琵琶湖疏水の開削(ニ)
4年10ケ月の間には…
明治21年(1888)10月5日夜半、第一隧道東口付近の天井が崩落。
65名の作業員が閉じ込められた。
仮設電話で疏水事務所に報告。田辺朔郎が駆けつけ、救助作業に入る。
翌6日、全員が救助された。
65名中3人の行方がわからない。
●インクライン
全体を五つの工区に分けて同時進行で進行。
山科から京都盆地にどうやって水をひっぱるか?
蹴上船泊から南禅寺船泊との間には高度差が36メートル。↓
船ごと台車に載せて、動力によってレール上を上り下りする仕組み。
【蹴上インクライン】(傾斜鉄道)。
●疏水分線
灌漑や防火用の水路は別に引っ張る。
疏水分線。
蹴上船泊から分水。第四隧道・第五隧道・第六隧道を通り、如意ヶ岳と吉田山の間の平地を北上。高野川を渡り下鴨を突っ切り賀茂川を渡って小川から堀川に至る。
南禅寺境内にローマの水道橋を模して巨大な「水路閣」が築かれた。
水路閣→第四隧道・第五隧道・第六隧道。
若王子~銀閣寺道に至る区画。
「哲学の道」として有名。
●竣工式典
明治23年(1890)3月、大津から鴨川東岸に至る本線と、蹴上船泊から小川に至る分線のすべての工事が完了。
4月9日午前。明治天皇を大津にお迎えして、鹿関(かせぎ)に築かれた疏水閘門の上で田辺朔郎が琵琶湖疏水の概要を説明。
疏水ゲートを開いて通水式。
午後。明治天皇が馬車で京都に。
夷川船泊の中島にて竣工式典。
101発の花火が上がりました。
●伏見までの付帯工事
工期4年10カ月。距離20キロ以上。
しかしまだ完全ではなかった。
明治27年(1894年)まで付帯工事として鴨川冷泉(れいぜん)放出口から伏見区堀詰町(ほりづめちょう)までの延長水路が完成。
鴨川の左岸に水路(鴨川運河)を設けて、伏見まで通した。
↓
琵琶湖と淀川が結ばれた。
北陸から近江を経て京・大阪に到る水運が整えられた。
●第二疏水
京都は勢いを取り戻していった。産業もさかんに、人口も増加。明治31年には35万人と記録。
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疏水からの水だけでは賄えなくなる。
↓
新しい疏水を建造することが提案された。
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予算が無い。
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市長西郷菊次郎がフランスからの融資を取り付けることに成功。
第二疏水。第一疏水のやや北を並行して通した。
明治42年11月~明治45年4月。
全域が地下に埋まっている。
三保ケ崎の取入口と蹴上の合流点以外、ほとんど外から見えない。
第一疏水の二倍の水量を、毎日琵琶湖から京都に現在ももたらしている。
●水力発電の利用
第一疏水の時と決定的に違うこと。
電気。
第一疏水完成した翌年の明治24年、アメリカ・コロラド州アスペンの水力発電所を参考に、日本発の水力発電所が蹴上に完成。同年11月から送電されていた。
坑内の照明や排水ポンプを動かすことができた。これにより第二疏水の工事は第一疏水の工事よりもずっとやりやすくなった。
●疏水の盛衰
疏水の利用者は最盛期は13万人。
鉄道の発達にともない利用者が減り、昭和23年(1948年)に廃止された。
蹴上インクラインのレールも撤去された。
輸送手段としての琵琶湖疏水の歴史は幕をおろした。
しかし現在も琵琶湖疏水の水は、生活用水に、発電に、防火に、工業用水に、京都の生活と産業を支え続ける。
●現在の蹴上インクライン周辺
昭和52年(1977年)蹴上インクラインのレールが産業遺産として復元された。
レール・台車・木造船も。
蹴上疏水公園。田辺朔郎博士の像。
平安神宮の大鳥居。
琵琶湖疏水工事殉難者碑(びわこそすいこうじじゅんなんしゃのひ)。
殉難者17名の魂を慰めるため、田辺朔郎が私費で建てた石碑。
「一身殉事萬戸霑恩(一身 事に殉じ/萬戸 恩に霑(うる)ほふ)」
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