Twitterに捧げる詩

・Twitterが終わる!!!!!!!!!!!

-終末の時-悪魔がやってくる(ゴッドフィールド)


がーんだな
イーロンがXにした時点でおれはかなりTwitterのことを嫌いになっていて、ブルスカのアカウントを作ったりしていたんだけど
まあでも、なんだかんだみんなTwitterにいたし
おすすめ機能とか認証機能とかインプレゾンビとかストレスはあったんだけど
使用感はそこまで変わらなかった(そうか?)ので全然使っていたのだが

利用規約の更新でかなりきな臭くなってしまった。
まだ自分も完全に詳しく調べているわけではないが、画像がAI学習の機能の対象になって、また、TwitterのコンテンツがTwitter上の権利になるっぽい?ことが判明した
違ったらごめんね。アバウトに言っているので。

これはかなり嫌だ。
AIに関してはとやかく言っていない立場なのだが、それは自分の絵が生成の素材となっていないからゆえであって
自分も学習対象になるよ、しかも勝手に、と言われるとかなり不快感がある


一応、おれも絵描きの端くれとしてそれなりに考えたり、プライドを持って作品を作ってるつもりだ
そしてそれを生み出していく過程に価値があると考えていて、その過程そのものが「アート」という形を成していくと思うのだが
そこのプロセスを無視して、ただハリボテ(特に思想なく、その時々の消費を加速するためだけに生み出された粗造品のこと)の作品の出力のダシにされるのは嫌だな。

そして、その仕組みをSNS側で整備してしまうのは本当に愚か極まりないと思う!



・Twitterはどうなっていくのだろう。

ここまで書いておいてTwitterにめっちゃいい思い出があったかと言われたら、別にそうでもないな。
嫌なツイートとか事件もいっぱいあったし。
おれは普段ディスコードに入り浸っているし、Twitterを通じたおれの居場所的なものがあるわけでもない。
Twitterから仲良くなったって人も少ないな。

じゃあ滅んだってええか。
とはならないのが難しいところなのだが

個人的な感想としてTwitterに思っていることはずっと、水道だなって思ってて
要はインターネットのインフラみたいなもんだってことで
いろんな人がいて、いろんな情報が集まってくる大きいところだなっていう所感。
イメージだとサマーウォーズのOZ的な。

いろんな掲示板とかSNSがある群雄割拠なこの状態で、みんなTwitterはやっている。
みんな、ではないけど、Twitterアカウントを持っていない人はやっぱり少ないのではないだろうか。
そういうみんなが集まる広場的なところで、もちろん企業や行政なんかもTwitterを取り扱っている。
インターネットといえば、でみんなTwitterを思い浮かべるような、そういうあり方だと思う。

そういう理由でTwitterは便利で、かつ楽なのだ。おれにとって何も考えずにここにいけば良いという場所になっていたことは否定できない。
だからTwitterを見限るのは少し勇気がいる

そして、それに依存しすぎた。集約的な大きい存在が瓦解するということをよくわかっていなずに。
イーロンマスクとかいう変なやつが参入してきてTwitter、いやインターネットのあり方は大きく変わってしまった
イーロンの個人的な利益のためにみんなが振り回されている。

イーロン批判はあるにせよこの事態には適応せざるを得ない形になっている。それがいい悪いは別として。
SNSサービスもだし、インターネットというメディア形態はいつか滅びゆくものだと考えを今一度持たないといけないな
それこそサマーウォーズと同じで、やっぱ集約的な大きな機能が壊れた時にどういう対応をすべきかが大事なんだろう。そういう真面目なことを言ってみる。


・上の話にやや関連して今日あったこと。


今日で課題が終わって講評があった
先生のまとめの一言がかなりグッと来た。

リアリズムについての話。
うちの大学は、わりと基礎的かつアカデミックな見たまま描くという授業をしていて、それは別にいんだけど(一応言っておくとおれは大学で油絵を専攻している)
見たまま描くことの意義、みたいなことをよく考えていた。

世界を写しとるというだけの行為にも見える
今はアートなんてとても大きな存在で、一口に言ってもいろんな表現方法がある。
そもそも絵を描くことすら必要とされていないかもしれない。これは言い過ぎかも。
とにかく、多様化した表現があり、いろんな人が思想を持って描く現在の絵において、ただ世界をありのままに写しとる行為の是非について考える。

その中でリアリズムという考えがある。
読んで字の如く、リアルさを追求することを目的とした芸術活動なのだが


リアルに正確に写し描くことは、リアリズムという考えの延長線上にあるもので
自分はそれにかなりとらわれていたように思う。


先生いわく。
もし自分の人生が後一年の余命だとした場合、どうなるだろう。
きっと全てを感じ取ろうとするだろう。
ただの通学路や何気ない自然物、あるいは汚れとか、そういうどうでもいいことだって美しく愛おしく感じるのではないだろうか。
リアリズムとはそれである。
世界を自分の見る美しさ(つまり自分自身が感じる最も直接的な世界のあり方、リアル)でもってして絵を描く。
それがリアリズムの根底なんだと言っていた。

それにかなりグッときた

余命一年となった世界はどういうふうに感じるんだろうな。
やっぱどんなものでも美しく感じるんだろうな。
木々や鳥や虫たち、ビル群も、いつも顔を合わせる友達でも嫌いな人間でも。
でも、そう考えたら、別に人生が一年しかないからそれは美しいんじゃなくて
それそのものが既に美しくて、我々はそれを忘れてたり感じ取ろうとしていなかったりするだけと捉えれないだろうか。


それを自分自身の感じ方で、画面に写しとる。
それは記録のためであったり、より美しく見えようと試行錯誤する過程であったり、あるいは自分自身の視点の提示であったり。
それがリアリズムの本質だったんだ!ということに恥ずかしながら今更気づくことができた


そしてそれが(つまり描かれた絵が)正確でもなくても細密でなくとも、あるいは抽象的でもよいのだろうな
さらにいえば、絵でなくとも文章でも写真でもやってることは本質的には変わらない
描かれているそのリアルっちゅーのは多分その人が感じた全てであって
それよりも、その人が克明に自分の中にあるリアルを表現しようとしたそれそのものが価値なんだな


先生の言葉でそれを理解できた。嬉しく思う。
先生は今年で退任となってしまうらしいが、いい言葉をもらえたなと思った。
自分のやってきたことや、これからやりたいことがなんとなくわかってきたような気がする。



・こないだ片付いた部屋も、徐々に汚さを帯びてきた。
良いぞ、この調子。
使ったものを元の場所に返さない。これだけで部屋は汚くできる。
こんな簡単なことができないのだが、それができていたら今別に困っていないから受け入れるしかない。
幸い、おれは部屋の汚さに耐える力を持っているようなので、部屋が汚くとも実害がないのが良い。
いや、害はあるのだが。

嘘です!!!!!
本当は清潔な部屋で丁寧な暮らししたいっす泣



助けて〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


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