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映画音楽
1970(昭和45)年 9月14日『FM fan』No.19「FMサロン」
映画音楽
作田啓一
映画が進行する場面で生ずる音とは別に音楽の伴奏が伴っていることはどう考えてもリアリズムに反する。ところが、場面によく適合する音楽が伴うことで、その場面が観客に惹き起こす感動を強めることができる。
映画音楽の思い出をつづってみよう。ジョセフ・コスマの「ヘッド・ライト」や「太陽がいっぱい」などは、音楽の力が圧倒的であった。モーリス・ジョーベールの「巴里祭」もそうであったと思う。
作曲者の名前を忘れてしまったが、ジャック・フェーデ監督の「外人部隊」という映画で奏でられた行進曲のメロディーを、今もはっきり覚えている。
こう並べてみると、フランス映画ばかりで、それもはなはだ古風なスタイルの映画である。「会議は踊る」なども思い出すが、これはいわゆる音楽映画で、主題歌に歌詞がついている。私は音楽映画でない映画の中の音楽のことを、いまは語りたい。
ノスタルジックな感情を誘い出す
歌いやすいメロディーが大事な場面で繰り返される映画は、そのメロディーを通じて記憶に残る。ジュリアン・デュビビエの映画をたくさん見たが、「舞踏会の手帖」と「望郷」(ぺぺ・ル・モコ)が一番記憶に残っている。音楽が連想させるふん囲気を思い出すからである。
これに反して「地の果てを行く」とか「我等の仲間」はよく思い出せない。私の思い出す映画音楽のメロディーは、すべてノスタルジーの感情を惹き起こす。「ヘッド・ライト」だの「太陽がいっぱい」だののメロディーを思い出すと、私は過ぎ去ったものへの郷愁で胸が苦しくなる。
そういうノスタルジックな感情を誘い出すということが、映画音楽の成功度の一つの基準ではなかろうか。というのは、大体において二度と見られないのが映画という芸術の特徴だからである。ノスタルジックな感情は、もちろん詩や散文詩によってもたらされる。たとえば「パリの憂愁」の中での〈公園〉の風景に、私は郷愁をもつ。中原中也の詩の多くは、ノスタルジーの世界に私たちを引きずり込む。
しかし、活字は、必要な時にはいつでも簡単に読み返される。映画は、実際においても、二度と見られない。そこで、ノスタルジーの感動が二重になるのである。
郷愁に伴う感動の種類は何であろうか。郷愁とは、本来は絶対に二度と経験できないものへの愛着である。いつでも帰れる故郷に対しては、私たちは本当の郷愁をもちえない。郷愁は時間のもつ矛盾した二重性の上に成り立つ感動である。
過ぎ去った時は再び帰らない。これは時間の鉄のルールだ。しかし、想起することによって過去は想像の中に再び甦ってくる。過ぎ去った〈時〉は、よく生きた〈時〉であろうか。それとも、よく生きなかった〈時〉であろうか。私は、それはよく生きなかった〈時〉であるように思う。
いつもよく生きている動物には郷愁はない。生きられなかった生は怨恨を残す。そしてそれが郷愁のもととなる。
しかし、かつての〈時〉は今よりも相対的にはよく生きた〈時〉である。よく生きたかどうかを判定する規準は動物にはない。動物はいつもよく生きているからである。
人間が自然から離れ、精神を獲得したとき、人間は比較するようになった。そこで、人間のみが郷愁をいだく。
「ヘッド・ライト」の場合
「外人部隊」の行進曲の笛は鋭く乾燥し、私の心に突き刺さる。白い道が続いている。ピエールはこの世に本当に望みを失い、再び部隊の行進の中にはいってゆく。彼は白い道のかなたに何を見ていたのだろうか。それは生きられなかった生にほかならない。
しかし、本当に望みを失ったものは郷愁をいだくことはない。彼は動物のように生きる。本当に望みを失ったかのごとく振る舞うことによって人生を見る人だけが、郷愁をいだく。
これがシャルル・スパークとジャック・フェーデのテーマであった。主人公ピエールは演技者なのだ。彼の演技性を象徴するかのように、下宿のおかみはトランプ占いで凶の運命を予言する。
アンリ・ベルヌイユの「ヘッド・ライト」のすべり出しはこうだ。タイトル・バックに一つの建て物が映る。人気のない田舎町のガソリン給油所兼宿泊所である。砂塵を巻き上げる砂の音とともに、ジョセフ・コスマの短調の曲が流れ始める。カメラは宿泊所の中へはいり、ベッドに寝ころんでいる中年男を映す。ストーリーは彼の回想から始まり、すべてが終わったあと、砂塵の中の建て物が再び映って幕が閉じる。
このソネット風の構成の中間部分でドラマが展開されるが、その中でも、初めと終わりに、同じトラックの運転台と、そこから眺められる同じ風景が映される。
しかし、この反復は同じ意味をもっているのではない。すべてが始まる時と、すべてが終わる時との対照が、中年男の運転手の目と、それに重なる観客の目とを通して映されているのである。
妻子のある生活に疲れたトラックの運転手がパリ-リヨン間の運転中にいつも立ち寄る宿泊所の女中と仲よくなり、いろいろのいきさつのあとついに家族を棄てて彼女とともにトラックでリヨンへ向かうが、その途中、流産のために女が死に、男は再び以前の生活へ戻る。平凡な悲劇だ。ヒーローはなすところなくもとの日常性に帰り、妻もまた生活への配慮のために、何ごともなかったかのように彼を迎えるからである。生活がすべてを圧し潰す。
死んだ女も行き場所がなかったのだ。彼女の母は若い男との生活のために、娘とかかり合いをもとうとしない。氷のような表情で母と娘が向かい合う公園のシーンは、この映画の中で最もすぐれた場面の一つである。
音楽は自由への郷愁
こうしてクロチルドは死んだが、主人公の生活は変わらなかった。単調にサイクルを繰り返す人生そのもののように、トラックは同じ道を往き、同じ道を還る。睡魔に襲われがちな運転手は、丁字型の道の突き当たりに、ヘッド・ライトで照らされる家を見いだし、あわててハンドルを切る。何ごとも起こりはしなかった。だが、宿泊所のベッドに寝ころぶ主人公のまなざしは遠くを見つめている。短調の曲が流れる。郷愁で主人公の胸はいっぱいになっているに違いない。
音楽は一般に過去を思わせる。それはすべての人間が子ども時代をもっているからである。すぐれた音楽ほどそのころへの郷愁に人を誘い込む。たとえばモーツァルトやシューベルトの音楽がそうである。私たちはすべて子どものころ夢中で生きていた。青空を見上げ、トンボが飛んでいるのを見るだけで、私たちの全身が空に溶け込むような気がした。私たちは自由であった。音楽は一般にその自由への郷愁である。音楽に未来はあるだろうか。私にはないような気がする。
人は普通、過去と未来と同格に並べるが、そのとき人は時間の概念を空間の概念に置きかえているのだ。過去と同種の意味をもつ未来なるものは存在しない。(京大教授)
若干の訂正:
「ヘッド・ライト」→「ヘッドライト」
リヨン → ボルドー
*その他お気づきのことあればお知らせくださいませ。(粧)