺いするのが楽しみだったんですよ」その口ぶりに嘘はないような気がした。ばあちゃん、いい人に面倒みてもらってたんだな。アオキさんは、母さんの淹れたお茶をひと口飲んでからしんみりと「お歌も上手で」とばあちゃんの方を向いて、かすれた声で歌い始めた。


「てんてんてまり、てんてまり…」


その続きの歌詞が、自然と僕の口をついた。「坊主が泣くから、かーえろ…」僕らが子どもの頃、お手玉をしながらばあちゃんが歌ってくれた歌だった。僕の隣に座っていた兄貴は「ぐっ」と呻くや立ち上がり、部屋を出ていった。立つタイミングを奪われた僕は、涙がこぼれ落ちるのを必死に堪えた。母さんとアオキさんの顔を見ることはできなかったが、涙を拭う様子は伺えた。


ばあちゃん…。死んじゃったんだな…。もう会えないんだな…。


やっとその現実に追いついた気がした。ぶわっと涙が溢れて、視界が歪む。
「とらさん、いいお孫さんに恵まれてよかったわね…。それにしても、そう…あなたが東京のお孫さん…ぷっ」

……あれ?


アオキさん、今ちょっと笑った?え?このシチュエーションで?アオキさんは僕から顔をそらして、セーターの二の腕あたりで顔をかくしている。

「あの…」「ごめんなさい、あのね、とらさん…おばあさまからお噂はかねがね」「あ、そうなんですね」「東京の孫がね、とってもハンサムで、まつ…松平健そっくりだって…ぐふっ」


最悪だ。


言っておくけど、僕は松平健には似ていない。ひとえだし、鼻も低いし、どちらかと言えばしょうゆ顔の部類だ。ただ、どうしたことかまゆげだけは太く濃く、きりっとしていて、おでこが広い。「眉から上ゴルゴ」とか「モンタージュ失敗」なんてあだ名で呼ばれたこともある。要は顔のバランスが悪いのだ。当たり前だが、ハンサムなんて形容詞からはほど遠い顔面だ。

でもばあちゃんは、身内の贔屓目もあったのだろう。昔から、テレビで暴れん坊将軍が始まると「ほら、あんたが出てるの一緒に見ようかね」と僕を横に座らせて松平健を見るのがお決まりだった。でも、それも小学生くらいの話だ。まさか30歳近いこの歳になって蒸し返されるとは。


「ほんと、とらさんの言ったとおり、よく似てるわあ…」アオキさんの目線は、僕の目線のやや上を泳いでいた。


「とらさんね、よくお孫さんの自慢されてたんですよ」慌てて取り繕うように、アオキさんは話題を変えた。「そう、なんですか」僕もギリギリ冷静を装う。「東京の孫が花見に連れていってくれたとかね」…身に覚えがない。「東京の孫がつくってくれる料理が美味しいとか」…実家で料理なんてしたことない。「東京の孫が肩を揉んでくれたとか」

…兄貴だ。全部。ばあちゃん、兄貴にしてもらったことを全部僕に変換して記憶してたんだ。

「そうそう、卒寿のお祝いで東京のお孫さんが」「兄ですね」「え?」「それ、全部兄ですね。兄と僕がごっちゃになっちゃってたんじゃないかな」「あらそうだったの…あんまり嬉しそうに話すもんだから」

しまった。もっと冗談めかして言うんだった。マツケンの件でただでさえ気まずいのに、さらに気まずい空気になってしまった。

アオキさんはその空気を断ち切るようにお茶をくっと飲み干すと、もう一度ばあちゃんに手を合わせ、帰っていった。「ばあちゃん、外面はよかったもんねえ。聞き分けがいいからヘルパーさんには人気あったみたい」いや、だからって孫がマツケン似の話はしなくていいじゃないか。「ボケちゃってたけど、あんたのことはずっと気にしてたんだと思うよ」母さんはそう言い残して部屋を出ていった。…それは、そうなんだろうな。ばあちゃん、ごめん。


ぴんぽーん


感傷にひたる間もなく、また弔問客がやってきた。「あらオオマエさん、わざわざ来てくださったの」「ケアマネさんから連絡もらって、ご迷惑だと思ったんですけど、とらさんにお別れだけさせてもらいたくて」「迷惑なんてとんでもない。母さん喜ぶわ。ほら上がって」「じゃあ、おじゃまします」

アオキさんのときと全く同じ展開で、同じくヘルパーだというオオマエさんが現れた。アオキさんと同じ年頃の、少しふっくらした女性だ。うちの担当の人が何人かいて、シフトで回してるんだな、きっと。またもや母さんの「顔見てあげて」のくだりがあり、オオマエさんもアオキさんと同じく無駄のない所作で線香を手向けると、ばあちゃんの髪をなでながら「…きれいなお顔。とらさん。がんばったね」と、アオキさんと全く同じセリフを口にして涙を流した。なにか流派があるのかってくらいのシンクロ率だ。

「オオマエさんにはいつも助けてもらって」「とんでもない。いつもお伺いするのが楽しみだったんですよ」これもほぼほぼアオキさんと同じ展開だ。…もしかして…。

予想どおり、オオマエさんも「お歌も上手で」とばあちゃんの方を向いて、かすれた声で歌い始めた。「てんてんてまり、てんてまり…」…ばあちゃん、ヘルパーさん全員にこの歌聞かせてたのか…。いやもう、さすがに初回と同じ感情は生まれないよな…リアクションに困って横を見ると、母さんはさっきと全く同じ感じで涙を拭っていた。まじか母さん。どういう感情のもっていき方だよ。

ひと息ついて向き直るオオマエさん。「あの、違ってたらごめんなさい。…東京のお孫さんかしら?」嫌な予感がする。「…そうです」嫌な予感がする。「そう…あなたが東京のお孫さん…ぷっ」


やっぱりだ。最悪だ。


「あの…」「ごめんなさい、あのね、とらさん…おばあさまからお噂はかねがね」「あ、そうなんですね」「東京の孫がね、とってもハンサムで、まつ…松平健そっくりだって…ぐふっ」

いやばあちゃん、どんだけ言いふらしてるんだよ。この後の兄ですねのくだりも、台本があるかのように繰り返されたが、さすがに2回めだし、ちょっとマイルドにやれた。「あらあ、そうだったの。でもお孫さんには変わりないものね」。フォローになっているようないないような言葉を残してオオマエさんは帰っていった。

実はこれで弔問客は終わりではなく、この日のうちに、ヘルパーさんがあと2人、さらにヘルパーさんを統括するケアマネージャーさん、リハビリ担当の理学療法士さんといった人たちが弔問に訪れては手まりの歌を披露し、僕の眉から上を凝視して吹き出し、僕(本当は兄貴)のばあちゃん孝行ばなしに至る流れが繰り返された。

慣れというのはすごいもんで、僕の対応もその度に洗練され、やがて「初めて聞いたみたいにリアクションするパターン」「失礼にならないように聞き流すパターン」などのバリエーションを身につけ、その日最後に訪れた往診担当のお医者さんのときには「全部自分から仕掛ける」パターンを試せるくらい、余裕を持って聞けるようになっていた。「あ、どうも。孫の松平健です」で機先を制するのがポイントだ。そこでつかめば、一気にこっちのペースで会話を展開できる。あとは大袈裟なリアクションからの「それ僕ですね」で一気に落とす。我ながら完璧なやりとりだと、納得できる内容だった。

一方、すごいのは母さんで、全員の話に同じリアクション、同じタイミングで涙を流していた。実の母親を亡くしたわけだから、孫の僕より悲しいのはわかるけど、一体どんな感情の流れだったんだろう。てゆうか、あれだけ同じ動作をトレースできるんだから、もしかしたら僕よりも役者に向いているんじゃないだろうか。


・・・・・・


人が亡くなってから骨になるまで、遺族は悲しむ暇もないと聞いたことがあるけれど、本当だった。葬儀屋との打ち合わせとか、香典返しの準備とか、お坊さんへの連絡とか、次から次へと忙しなく、その合間をぬって弔問客の対応もしなければならない。僕はまだいいけれど、母さんは本当に大変そうだったし、父さんはそのフォローに追われ、兄貴も公務員という仕事がらいろいろあるようで、家族でゆっくり話す機会もないままお通夜当日を迎えることになった。

母さんは朝からずっと、葬儀屋のセレモニーホールに安置された棺の前から動かなかった。母さんがまだ子供の頃にじいちゃんが死んで以来、母ひとり子ひとりでここまで生きてきたんだもんな。無理もないよ。父さんは特にやることがないにもかかわらず、ずっとソワソワして、待合室より喫煙所にいる時間が長いくらいだった。兄貴は兄貴で関係者への挨拶に追われて、イスの温まる暇もないほど忙しそうだった。僕だけが手持ち無沙汰で、20年ぶりくらいに会う親戚のおじさんおばさんの相手を引き受けざるを得なかった。

「照之くんは東京なんだっけ?」「ええ、まあ」「役者の卵なんですってよ」「そりゃすごい。今のうちにサインもらっとかないとな」「セリフってどうやって覚えるの?」「芸能人と会ったことある?」地獄の親戚あるある会話をやり過ごしているうちに、いよいよお通夜本番が始まった。

お坊さんの読経が続く。僕たち親族は一番前の列で横並びなので、横に座る両親や兄貴の様子を伺うことはできなかった。ただ、母さんがハンカチを目元から離さずにずっと鼻を啜っているのはわかった。あんまりひっきりなしに啜っているので、もしかしたらホールに飾られた花の花粉アレルギーでも発症したんじゃないかと心配になったくらいだ。

読経が終わると、司会者の女性から「故人の人生を振り返るVTRをご覧いただきます」というアナウンスが入った。場内の照明が落とされ、荘厳なBGMにのせて、ばあちゃんの写真がスライドショーで流される。故人を知る人にとってはかなり胸に迫る演出だ。「故、田代とらさんは、1926年、群馬県安中市に生を受け…」と司会者が原稿を読み上げ始めると、会場のあちこちからすすり泣きの声が聞こえてきた。モンペを履いておさげ髪のばあちゃん、結婚式で白無垢のばあちゃん…若い頃はこんな感じだったんだな…と感傷に浸りたいところだったが、隣に座る母さんの泣きっぷりがいよいよ隠しようもないことになってきて、浸るどころではなかった。子ども時代の母さんを抱くばあちゃんのスライドが流れると、ついに嗚咽が会場に響き渡るくらいのボリュームに到達し、心なしか会場の空気も引き始めているようだった。

「母さん、大丈夫?このあと喪主挨拶だからね。しっかりして」兄貴が小声で声を掛ける。「…ダメ…」え?なんて?「ダメ…無理…。お化粧も落ちちゃって…こんなんじゃ人前で、ご挨拶なんて無理…お父さんやって…」おいおい、どうするんだよ。「はあ?何言ってるんだ。俺ができるわけないだろう…」「だって…」「だってもさってもない。婿である俺が挨拶なんかしたら角が立つだろ!だいたい、お前が喪主なんだから」囁き声の攻防が続く。「でも…じゃあ、お兄ちゃんお願い…」「…わかったよ…」土壇場で兄貴が喪主挨拶を引き取ることに決まった。いいぞ長男。これでひとまず安心だ。

と思ったのもつかの間だった。「カンペは?」「え?」「カンペだよ。挨拶のカンペ」「…ない」「はあ?」「用意してない…頭の中でまとめてたから…」「じゃあ何話せばいいかわかんないじゃん!」「しー!」スライドは佳境を迎えている。司会者の女性は「お母さんの笑顔は、私たち家族に、大きな安心を与えてくれました」と読み上げ、画面には家族旅行で熱海に行ったときの僕たちが映し出されている。いや、安心どころじゃないよ!母さんは泣きまくって挨拶できないし、父さんは役に立たないし、堅物の兄貴がカンペなしで話すなんて無理だし…

ふと視線を感じた。両親と兄貴が僕を見つめている。「…え…俺…?」ちょうどそのタイミングでVTRが終わり、会場の照明が元に戻った。「テルちゃん、お願い!」「テル!お前しかいない!」「役者なんだろ!」「こんなときくらい役に立て!」「ばあちゃんの俺との思い出、全部お前に変換されてたんだから、お前がやるのが当然だ!」


最悪だ。まあ最後の兄貴の言い分はわからないでもないが。


「それでは、喪主、田代幸子さまより、ご参列の皆さまにご挨拶を送らせていただきます」アナウンスに押し出されるようにマイクの前に立つ僕。場内はざわついている。そりゃそうだ。明らかに喪主、田代幸子さまじゃない若造が挨拶しようとしてるんだから。「えー…」思ったよりマイクの音量がでかくて焦る。頭の中は真っ白だ。どうしよう。会場を埋めた喪服の群れからの視線を感じる。やばい。…とそのとき、最後列に並ぶ、見知った顔に目が止まった。


アオキさんだ!


オオマエさんもいる!ケアマネージャーさんも!理学療法士さんも!みんな神妙な顔つきだけど、なにかを期待するような目で僕のことを見ている!


…よーし、やってやる。僕はマイクを握り直した。


「えー、喪主の幸子に変わりまして、故人の孫である…」喪服たちの視線が僕に集まる。いまだ!「…松平健です」眉間に力を入れて眉を吊り上げる。………永遠に感じられるほどの一瞬の間のあと、会場がどっと湧いた。よし!いける!僕は調子に乗って、自虐を織り交ぜながら祖母との思い出を語り、祖母に兄貴と間違えて覚えられたエピソードを語り、最後は手まり歌を歌って締めるという、これ以上ない構成の感動スピーチを披露することに成功したのだった。

翌日の告別式でも、お通夜と全く同じテンションで母が泣き続けたため、代わりに僕が喪主挨拶に立ち、さらにブラッシュアップされたスピーチで会場を盛り上げた。式後に見知らぬおばさまから「お通夜のご挨拶がよかったから、告別式にもきちゃったの」と握手を求められるほどだったのだから、これは自己満足ではないだろう。

火葬場での最後のお別れでなぜか父さんが泣き崩れるなど、怒涛の展開は続いたものの、ばあちゃんの葬式はしめやかに執り行われ、田代家の生活は日常に戻った。


・・・・・・


「いいお式でした」っていう言葉は葬式には使わないんだっけ。でもいいお式だったな。ばあちゃん、ちょっとバタバタしたけど、いいお式だったよ。東京に向かう新幹線のなかで、怒涛の数日間を思い返しながら車窓を流れる景色を眺めていた僕は、唐突に思い出した。


そうだ。僕は…


いつだったかばあちゃんに、「あんたはハンサムなんだから、役者にでもなっとくれよ」と言われたことが頭に残っていて、大学の新歓時期にふらっと演劇サークルを見学にいったんだった。

ばあちゃん、なんてこと言ってくれたんだよ。おかげで今年30歳になろうってのにこのていたらくだよ。…でもまあ、この「眉から上マツケン顔」のおかげで、個性派俳優としてそこそこ舞台では需要あるんだな、これが。ばあちゃんが期待してた形じゃないかもしれないけどね。


よし。明日はオーディションだ。



おわり


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