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自分とあまりにも似た人を見つけてしまってアイデンティティが揺らいだ
類似点よりも相違点を探す方が難しいほど、経歴や能力、趣味嗜好、書く文章までも似た人を見つけてしまって、私はこれからどうやって生きていけばいいんだろう?似ているというか、より正確に書くと、私の上位互換だと思う。
私と彼女の違いと言えば、大した違いではないけれど、生まれ育った環境や家庭の経済状況、専攻する学問。そういう表面的な部分。もっとずっと大切な、何が好きか、何が嫌いか、何を喜ぶか、何に怒るかみたいなところが似ている。好きな小説家も似ている。わからないけど、きっと似たような漫画を読むだろうし、似たような音楽も聴くだろう。あまりにも似ている。
私は自分のことを、割と個性的な人間だと信じてきたと思う。というか、この世に個性的でない人間なんていない。どんな人間にだってよくよく知れば変な部分があって、他人のことを無個性、没個性と思うのは受け手の感受性側の問題だと私は心の底から信じている。だから、私はこの世のすべての人間がそうであるように、至極当たり前なこととして、自分は個性的だと思っていた。
だが、彼女と私を作り上げるためのレシピはあまりに似通っていたのだった。人間にはレシピというものがある。
完全にゼロからオリジナルの人間はいない。同じ学校で育った人たちがなんとなく似たような性格になるように、社会経済的地位が近い人同士で居るのが心地いいように、同じ作家を好んだ作家は文体がどことなく似ているように、いろんな要素を少しずつ混ぜ合わせて1人の人間が出来上がる。
その要素の取り合わせ方がオリジナリティであり、個性である。彼女と私は、その要素や配分が似ているのだった。
彼女と自分の差異を見つけないと。強迫的な衝動に駆られて彼女の文章を読む。一番古いものからすべて遡って、目を皿にして読む。頭と心をフルに回転させて、言葉のひとつひとつに集中する。
やっと見つけた差異は、「解釈の余地のあるものが好きか嫌いか」だった。彼女は嫌い派、私は好き派。彼女は「解釈の余地のあるもの」について、こう語る。
抽象的すぎる絵画や小説や歌の芸術作品を見ていて湧いてくる私の疑問は、「どうして、世の中のアーティストたちは、あんなに、受け取る側に解釈を任せる作品を作れるんだろう」ということ。(中略)解釈は人それぞれというけれど、解釈の余地を残すなんて、それは私は、ただの芸術家や小説家のサボりだと思っている。サボんなって思う。解釈の余地がないくらいまっすぐちゃんと伝えて欲しいと思う。
至極もっともなことだ。最近流行っている、なにかを言っている風でなにも言っていない、売れないコピーライターが書きそうなポエムみたいな文章が私は嫌いだ。どうしても言いたいことがあって、言わずにはいられなくて、その言いたいことの真の形を削り出すような、そういうヒリヒリとした表現に私は惹かれる。
その一方で、本物の表現は、その作り手の意図や思いから離れたところで意味や価値を生み出し、他人の好悪をはじめとした感情を駆り立ててしまうものだとも信じている。だから私は、解釈の余地が自然と生まれてしまうような、なにかをどうしても語りたくなってしまう、語らされてしまう表現を信じている。
くどいようだが、「これ、エモい感じでしょ?意味深な感じでしょ?解釈の余地、あるでしょ?」と狙ってやっている表現は下品だし浅いので嫌い。あくまで、そういう下心のないものに痛々しいまでの美しさが宿ることがある、と信じている。
「解釈の余地のあるものが好きか嫌いか」について彼女が言及したのは4年も前のことだから、今はどう思っているのか知りたい。書き手への興味が喚起される文章は、良い文章だと思う。
とても素敵なブログなのでぜひ読んでみてください。
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