指標とは何か②
〔中略〕
“ファランジュ”のモデル
作田 やはり、ひとつの転換期、それがいつまで続くかわからないような長い転換期にきているのかもしれませんね。ひとつは国際的な関係から決まるというかある程度外側から決まっていく目標がありまして、その目標を達成するために個人や集団といった単位が、欲求をコントロールするというシステムがあり、それが文明を築く原動力になったと思います。歴史的にそうだと思います。
それに対して、人間の欲求のほうから出発し、これを基本にして社会のシステムを構想するという立場もありえます。
最近ある研究会でシャルル・フーリエ(1772-1837)の話を聞き、非常におもしろいと思いました。フーリエの時代には自然科学とか、社会科学とかがまだ十分に分かれていないで、彼はなんでもやってます。彼の「四運動の法則」なるものは物理世界と有機的世界と個人世界と社会的世界を貫くひとつの法則なんです。4つの系(Série)があって、その系は全部同じ法則で動いていくという雄大な構想を持っていました。そのころはまだ、フーリエのように、各分野に共通の指標を設定することができたのでしょうね。
ところでこのフーリエは“ファランジュ”というひとつの理想の共同体を考えました。彼は人間の欲求を、野心とか恋愛とかの12の欲求に分けましてそれらの欲求を満たすために、大体1,600から2,000人ぐらいの集団が、最適だという計算をする。その2,000人ぐらいの集団の中で、いろいろなサブ・グループをつくりまして、それぞれの欲求に即して、いろんな集団に参加する。その場合のフーリエの目標というのは12の欲求をいかに満たすかという基準で、社会を構成するということですね。社会をつくっておいて、それを維持するために人間はどういうふうに欲求を満たさなければならないかではなくて、まず欲求から出発して、その欲求を満たすために、どれくらいの集団をいくつ作って、どれにどれだけ参加して……、というふうに全部を計算して、2,000人ぐらいの集団を考える。これはやはりひとつのモデルだと思います。
フーリエは、2,000人ぐらいの単位で一応サブ・グループの数を計算したわけですけど、日本の場合のように1億ということになると、とても計算できないでしょう。日本だけでは具合が悪いので、世界にまで母体を広げますと、天文学的な数字を使わなければならないでしょう。しかし、原理としては、そういうシステムの構成の仕方がひとつある。
それともうひとつ、上からいく方法ですね。社会が存続していくためには、何が必要かを考える方法です。このふたつがいま葛藤していると思うのです。その葛藤のいろんなあらわれかたが、たとえばGNP対GNWという形で出たり、その他いろんな形で出てきているわけですが、原理的にはこの対立は非常に単純ではないかと思うのです。
武井 2,000人ぐらいの集団がモデルの規模で、いろんな欲求にしたがって行動するときには、サブ集団ができるわけですね。
作田 サブ・グループがいっぱいあるわけです。フーリエは人間というものは2時間同じことをすれば退屈するという哲学を持っていまして、集団参加は2時間ずつで区切られています。朝から、2時間ある集団で行動し、また次の2時間を別のサブ集団ですごす。
湯川 なかなかおもしろい考え方ですね。
武井 たとえば、最初社会科学について作田さんが話されたように、ある程度、そういう矛盾を集約する方向として、社会科学の統合化が考えられたりしています。物理も同様に分化し、さらに再統一されようとしているということです。
指標とか目標という問題をずっと追いかけていった場合、個人の思考の様式や、あるいは社会の行動様式を決定できるような基礎的なところへ戻るには、もう1回、そういうふうに分化したものを統合化していく方向の方に可能性があるのでしょうか。あるいは、フーリエのように、それは組織原理といいますか、構成の原理というものとはまったく違っていて、ほんとうはもともと分化しているものが、ある有機性でまとまっていくんだというような考え方のほうが、可能性が高いのかという問題がありますね。
湯川 その二面はかならずしも矛盾しないのではないでしょうか。多様化ということとすべてが細分化していくということとは違うことですね。それを同一視してしまうと、どうにも出られない隘路みたいになりますけれども、両者をうまく結びつけ統合へ向かうのが、学際的なことでもあるんじゃないかという気がしますね。フーリエのモデルで、サブ集団に参加して2時間ずつ別のことをするというのは、個人は細分化されていないわけですよ。
たとえば、もっと非常に変な例をあげますと、これは花嫁学校みたいなものでしょう。ここではいろんなことをやるほうがいいわけですよ。お茶もやる、お花も音楽もやるというふうにですね。それは多様化のひとつの行き方ですよね、しかし、それは専門への細分化ではない。それと、社会の機能が細分化されていて、まとまりがつかないということとは違うんじゃないですか。両立しうることのように思いますね。
作田 フーリエの場合、もちろん分化と統合の両立性を考えているわけです。全体のシステムが2,000人というワクに限定されているので、分化と統合が相互に隔離しない保障がある。そこで人間の全体性がある程度保障されるわけですね。これが国民的規模、世界的規模での分化と統合に、だんだん進んでいくことに対する、ひとつのアンチテーゼにはなっているわけですね。
湯川 非常に基本的なアンチテーゼですね。先ほど私は巨大科学について話しましたけど、科学に限らず、なんでも巨大化してゆく。巨大化していってしまいますと、なかなか解決できにくい問題が出てきます。つまり学問の細分化と同時にその中で巨大化に持っていく。細分化と巨大化は別のことでもない。むしろ並行するのです。どちらも困りますから、フーリエ流に2,000人単位でやるのがいいかもしれませんけれど、これはまたいうべくして実行がむつかしいですね。
作田 中国のことはよく知りませんが、中国の場合には、なるべく地域の全体性とか、自主性を尊重するシステムですね。しかし、そのために今度は全体の統合ということをどのようにして達成するかということになると、やはりそこで、毛沢東崇拝とか、イデオロギーが出てきている。なにかそういうものがないと完全に地方が分散するのではないでしょうか。お金の尺度じゃないですけど、なにかイデオロギー的なものがないと分散したものを統合しにくくなる。そういうジレンマをどう解決していくのか。ナショナルなユニットが国際社会の中で存続していかなければならない以上、どうしても統合の動機づけが必要なわけですね。そのジレンマは不可避ですね。
湯川 また、工業化といいますか、近代化というか、科学の進歩と並行してきてるわけですよ。そういう科学文明というものは、それは小さな、たとえば2,000人の単位であるというのとは逆の方向です。たとえば、遠いところから電力を供給する。その場合は、大きな電源があって、何万人、何十万人という人に供給するほうが、はるかに能率的であり、小さく分けてやったのでは、まったく能率が上がらんということがたくさんあるわけです。それを切りかえて、辛抱しようと思うとうんと生活水準を下げねばならない。これは先進国ではなかなか耐えられないわけです。中国といえども、やはり似たような問題はいくらもあるでしょう。
「減速工学」のすすめ
武井 そういうことを考えますと、先ほどおっしゃった転換とか変化ということは、非常に長い期間連続して考えなければならないでしょうね。
作田 ある時期には、また片一方の集中性というのが強くなったりしますね。国際社会という問題がありますから湯川先生がおっしゃったように、ひとつの国だけではできないわけでしょう。そういう複雑な国際関係のファクターが入ってきたりするとなおさらですね。
湯川 しかし、いままでの傾向に対しては、相当ブレーキをかけて、別の方向へ向けるという努力はどうしてもしなければならないわけです。この間、テレビをみていたら、近鉄の衝突事件について、NHKの村野さんが解説しておりました。そのときの話に、ああいう悲惨な事件が起こるということは、エンジニアリング、工学の分野で、「加速工学」に比べて「減速工学」がおくれていることがひとつある。今までは、制御と称して加速するほうだけに力を入れてきた。おそくする方法「減速工学」というものが進んでいない。これが非常に基本的な問題だろうというようなことをいっておられた。私もまったく同感です。
大体暴走しつつあることは非常にたくさんあるわけですから、それを非常に広い意味での減速、狭い意味で減速工学ですが、学者がなんとしても、協力して、行き過ぎたものを引き戻す役をしなければならんわけです。その引き戻しを有効にするのは、技術的にむずかしいことがいろいろあるでしょう。しかしそういう研究は、非常に重要で、たぶんそういう傾向の研究は、“学際”でも特に重要になってきますね。
たとえば公害にしても、公害をなるべくださないようにするというのは、ひとつの減速です。出てきたものを有効に使うということができればけっこうだが、なかなかそう全部はいかんです。これはどうしたって広い意味の減速工学です。社会科学の方面では、そういう考え方というのは、わりあい弱かったんじゃないですか。
武井 社会のほうは、ダイナミックな力みたいなものがあって、ほうっておけば、爆発的なものになるのを少し減速していくということですね。
湯川 そのダイナミックスなるものは加速になってしまいやすい。それでは具合が悪いので、相当人為的な抑制がいろんな方面で必要なわけでしょう。
作田 経済学の場合には消費の研究がかなり弱かったと思うのです。生産の面では企業体とかのオーガニゼーションが、どんどん発達して、その力でもって巨大な出力が出てくるわけですね。ところが消費者のほうはまったくバラバラでしょう。たとえば近鉄に乗っているお客さんというのは群衆ですから、どうしようもないわけですね。ですから、減速の力が出てくるのは、やはりそれを受けるほうからじゃないかと思うのです。ところが受けるほうは分化の極限にまで達している。つまりマイホームに分散してしまって、全然組織がないわけです。社会科学的な力学でいえば、速い方ばかり進むわけですね。
そういう意味では、公害の問題などをめぐり、住民といいますか、消費者のオーガニゼーションをつくろうとする動きが出ているというのは、社会科学の新しい重要な問題になるんじゃないでしょうか。一方的に進んできた生産的価値を至上とする考え方に対して、今度は実際にそれを享受するほうの立場のオーガニゼーションの問題が出てくるのではないかと思います。
湯川 そのとおりですね。ただそういう立場というと、消費者の集団、組織あるいはコミュニティといいますか、そういう集団が常に建設的であるというのはむずかしいですね。本来減速というのはなにかを止めるほうですから、本質的にもあまり建設的じゃないようですが、しかし、かなり、なにか建設的な性格を持たないと、今後なにもできなくなる。
たとえばゴミ処理場を自分の近くに持ってきてほしくないとだれでも思うわけです。みんながそれで頑張ったら、どこにもできない。結局それは力関係で、弱いところが泣き寝入りすることになるわけです。非常に地域的な利害、それも小さな地域の利害だけで動きますと、にっちもさっちもいかなくなる。
だから、減速も大へん大事ですけれども、それをうまくやるのは加速よりはるかにむずかしいと思います。加速というのはかってに、それぞれの企業とかがこぞってやるわけですから、ほうっておいてもそれがダイナミックスになります。組織の推進者がどこにでもおりますからね。ところが減速のほうは、作田さんがおっしゃったように、一体だれがやるか。そこの住民が自発的にやるということだけれども、皆が、ばらばらにやると、また集団の間の利害が衝突してむずかしくなる。
作田 だから、非常に楽観主義的になるかもしれませんけれども、生産力が非常に上昇しまして、労働時間が短かくなり、1日平均3時間ぐらい働いたら、もう暮らせるというふうになってくれば、その余暇が生活のためのオーガニゼーションという方向へ向けられ、エネルギーが利用できるというふうになれば、生産力が上昇することが、消費者の組織化とか住民の組織化を進めるという方向にプラスに働くわけです。
ところが、人間の欲求の理論がもうひとつ確立していなくてどこまで欲求が肥大していくか見当のつかないところがありまして、ある程度満足しても、もっとほしくなって、もっと働くということになれば、いつまでたっても労働時間が短縮できなくなるということですね。この問題に関する見通しは従来からいわれていますが、つくられた欲望と真正の欲望との区別をどこでするのか、メルクマールをなにに求めるのかという、人間の欲求の理論そのものの発展がないとむずかしいと思います。
武井 本日は「指標」をめぐって貴重なご意見をいただき、どうもありがとうございました。