藝大の卒展へ行ってきたよという雑記
2/1に藝大の卒業制作展覧会に行ってきました
こういう美術展へと自主的に足通わせたのは人生でも初の経験でした。
(小学生の時に宿題の一環で行ったフェルメールの展覧会の記憶はあるけど、行く前に食った親子丼のマヨネーズがあたって気持ち悪くて全然集中出来なかった)
そしてたぶん、こうやって備忘録みたいなのを綴るのも初めてです。いつもは感想をTwitterかDiscordコミュニティで済ませるような底の浅い人間なので。なので動機もDiscordコミュニティで話題に上がってたりTwitterでちょっと話題に上がってたりしてたとかそんな理由です。
でも開催期間が激短だったし、何より何らかの底が深まった気分になったのでほんとうに行けてよかったです。
一応人間が少なそうな日時を狙って人ごみもなるべく避けたけど、(とはいえ人間がそこそこ多いエリアはどうしてもあった) それでも火中に居ることに変わりはない。でもそれ以外は最高だった。
自分がこうやって恭しく感想を綴った理由は、ただ行って、見て、「印象に残ったなあ」という記憶だけ残して体験を終わらせるには忍びない気がしたからです。
なんでその残り香がまだ体内に残ってるうちにこうやってまとまった文章を書くことにしました。
いや、書かされたと言ってもいい。それぐらい“圧”がやばかった。
作品の感想とか現地の感想とか
ここからは印象に残った作品を上げるやつをしていきます。
写真と共に、雑感や個人的な語りをいっぱいする感じで書きました
まずはこれ
自分は最初総合工房棟から見に行ったんですが、下の階から順繰りに上がってくと後半の方で鑑賞のモチベが無くなりそうだなと思って上から回ってってます。他の建物も似たような感じで回りました。奥の方から、上の方からってな感じに。
最初は総合工房棟4階の建築学科から回ったので、これは建築学科の学生の作品です。
話を戻して
この帝愛の地下施設みたいな筒状の建築物は核シェルターになっております。写真をよく見ると上の方にベルリン市街戦跡みたいな瓦礫が見えると思う。
日本に核が落とされるのを想定してリニア新幹線の駅を拠点とした大地下都市を建設するというコンセプトのジオラマだそうです。つまりはNERV本部みたいな雰囲気の建物です。まあ人間を人質にしてる第3新東京市と厳密には役割が違うんだけど。
なんで印象に残ったかというと、単純に「核戦争を想定」「リニア新幹線の主要駅地点に都市を作る」「地下シェルター都市」「大都市間を鉄道で接続」などのコンセプトのテトリスに並々ならぬロマンを感じたからにほかなりません。
だってめちゃくちゃよくないですか、こういう近未来アポカリプス
あとこういうの特有の緊張感と人間頑張った感。なにより普段刺激されない本能の糸をピンと張り詰めさせられる感じがいい。なんで自分はシンゴジラとかパトレイバー2みたいな、あの死線の矢面に立たされてる感がめちゃくちゃツボなんですよね。最近の有名どころじゃあまり見ない作風で寂しいけど。
それかこういう仰々しいのが単純にツボなのか、この蟻の巣のカッパドキアみたいなジオラマも思わず写真に収めています。というか、他の建築学科の作った作品のジオラマを見てて思うけど模型の質感がめちゃくちゃ生々しい。
本当に実在の完成物をそのまま縮小して提示されてるみたいで「うぉ〜!」ってなる。たのしい。男の子だからこういうの無限大にすき。
他にも建築学科はロマンに溢れた作品が多くて、こういう楽しそうなホビーみたいなのや浪漫溢れる幾何学的な建築デザインなんかにまみれていて、見てるだけでワクワクした。
でもどうやって作ったかみたいな説明を見ると、なんだかいっぱい難しい理論をこねくり回している。
なんならそれを学ぶだけじゃなくて、見てて面白い一個の芸術に昇華してるんだから凄い。勝てない。ガジェット系の優秀な理系人って憧れる。
次行きます
次はこの怖いマネキンです
この怖いマネキンは、「こえ〜w」ってな感じに迫力に気圧されてなんとなく撮ったんじゃないです。
ただこの装いの作り方に関心を寄せられたのでそれを憶えとくために撮りました。
これよく見るとめちゃくちゃきったねぇ手袋してませんか。湿っぽいタンスに放置されてた最悪のプラスチックみたいなきたねぇ手袋。
この手袋、実はわざとこうやって汚してるらしい。身体上の雑菌を、シャーレで繁殖させる要領で、この手袋のセルロース素材にカビを生えさせてこのマネキンに装着している。
作風やコンセプト的にコロナ禍の世相を反映した一種の風刺的芸術作品だと受け取ったんですが、この作品の概要をなぞって思わず「時代〜〜〜〜」と感じて写真に収めました。
というと、衛生意識に対してやたら敏感な今において菌そのものを可視化させる試みをやったという事実にかなり象徴的なものを感じたからです。
何より、この時期の日常風景は確実に年齢を重ねたとて記憶に刻まれ続けるのは間違いないと思う、思うけれど、でもそれを漫然と記憶に留めるんじゃなくて、物的証拠としての標を刻まなければならないと思ったのもあって写真にこれを収めました。なんというか、時代の証としての完璧なイコンを見つけた気がして。
こういう風刺を象形できるという点で芸術って優れてますよね
次行きます
「あ!二次元だ!二次元だから撮ってる!」と思う方。合ってます。いや、間違っているかもしれない。
いや俺は別にかわいさに屈して撮ったんじゃない。すごいかわいいなって思って撮ったけど、屈服させられたんじゃない。
でもまあ、この絵を見た瞬間に「あっ…これはアレか…?二次元のラフタッチをモダンアートっぽく仕上げてるやつか…?」と思って意気揚々と入室したのは認めます。
だって見た感じでいかにもな期待が高まるじゃないですか。このダウナーな雰囲気のラフタッチに、二次元とアートが融合した圧迫感のある芸術表現の可能性。求めたくなったのよ。
でも違いました
なんでビフォーだけ撮ってアフターの写真撮ってなかったんだって今でも後悔してるけど、中に飾ってある作品の作風はまるっきり違いました。
入ると二次元どころか人間すら描かれてなくて、アクションペインティング(キャンパスいっぱいにぐっしゃぐしゃな絵の具の線を掻き乱したような現代アートのアレ)で描いたかのような抽象画がひたすら飾ってあった。
期待を裏切られた自分は、すぐに「なんで?」が止まらず、思わずキャプションを探しました。
探し出して、それを眺めたらすぐに合点がいった。
どうやら作者自身がリアリティとは何かという感性の部分で色々と苦しんでいるというか、葛藤を抱えてるらしく、この作品群はそういうジレンマを思いのままにぶつけて表現したものだそうだった。
それを詳らかには説けませんが、どうやら写実性を求めるよりかは二次元の方がまだリアリティを覚えるというか、自らのウィークネスを芸術に昇華しているらしく、そういうような事を他の来客に説明していました。(ちゃんと聴いとけばよかった)
それは耳をそば立てた程度ではあるものの、自分の中にもそういう『感性の脆さ』ってあるな〜と思い、端的に作者の理念に共感を憶えたのが写真を撮るに至った経緯です。(なんでこの写真は最後出る前に撮った)
こういう抽象的なテーゼってつい軽率に突っ込んで語りたくなるけれど、それをやると尺がバリバリに伸びるので今回はやりません。
でもこのゆる〜い感じの女の子めちゃくちゃかわいいよね。この儚さの中にたまらなく惹かれる何かがある。あるいは、にゃるらさんチックな二次元のまどろみが好きってのもあるな。
Afterは他の人の引用でおゆるしください
次行きます
これです
これ、マジで圧力がやばかった
まずサイズがバカでかい。ダヴィンチの最後の晩餐かと思った。200人ぐらい入る教室いっぱいにこの絵が「どん!!」って飾ってある。
これを見た時の頭の中を再現します
「でっか……」
「やっば……」
「宗教画じゃん……」
「これを学生で……?」
「えっえっ……デカキャンバスを6枚繋げて描いてる……」
「あっ、作者の人入ってきた……」
「クッソオシャレで草」
「めちゃくちゃ若い女の人だ」
「あっ。見てた人が尋ねてった」
「みんな足止めて説明聞いてらぁ…」 (自分も足を止めて聞いているが、凄すぎて説明が入ってこない)
「知識量と教養どうなってんのよ」
「あ、友達来た」
「めっちゃ普通に喋ってて草」
「作品の説明見るか……」(凄すぎて目が滑る)
「🧑🦲……」(青鯖が空に浮かんだような顔で撮影)
こんな感じです。しばし圧倒されてました。
これを見た時初めて自分は天才というものの正体を垣間見たような気がした。今までインターネットでしかそういう人を見てこなかったから、実物は本当に初めてだった。
Twitterでも結構シェアされてたので、「やっぱそうだよなぁ〜」ってなった。
作者本人はオシャレな普通の大学生って感じだったけれど、作品の説明に入った途端に雰囲気が変わってたし、それを目の当たりにした瞬間「あぁ。もうここで作品見せてる人達はアーティストなんだな〜」って謎の感慨に耽ってしまいました。それと同時に、自分はまだまだ浅い人間なんだなと打ちのめされた気分にもなった。凄すぎて憧れます。
このバカでかいキャンバスを使って大仰なものをわざわざ表現したなりに、めちゃくちゃ深い世界観が設定されているんだけれども、それに関する詳しい記憶が全くありません。見てる途中に作者が直々と他の人に説明してたんですが、作品に目を奪われてほとんど聞けなかった。
今回そういう感じで説明や雰囲気を取りこぼした作品なんかが沢山ある。コロナ禍だからって説明聞きにいくの遠慮しなきゃよかった。もったいね〜〜〜。
サーチすればすぐこの作品が出てくると思います。気になる人は調べてみてね
次行きます
これです
『霧を縫う』ってタイトルでした。すごいおしゃれ。
というのもこれ、コップの水に蚕の繭が浸されていて、そこから一本の絹が伸びて機織り器に接続しているという構図になっていて、この写真自体はその風景を障子風の衝立を隔てて撮影しています。
この霧を縫うという作品はこの奴隷の繭みたいなものだけじゃなく、ちょっとしたスペースを場所借りして、そのスペース内をテーマに沿った空間として作り上げることで一つの作品に仕立て上げていました。
つまり空間全体で一つの作品になっており、これ以外にも映像作品や、巨大な和装が展示されていました。作者は養蚕や養蜂などに縁があるらしく、それを知って「なるほど〜」と合点がいった。
こういう薄ぐら〜い空間に、日本の伝統的でシックな雰囲気の意匠がふんだんに表現されてるの、めちゃくちゃよくないですか?
こういう静かなかっこよさがめちゃくちゃツボなのか、別の近世日本みたいなスペースに飾ってあった工芸科の作品も撮影しちゃった。
上の「霧を縫う」は先端芸術表現科っていう藝大特有の学科の生徒の作品だったんだけれど、先端芸術と銘打ってるだけあって卒制のテーマもどことなくユニークでピーキーなものが多かった。
この紹介した作品群はすべて先端芸術表現科のやつなんですが、こうやって空間ごと一つの作品にしたり、表現の為に利用しているツールが多種多様だったりしている。なので世間一般が考えそうな"藝大生っぽさ"みたいなのを一番よく感じられる。
自分自身、以前藝大について調べた時に知った先端芸術表現科には割と興味を持ってたんだけれど、こうやって作品を見てみるとどういう雰囲気の学科なのかがよくわかる。
きっと自由で自主性をとことん信頼してるんだなあと想像が湧いてくるし、何よりこういう学科自体を掲げてる所をみると本当に芸術に対して真摯にぶつかっている学風なんだなあと強く感じられます。
次行きます
ここからは彫刻作品を紹介していきます
これは見た時に「キノコみたいでおいしそ〜」と思い、いわば質感に惚れた一点のみで撮影しました。
本当に岩に実ったキノコみたいで、材料の質感に心をくすぐられたのもあり、思わずシャッター音を鳴らしました。
そんで「さぁキャプションでもみるかぁ〜」とプレートを見たんですよ。そしたら度肝を抜かれてしまいました。
なんとこの美味しそうなデカキノコ、人間の手によって彫り出されていない。なぜなら地中で爆弾を爆破させ、そこに材料を流し固めたものだから。
それを読んでこう、なんか「ヒヤっ…」とした。
だって爆発した形がキノコみたいって言ったらもう一つしか浮かばない。
そこからは自分の頭の中に核兵器の爆発映像しか浮かんでこなかったです。意味が分かると怖い話を初見で理解した時のあの気分が久々に襲ってきた。
キャプション的には核兵器へのアンチテーゼみたいな作品ではなかったんだろうけど、直前にキノコとか考えてた自分にはモロそれにしか見えなかった。森林に立ってたはずの自分はいつのまにか鉄臭い荒野へと引きずり出されていた。
あと、面白いことに作者はこの作品を作り上げるためにわざわざ資格まで取得したらしい。行動力の鬼。バイタリティの塊。
あと、もうここら辺にまで来ると自分も奥底に溜まってたクリエイティビティを全部吐き出すかのように、妙に構図に凝った写真を撮るようになっていた。
例えば上の霧を縫うとか、完全にクリエイティビティへの拘りが芽生えて写真を撮っている。
何より彫刻作品はモチーフがハッキリしていて構図のこだわりがいがあるので、「どうやって撮影しようか」って考えて頭を捻ったりするのが一種の楽しみになっていた。
以下妙に構図に凝った彫刻作品です
こういう、なんとなく写真を撮りたくなるような、もしくは撮らされてしまうようないい作品がいっぱいあった。
でも自分はアホなオタクなので、「これは写真に収めるべき作品ではねぇな……」と思ってあえてカメラを構えずに観て終わらせた作品も沢山あります。なんだそのリスペクト魂は。
でも、こういう目敏さみたいな感性を発揮させられたという点である意味刺激的な体験でした。
色んな作品の写真がまだまだ色々あるんですが、流石に全部を些末に紹介するのもくたびれるのでダイジェストでお送りしたいと思います。
↓↓↓
他にももうちょっと色んな作品を撮ったりしたんですが流石に長くなるので遠慮しておきます。
紹介したのはほんの一部の一部に過ぎません
ここでは作者名もあえて出さずに紹介しているので、気になる人はTwitterで「藝大卒展」とか、「藝大卒制」みたいなワードでサーチしたり、卒展の作品紹介ページを覗いてほしいです。ページに全部載ってるから。
下にリンクを貼っておきます
雑感と感想と
まず大前提として、この展覧会はダヴィンチ、ゴッホ、若冲のような、教科書に載ってるえらい人たちの美術展とは違った。
今生きている人達の、特に若者と呼ばれるエネルギーの塊みたいな人間のパワーがどこまでもぶつけられた、いわばスーパーフレッシュ人の作品しかない。
だからどの作品にも見ていて気圧されるような何かや、モラトリアム中での経験を極限まで凝縮したような若々しい煌めきがある。
しかも、基本的に制作してるのは世代も世界もあまり変わらない人達なので作品単体としての共感性が単純に高い。
だから有名な絵を見た時によくある、宙に浮いたような実感の無さに包まれたり、たとえば観光名所での確認作業のような情動のない無意味な鑑賞に陥る事も一切ない。時代背景や題材、その時の流行りや教養的な知識不足、あとは単に作者と感性がかけ離れてしまってるせいで目が滑ってしまうような事もあまり起こらない。
みんな同じ時代と同じ世代に生きる人間の作品なので世代的な感性が必然的に似通うし、知識や関心の領域は違えど、作品が醸す雰囲気には名状し難い親近感が湧く。
だからか、鑑賞としての態度も非常に純粋になった。
時代的なバックボーンを共にし、自分とほぼ同じような土俵に立つ名も知らぬ人の作品なので、何らかの先入観や偉人としてのレッテルは意識に存在してない。
だからマスターピースを見る時のような威光の確認や極限との接触を求めて赴くといった心理は存在せず、知らない芸術を受け止めたいという興味だけがインセンティブの、極めて能動的な動機を心に抱いている。
つまり予め作品の背景や意味などが刷り込まれてないので、部屋に入った瞬間、芸術が目に入った瞬間に作品が無から急にグワっと立ち上がってくる。
そしてその作品からの迎撃をひたすら受け止めることになる
付け加えれば鑑賞者は急激に立ち上がってきたそれに対し、何らかの意味や重みを持たせる為に頑張る必要があるので、自分が覚えた感情や経験と結び付いた有機的なインプレッションや、名実ともに初めて触れる意匠が授けた心の残滓などがそのまま鑑賞の意味と化す。
そういう観賞を通じた感情や体験ってめちゃくちゃ純粋じゃないですか?
しかも商業作品としてじゃない、制作者が自分がしたい表現のためだけに血肉を削ったマジで贅沢な作品しかない。言ってしまえばとことんわがままな作品だけがそこにある。
まあでも芸術作品ってそんなもんか
でも日銭に惑わされてないアーティストの芸術って卒展と暇つぶしぐらいな気がする
なんなら「スゲ〜」と思った作品の横に制作者が立ってたり、椅子に座ってたり、友達と談笑してたり、鑑賞者に作品の解説とかをしてる。教授に話しかけられたりされてる。
みんなスタイルが確立したオシャレをしてたり、髪を綺麗な色に染めてたり、椅子に座ってスマホいじってたり電車で横に座ってそうな風貌をしてた。
だから「本当に大学生が生み出した作品なんだな」って感じる
なんで、インターネットで神絵師やスゴクリエイターの写真が挙がってる時によくある、「このめちゃくちゃ上手い絵描いたのこの人!?」というあの謎の感動が2秒で発生する。
「血の通った人間が生み出したものなんだ」っていう感覚の是正が何回も起こる。凄さと親近感が何回も行き来する。
そういう認識のバグがひたすら積み重なっていくので、多分自分のシステムログを見たら赤文字のエラーが連なっている。
なんなんだろうか。「もっと見た目が浮世離れしててほしいし、作品の魅力が記号化されたような出立ちであってほしい」みたいな無意味すぎる願望。
なんなら自分と年齢があまり変わらん人しかいないんですよね。ウソだろ。42歳とか55歳とかであってくれよ。
しかも、東京藝術大学だなんて超がつく名門校に入って芸事をやり抜いた人達が作ったものなので、見せられているものがプロレベルというか、表現が既に一回カンストして2周目に入ってるものばかりだ。
飾られている作品を見てると「ああ。この人たちは本当にこういう道でお金を貰う立場に巣立つんだなあ」と思えたし、通常の卒業論文や例えば卒業文集のような、「人生の記念に〜」とかイニシエーションをやり過ごす為といった仕方なさが薄い。
もしかしたらそういう動機で作ってた人が居たのかもしれないけど、少なくとも自分が感じた限りでは感じなかった。
藝大の看板を背負ってる人らしい作品への矜持や、そのお眼鏡に叶えさせんとするパワーを感じる。とにかく創作者としてのわがままを精一杯ぶつけてる感じがある。
中には販売してた卒業制作物を完売させた人とか、メディアの紹介を掴み取ってた人 (あの自転車のスフィンクスみたいなやつです) もいたらしい。
「未来の巨匠と将来の代表だけおる!」
「天才の見本市を無料で開催すなあ!」
すいません、美大受験生のノブが出てしまいました
でも当日の感想戦をいきなりやらされたらこんな感じ
話を戻します。
さらには、卒業制作の一環で過去の超古い貴重な芸術作品をガチで復元したり模写して研究結果として飾ってる専攻学科もあった。保存科学研究室というらしいです。
自分ならそんな事させられたらプレッシャーで胃に穴が空くと思う。だってちょっとのミスで「あっ」ってやったら全部パァになるの怖すぎるでしょ。
傍らには研究論文のまとめみたいな感じで、科学的なアプローチで保存に関する研究結果や実験考察を簡潔にまとめてるレポートが展示されてた。
ただ芸術だけやるんじゃなくて、ちゃんと研究と分析もやってる。勝てない。最近のトレンドは天才に二物を与える事か? 才能の南北問題だろ。
あと感じたのは、「どうすれば自分がしたい表現や意匠を形而下へ持ってこれるか」「どういう芸術表現だったらいいのか」「どうアプローチすればいいのか」「こういう技術を用いればいいのか」といった、創作すると必ずぶち当たる“自分の能力足りなすぎ問題”を相当ケアしてる気がした。見た限りの印象に過ぎませんが。
もちろん妥協してたり不満が残ってしまってるとか全然あるんでしょうけど、そういうの抜きにしても本当に相当数の芸術表現を学んでるんだなって見てて感じたし、何よりもただ形にしたんじゃなく、きちんと鑑賞者をなんらかの感情を抱かせて満足させるとこまで持って行ってるのが凄い。
これが出来てるのめちゃくちゃヤバすぎる。
適当ながら文章書いたり変な動画作ってたなりに感じるんですが、ピントの合った表現を自分でやるのは本当に大変。
今こうやって書いてる文章や、違うお話なんかを書くにしても、「なんかこの言葉は違う」とか「この構成じゃないんだよな…」って何回も思ってたりする。
なんなら時には、「あぁ。文字じゃなくて絵が描けたらなぁ。漫画とか映画とか、アニメーションだったらなあ」と、自分の表現技法の幅の狭さに肩を落とし、良いアイデアを殺す場合だってある。
ちょうど藝大を舞台にしてるブルーピリオドでも、「一筆一筆入れるごとに俺が作品をダメにしていく」なんてセリフ言わせてるぐらいなので、表現にぶつかる人にとって具現化のピント合わせというのは都会のコンビニレベルに普遍的な悩みなんだと思います。
何かしらの創作活動へアタックする度に自分が持つ手札の無力さにうちひしがれ、したい表現とできる表現との巨大なクレバスが如き隔絶に遠い目をやってしまう。結果的に手頃な表現や、画一化されたウケに走ったりして自分で自分を裏切る土俵際にまで押し込まれる。
そうやって舐めさせられる苦渋の味ほど人のモチベーションを揺さぶるものってない。NTRとか目じゃない。
当然卒制を作ってる藝大生も自分の比じゃないぐらいそういう壁にぶつかっていると思います。だって自分が思うぐらいなんだから。
でも彼らは多分そこの部分をたくさん乗り越えていて、さらにそこから「他人に見せる」というレベルにまで昇華してると思います。
他人に見せるために、自分が満足するために、「苦手だから」とか「自信がないから」で終わらせようとはしない表現者としてのハングリーさがひしひしと伝わってきた。
仮にそうするのが義務なんだとしても、作品としてやりきっている事に変わりはない。
そこが自分のおままごとと、表現者としての違いだと思いました
あとやっぱり他人に見せて反応を買ってるのは本当にヤバいと思う。広告やネットミームのような、理解とコミュニケーションの円滑の為に行う、いわば手段としての芸術や手法なんかと違って、芸術それ単体を目的として突き詰めた特殊な専門性を爆発させて他者の感動を買っているから。
だって考えてもみてくださいよ
自分がこれから生むものがあるとして、大衆性によっかからず、ただ自分の感性だけを信じるしかなく、そして誰からも面白さを保証されてない未出のオリジナリティを他人に見せるとする。そうしたときに、見ず知らずの人の足を10秒間だけでも留めるような作品を晒せるかどうか。彼らの場合は是非どころか実際にやってのけている。
自分にはそんなことこなせる自信がない
自分は絶対どこかで表現そのものから逃げるか、理解してくれない大衆を見下すことで自尊心を保つかして、最終的に無能の李徴みたいになる。
実力を極めて全員殴ればいいのに、拗らせたり偏屈になる事で格好だけそれっぽくしてプライドを保つ事に全力を注ぐ。
叢じゃなくて布団の中に篭り、炯々とスマホを見つめインターネットの小丘で吼える李徴に。
急にこういう事を考え出すので自信が持てないと言っている
どっかで見たネタの再生産とネチネチしたアイロニーだけやっときゃ面白いと思ってる
こういう風にならず、真摯に、敬虔に一次創作へとぶつかっている人は本当に尊敬しています。
冗談やお世辞ではありません。
自分は自分のオリジナリティが一つもわかんないので、誰かの生んだ素材を調理する事でしか着想が湧きません。常に他人のオリジナリティの下請け業者として甘んじています。
なので一次創作で人を感動させている作者には何度も頭をかしずいているぐらいです。
しかも芸術を志している人なんてもっと凄いと思う。
いちばん印象的で、曖昧模糊で他人から理解されない世界を愛してるんだから。
だからきっと、陸地があると信じて海を泳ぎ続けられる人は芸術家になれる。
海を泳ぎ続けられない人はサラリーマンにでもなった方がいい。そもそも芸術家は社会不適合者の独居房などではない。
適正診断はもっと表現者をリスペクトしなさい。
無駄な話が多くなりそうなのでこれぐらいにしておきます
将来「この人の卒制見たことある!」って感動できたらいいな
それでは
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