ネズミ講編 その1の3(ラッキーパンツ)
喫茶店には休日の昼らしくボサノヴァが流れ(たぶんジョビンだったと思う)、首都独特の湿度をうまく処理できていないためか残暑というには暑く熱く感じる東京の9月のアスファルトから立ち登る蜃気楼を見ながら涼しい店内でゆっくりするのにはこれ以上ない雰囲気だったのだろう。
普通の精神状態の者にとっては。
向かいの席にゆっくりと座った久保女史はふぅと一息をつき、穏やかな笑みで切り出した。
「突然ごめんねぇ〜、びっくりしたでしょ!」
「まあそうですね、でも何で東京のオフィスの電話番号がわかったんですか?」
余裕を全面に打ち出したい俺は内なる狼を飼い慣らしつつ平静を装い質問した。
「群馬の会社に電話したんだけどぉ〜、出向でこっちにいますよって総務の人が教えてくれたんだぁ」
「ああー、そうだったんですね!」
うん、アウトだよね。
完全にスリーアウトチェンジゲームセット終了。
でも90年代は個人情報保護に対する人々の意識が「そろそろなんとかしにゃぁならんでしょうねぇ、さてどっから手をつけたらいのやら」という雰囲気だったのでユルユルもいいところで、古書店等を除けば高校や中学の生徒名簿のようなものが一冊1000円程度で売っていたりしたものである。
「すごいネェ〜、群馬からこっちに来て仕事してるんだぁ〜。大変でしょ!」
「まあ大変ではあるけど、楽しいですよ」
楽しいのは焼き鳥屋や退勤後のスナックアンドフルーツ盛りだが、そんなことは噯にも出さない出してないつもりの19歳童貞。
「お待たせいたしました」久保女史のオーダーしたアイスコーヒーが到着する。多分店主の奥さんであろう上品な50代女性のウエイトレスが丁寧にグラスとミルク、ガムシロップを置く。
(あの透明な液体、なんだべ。)
地元ではまともな喫茶店など入ったこともないし、問答無用でガムシロップ入りのアイスコーヒーを出してくるような所でしか外食をしたことがなかったので、まともに外食できるようになる20歳過ぎまでは喫茶店マナーなど全然わかっていなかった。
久保女史はブラックのままアイスコーヒーをやや多めにひと口のみ、性急ではあるが本題に入る。
「シリウス君ねぇ、もうすぐハタチでしょう?」
「そうですね、10月でハタチになります」
「ハタチはもう大人だからぁ」
その通り。
こっちのカラダはもうとうの昔に大人の階段を登り精神は一時的にハタチを踏み外して暴走している、お前はもう俺の獲物になるのだよ。
「自分が自分であるっていう証明も必要になってくるのねぇ」
「あー、そうなんですね。」
「それでぇ、車も買うことがあるでしょう?」
「そうですね、そろそろ欲しいとは思ってますね。ボーナスも出るし年末とかに考えてます」
「あ、そうなのぉ〜!すごいじゃん💓」
久保女史の表情が一際輝き、人懐こい笑顔が俺の脳幹を揺さぶる。
久保女史は多分上質ではあるがリーズナブルなコロンを使っていたのだろう、時々フワっと香ることで俺の正常な判断力をガリガリと削る。
何しろ嗅覚は五感の中では一番処理速度が速いし、多分海馬にも残りやすいのだろう。忘れられない匂いというのが今でもいくつか存在する。
「それでぇ〜」
久保女史がハンドバッグに手を伸ばし、書類を取り出した。
いよいよ本題か、いったい何の用があってここに来たのかそういえば聞いてなかったな。
「あ」
俺は声にならない声を押し殺した。
青森にいた頃は見慣れた絶景だった八甲田山、部活の遠征で何度かみた岩木山、そして春夏秋冬それぞれ全く別の魅力的な顔を見せる十和田湖と奥入瀬渓流。
そんな絶景とは真逆というか9次元ベクトルでいうとXYZ以外のどこかの軸がグレっと回転したような現象が目前に観測されていたが、一言でいうと久保女史のパンツが見えていた。色は白だ。
我々は普通に生活にしていては女性のパンツなど見る機会はないのだ。
土曜の喫茶店で目の前に突如現れる明るい未来の象徴。
俺はコーヒーを飲み何か用事があって訪ねてきてくれている女性の話を聞いているだけなのに。
ラッキーパンツin大崎、素晴らしいナインティーンサマー。
これは獲ったろ。今夜は大変なことになるぞ。
時が時ならヘヴィな頭痛も辞さずバイアグラ的妙薬を使用するところだが当時はそんな金は無い。
いわゆる「時間」というのは存在しない、現在過去未来を都合よく認識するための人間が作成した概念であって現象や物質としては存在はしない。それは理解できる。
その絶景を拝見した瞬間、確かに時間は消えた。
貧しかった子供時代、辛すぎる部活動、滅茶苦茶に緊張した就職面接、保育園のころ好きだった女の子にちょっかいを出して怒られたことなどが量子レベルでシナプスの間を駆け巡ることを感じ目の裏で宇宙が弾ける。
龍のような花火が瞼の裏を走り、下半身に血流と緊張を感じ正拳突きで鍛えた精神力で捩じ伏せる。
ラッキーパンツin大崎、素晴らしいナインティーンサマー。
余韻に浸る間も無く久保女史は残酷な笑顔で、マニュアル通りなのか無情なセリフを不動のマイルストーンのごとく、二人の前に「ドッ。」と置いた。
「車とか買ったりするのにねぇ〜、こういうハンコが必要なんだぁ」
フワァとテーブルに置いたパンフレットを久保女史が綺麗な指で押さえる。パンフレットには「30万、50万、70万」といった商品が並んでいた。
どうも長くなってしまった。
次で「ネズミ講編1」完結を年頭の辞とし今夜は筆をおきます。
アディオス、アミーゴ。
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