Aの告白-4
それから数年がたつと私と同期で入った女医は次々と結婚、出産のため休職または短縮勤務となった。その分のしわ寄せは独身の医師の方に来るようになり当直の翌日でさえも夜間麻酔に呼ばれることも少なくなかった。激務に何度も辞めようと思ったこともあったが、ハイリスク麻酔の秒単位で状態が変化することへのひりひりした緊張感、患者の生命を握っているという万能感は代えがたいものがあった。大学病院ならではの特殊な疾患、それに対する麻酔技術を習熟させることは他の民間病院では経験できないことだった。
80歳の腸閉塞手術後の老人の術後回診をしていたときだった。その老人は認知症を患っているのか、術後の麻酔が抜けきらないのか診察のために声をかけたときもぼんやりとした視線を投げかけるだけであった。一言断ったあと病衣をはだけると、老人は言った。
「み、みず」
私は何の躊躇もなく、備え付けの戸棚にあったらくのみを取った。そして老人の手に握らせたのだ。老人はらくのみに口をつけると一気に飲み干した。その後ひどくむせてはいたが、窒息の心配がないのを確認したあと病室を後にした。あの患者は絶飲食だから、運が悪ければ水分を摂取したために縫合不全になるかもしれない。お亡くなりになった方が厚生労働省が推進している医療費の削減に貢献できるかもしれないと考えた。数日後水分摂取が原因かは不明だが老人は帰らぬ人となった。
30歳を過ぎる頃から多忙を極めた。原因の一つは人員の不足だった。麻酔医は5年たつと他科に転科する者が多い一方、40歳を越えるとペインクリニックなどを開業したり麻酔のフリーターになるケースも多い。大学病院は慢性的に中堅どころが少なかった。長時間の心臓外科の手術では交代で休憩はとれるのだが指導医の立場になっているので終わるまで緊張が持続し疲弊した。そろそろ限界に近いのではと思っていた頃第三の事件は起きた。
それは脊柱管狭窄症の手術の麻酔だった。術前の回診へ行ったとき60台後半の患者がにこやかに応対してくれた。サイドテーブルには生まれたばかりの新生児の写真が飾ってある。
「かわいいですね。お孫さんですか?」
「ええ。女の子なの。退院したら面倒をみてくれって娘にせっつかれてるのよ」
ふと祖母の家で兄と遊んだ幸福な日々に思いを馳せた。私にはもう手の届かない世界を垣間見たのだ。
手術室に運ばれてきた患者を横向けにして背中から硬膜外チューブを挿入した。その後仰向けにして静脈から麻酔剤を注入、気管内にチューブを入れてから人工呼吸器と接続、人工呼吸に切り替え、執刀を待った。電気メスを使用するときはノイズが入りモニター上はしばしば正常な心電図の波形が出ない。私は硬膜外チューブから入れる麻酔剤カルボカインを静脈注射すると不整脈を起こすことを知っていた。そして電気メスの音とともにカルボカインを静脈へ注入した。血圧は下がっていったが測定を5分に切り替えたため誰も気がつかなかった。心電図の波形がフラットになっていたが、電気メスの使用で看過されていた。出血しないため執刀医が異変に気がついたときには死後5分はたっていたかもしれない。
おばあさん、孫を抱くことは二度となかったね、残念と一人呟き今度はさすがに訴訟かもとぼんやり考えていたが、患者は持病に狭心症があったため発作による術中死ということで遺族は納得した。医局長に
「今後は急変時の対応を迅速に」
と軽く注意を受けただけだった。
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