短編小説 「凹面鏡」
ものごころついた時から、ある人形と暮らしていた。
幼いころに祖母が贈ったものらしい。もうあまり見ない日本人形だった。芸者のような顔は真っ白で着物をまとっている。
友人などできない性質であり、両親の帰宅も遅いためいつしか人形に話しかけるようになった。
「今日はさ、体育の先生に怒鳴られちゃった。どんくさいのは体育なんかで治りゃしないのに。」
人形は空を見つめたまま。それでもヒトのかたちをしていればいい。
「下校中さ、排水溝の横にさ、きれいな花があったんだよね。名前なんだけっけ、春の七草だった気がする。ええと、せり、なずな….。」
中学生になった。友達といえばあいかわらず人形だけだった。
でも、小学生の頃との明らかな違いとして、人形が話すようになった。
「中間試験のテストさ、平均点取れなかった….。勉強したつもりだったんだけどな。頭もどんくさかったらしょうがないや。」
「そんなこともありますよ、次は頑張りましょう」
「はいはい、次はもっとってことね」
「今日も母さんが帰ってくるの遅いんだって。コンビニって新商品って言いながらちょっと前のと同じようなパスタを出してくるから飽きちゃうんだよね。」
「コンビニエンスストアも経営が大変なのでしょう」
「そんなこと言われたってねえ。」
日本人形は、いくつなのか知らないが、大人びて見えた。大人っぽい対応をすることが多い。両親や先生としか話さないためか、その方が居心地がよかった。
高校生になった。学校が変わって人間関係が変わっても相変わらず人形と会話していた。
「そろそろ進路決めろって先生に言われるんだけど、なりたいものとかないしな」
「そんなことでどうするんですか、大学に行くか、就職するかからはっきりしないと」
「やりたいことないのに決められるわけないじゃん」
「親が勉強勉強うるさいんだよね、勉強なんてできなくたって生きていけるし」
「勉強しないと将来の選択肢が狭まりますよ」
「そんなことわかってるよ」
だんだん説教がましくなっていく日本人形が、鬱陶しくなってきた。身じろぎひとつしないくせに偉そうだ。
高校の2年目あたりから、だんだんと会話をしなくなっていった。
会話しなくなってから何ヶ月経ったかわからないが、ふと人形を見ると顔が真っ黒だった。目も真っ黒だから孔のようになっている。もうどこを見ているのかわからない。部屋のどこにいても見られている気がする。
いつから黒かったのか見当もつかない。ぞっとしてとっさに箪笥の上の人形を壁側に向けた。後ろ姿は普通だった。
その後から、変な夢を見るようになった。首輪を繋がれて、人形に引っ張られている。計画都市のような、無機質で、真っ直ぐな真っ直ぐな道を引きずられている。
「なにしてるんだ」
「……。」
人形は速度をどんどん上げる。脚は動いてないのになんでそんなに速いんだ。着物の裾がなびく。運動してないもんだから、すぐに追いつけなくなる。躓くと最後、カウボーイに捕まった悪役みたいに無様に引きずられる。
首が絞まり、息ができなくなり、意識が飛んで、目が覚める。
こんな夢を何回も見る。夢のせいか、徐々に具合が悪くなっていった。高校にも遅刻するようになった。親に怒られる。
次の夢で、人形に直談判してやる。
「なんのつもりなんだよ」
「….。」
「おい」
人形が、一瞬力を緩めたように思った。とっさに首輪から繋がっている紐を手繰り寄せて人形を捕まえた。
もう、人形が憎くて憎くてたまらなかった。捕まえた端から思い切り首を絞めた。人形のくせに折れない。
「わたしは、あなたが10年先に忘れてきたものです。」
「知るか」
「わたしは、あなたが10年前に生かしたものです。」
「知るか」
「わたしは、今のあなたです。」
「そんなわけあるか」
折れた。そこで夢は終わった。
それから悪夢を見なくなった。応じて具合も徐々によくなってきた。
実家から通える大学に行くことにした。大学入学してからふと気がついて人形をこちら側に向け直してみると、人形の顔は相変わらず真っ黒だった。
不思議と恐怖は失せていた。
もう話すことのない人形が睥睨する部屋で、今もぼんやりと生活している。