
不特定多数の他者に向けられた怒り
1967(昭和42)年 6月21日『朝日新聞』夕刊「標的」
野放しの怒り
昭和の初めごろ、江戸川乱歩の短編に、動機のない殺人の方法をいくつか列挙したものがあった。動機がなくて殺人の大罪を犯す者もいないだろうから、探偵小説(推理小説)とは、新奇をねらってずいぶん現実離れしたところまでゆくものだ、と当時は考えていた。
◇
ところがこのごろでは、小説が現実となっている。山陽電車の中での火薬物の爆発で、とうとう死者が出た。草加次郎いらい、動機のない傷害あるいは殺人をめざす悪質行為が始り、今年になって頻繁になった。正確には、この種の犯行にも動機がないとはいえない。しかし、それは利害でもなければ特定の他者に向けられた怒りでもない。それは不特定多数の他者に向けられた怒りであり、多少の好奇心もまじっているようだ。
◇
今日の社会は大変複雑になっていて、不満や不幸に苦しめられても、それがだれのせいで起るのかわからない仕組みになっている。たとえば封建的な家長や地主や企業主はいなくなった。戦争中のように赤紙一枚を交付して生命を要求する軍隊もなくなった。自分の不満や不幸の直接の責任者はどこにも発見できない。しかし、どこからともなく重い圧力がかかってくる。ぼんやりとした圧力の性質に対して、怒りの反作用も特定の目標なしに拡散する。だがこの怒りに触れた犠牲者は、怒る力さえ奪われてしまった。野放しの怒りをこれ以上まんえんさせてはならない。(P)
2009年9月に作田は「不特定多数を狙う犯罪」(『Becoming』第24号)を発表している。21世紀に入る前後で頻発した通り魔事件(池袋、下関、土浦荒川沖駅、秋葉原)や池田小学校児童殺傷事件をとりあげた論考だ。
そこでは、1980年代初めに起きた不特定多数殺傷事件との比較において上記の事件群の特徴が挙げられていたが、さらに遠くさかのぼり、不特定多数に向けられた犯行の始まりが1960年代にあったことが、このエッセイからわかる。
いまや私たちは「動機なき犯行」という言葉に慣れてしまっている感がある。しかし、それが現実離れと感じられる時代があったこと、その始まりからそれは作田に注目されていたこと、そして乱歩の先見性といったことを教えてくれて興味深い記事だと思った。(粧)
*(P)はこの年のこのシリーズでの作田のサイン。意味のわかる人はかなりの作田通です。(^^)/