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2023年11月24日 東京大学 濱尾新像調べ


2023年11月24日 東京大学 濱尾新像調べ

前回noteからのつづきです。 そして前回訪問時からのつづきでもあります。 自分の田舎にあった豊岡藩出身で、前回noteの銀杏並木を作らせた説もある、濱尾新さんの銅像見学です。


濱尾さんの銅像はボス的スペース&ボス的椅子に座る等身大の銅像となっていてボスキャラの様ですが、青空文庫の「浜尾新先生」(辰野隆著) ではゆるキャラ先生の雰囲気も感じられw、浜尾新 - コトバンクでは温厚で人望があったとのことです。


前回訪問時に、後で読むw、として関連リンクを集めるだけ集めて結局何も調べていなかったので(約2年間放置w)、今回濱尾さんについていろいろ調べてみました。


濱尾さんについては、浜尾新 - コトバンクにある、その人格・人望で?、戸水事件(1905)の折は再び東京帝大総長に就任しこれを鎮めた、という話が有名そうです。 講座製などの大学の制度の整備、(正門や銀杏並木といった)東大の建物の方針を決めた説もあるようです。

さらに、自分がネット上で調べた感じでは、かわいい(かつ優秀な?)後輩に頼まれたら&頼られたら断れない先輩のように思われました。 ワールドトリガー風に言うと、面倒見の鬼的な、濱尾パイセンでしょうか?


「らんまん」主人公のモデル牧野富太郎

少し前のドラマ「らんまん」に関して言えば、主人公のモデルになった牧野富太郎の自伝に以下のように書かれる人であったようです。

 私は大学にいる時、大学での責任仕事としてこの大著述に着手した。それ私一人の編著であった。そして私を信じてはじめてこの仕事を打立て任せてくれた恩人は当時大学の総長の浜尾新先生であった。
 私は間もなく浜尾先生の仁侠により、至大の歓喜、感激、乃至決心を以て欣然その著述に着手した。

私の信条 - 青空文庫
牧野富太郎自叙伝 第二部 混混録 - 青空文庫
牧野富太郎自叙伝 第一部 牧野富太郎自叙伝 - 青空文庫
より


地理学の先生 山崎直方

また(自分はよく知りませんが)地理学の偉い先生?、山崎直方という人が言うには
(以下、直せそうな字は修正して、分からないものはそのまま抜き出し)

地 理 學 評 論 第 一巻 第 九 號 大正十 四年十 一月 一日獲行
濱 尾 新 先 生 を 悼 む
山 崎 直 方
子 爵 濱 尾 新 先 生 逝 く 、 洵 に 一代 の恨 事 上 下 痛 悼 措 く 能 は ざ る も のが あ る ので あ る 、 先 生 徳 高 く 識 深く 其 の文教 に 致 さ れた る 功 績 の偉 大 な る こと は 畏 き邊 よ り 賜 は り た る御 沙 汰 書 に 大 學 に 総統 の重 きを な し 又 壷 閣 に文 政 の 班 に 列 な うと 宣 は せ ら れ た る を 拝 し ても 亦 之を 察 す べ く 今 更 吾 人 の 晦 々す る を俟つま で も な い の で あ る 、 し か も 今 爰 に 特 に 先 生 の爲 め に哭 せ んと 欲 す る所 以 のも のは 先 生 が 又 一面に 於 て 本 邦 地 理 學 の恩 人 で あ り 、斯 學 に 多 大 の趣 味 と 學 殖 と を 有 し て 最 高 學 府 に 於 け る其 の登 展 に 勘な か ら ざ る 聲 援 と 奨勵 と を 興 へら れ た る に よ る ので あ る 、抑 も 我 が 東 京 帝 國 大 學 に 地 理 學 の講 義 の開始 さ れ た る は 小 藤 先 生 の提撕 に 因 る こと で あ つ て實 に そ れ が 明 治 三十 五 年 で あ つた の であ る 、 然 か も其 の當 初 に 於 て は そ れ が單 に 理 科 大 學 地 質 學 科 中 に 於 け る 一科 目 疫 る に 遇 ぎ な か つた ので あ つた が、之 を 濁 立 せ し め て 地 理 學 の講 座 を創 設 し 新 た に 地 理 學敎 室 を 興 す に 至 つた のは 小 藤 先 生 の献 策 亦 與 て力 あ るは 勿 論 で あ る が 此 の 創 設 の断 案 を 下 し 之 に 向 て 至大 の援 助 を 賜 りた る 濱 尾 先 生 の高 徳 は 誠 に 吾人 の恒 久 に 記 憶 す べ き も のと 謂 は ね ば な らぬ 、、、

とあります。 ちなみに濱尾さんにはあまり関係ないけど、ここ出てくる小藤先生って、豊岡にある玄武洞・玄武岩の名付け親の小藤文次郎さんのことなんかな?

濱尾新先生を悼む - J-Stage
より


東京藝術大学

文部省の九鬼隆一(文部省での濱尾さんの先輩・上司、九鬼の文部省と言われるほど偉かったらしい)、濱尾新、岡倉天心(濱尾さんの後輩・部下、破天荒な天才?)、のラインで日本美術を世界に売り込みつつ、東京藝術大学の前身の東京美術学校まで作っていったよう。 そして、濱尾さんがしばらくいろいろフォローしてた説なんかもネットで見かけるけ東京藝術大学の初代様の岡倉さんだけど、その破天荒な天才さん、九鬼さんの奥さんとのあれやこれや、美術学校からの失脚やらで、藝大は初代様からして破天荒だな~、とオモタ(実際の内情はよくわからないですが)。 また、3人で日本美術の素晴らしさを説きながら、九鬼隆一と岡倉天心は美術品販売もしつつ儲けたが、濱尾新はそれをせずに利用されただけ、的なことが出ていて、2人の鬼才に囲まれて濱尾さんも大変だな~、とオモタりもしたw。

東京藝術大学の前身「東京美術学校」とは?歴史や教師陣を紹介
日本近代美術史論
燃えるアジアと日本の原点
岡倉天心と近代の日本美術 (2)
妻が夫の愛人の写真を納棺する話
続麗しきおもかげ 日本近代美術の女性像
岡倉天心 - 松本清張
岡倉天心 - 松本清張(浜尾新で検索)
当世人物評 五 高等教育会議議長浜尾新君
第二節 美術学校設立運動の背景(PDF)
岡倉覚三(PDF)
異文化交流の中の茶―岡倉天心とアメリカ―(PDF)
より


東京工業大学

文部省の九鬼隆一、濱尾新、手島精一、のラインで現・東京工業大学の東京職工学校を設立。 芸術から工学にと、幅広く目配りしてるな~、とオモタ。 東京工業大学の以下の記録に手島さんと共に九鬼さん、濱尾さんの活動が説明されていました。

東京工業大学百年史
東京工業大学 130年史
東工大について 歴史と沿革
より


東京理科大学

参考にした東京物理学校(現・東京理科大)に関連した記録に、

当時の東京帝国大学総長の浜尾新は「寺尾の物理学校」だからということで特例で実験機器の貸し出しをしたり卒業式に出席して祝辞を述べることをならわしにしていた。

とありました。 もうひとつ参考にした記録に、寺尾さんの息子さん「新」さんという名前が出ていました。 もしかしたら濱尾さんの助力を得ていた寺尾寿さんが濱尾さんの名前から一字とって(一字しかないですがw)名づけたのかな~、と思ったりもしましたが、実際のところどうなんでしょうか? 記録に残っている、濱尾新さんと寺尾新さん(一字ちがいw)が隣同士となっている皆での記念写真で、濱尾さんなんかうれしそう。

日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘
東京天文台初代台長寺尾寿の家系図を入手
より


東大農学部(とワンコ物語)

あと、忘れずに追加。 反対を押し切って東京農林学校を帝国大学に併合したおかげで、この感動物語も生まれた(違)。

濱尾新 - 大学事始
濱尾新 - Wikipedia
本郷キャンパス 銅像の由来を探る 濱尾 新(はまお・あらた)
浜尾新(読み)はまおあらた - コトバンク
東京農林学校 - Wikipedia
より


ほかにもネットで濱尾さん検索のいろいろ


なんか、濱尾さんについて調べても、調べても、終わりがなさそうなので、今回の調査はここまでにしといてやるぜ、にしたいと思いますw。 多すぎて力尽きました。


今回もあとで読む用に以下の写真を撮ってきましたが、既に調べものにかなり力尽きた状態なので、また読まないような気がしてきましたw。


次回


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