8年の恋の行先


ファンは沼だけど、恋は地獄だなと思う。

好きな人を好きになって、もうすぐ8年が経とうとしている。画面の中で、漫画実写にしては似合い過ぎる長い茶髪を揺らす彼から目が離せなくなった2013年の夏。当時16歳だったわたしは、自分が人間信仰に不向きな人間だとまったく自覚がなく、自制の必要性も仕方も、そしてこの道がどこに続くかも知らないまま、熱に浮かされたようにガチ恋の業火へと身を投げた。一過性のものだと思っていた熱は、秋になっても冬になっても春になっても一向に引く気配が見えず、ずるずると粘度を増しながらわたしの中にとどまり続けた。彼を好きなまま、気づけば、高校を卒業して、大学入学とともに上京して無事卒業し、社会人になってもうすぐ3年目を迎えようとしている。ちょうどわたしは、16の頃に好きになったときの彼と同じくらいの歳になった。

たけるを好きでいた8年間。

長くはなかった。あっという間だった。

彼の名前を毎朝検索して、ドラマや映画の解禁があればエキストラ情報を即座に調べて申し込んだ。たとえ朝の情報番組でどれだけ占いの順位が低くたって、CMや電車の吊革広告で彼を見かけることができたら、その日はとっても運がいい日に様変わりした。Twitterに書き連ねた半ば執着に近い恋心は、そのままわたしの日記だった。毎日毎日「結婚したい」と思っていたし実際口に出して言っていた。まあまあ、いやかなり本気だった。言霊っていうのもちょっぴり信じていたから。

「佐藤健が好き」ということは、そのうち「好き」という恋心以上に肥大して、自分自身のアイデンティティに化けた。その醜さと不健康さははっきりと自覚していた。たけるへの恋心はあくまで恋心のみとして存在するべきで、何かのための手段であるべきではない。とりわけ自己表現の一つになってるなんて最悪にも程がある。わかっているのに自分の中にある1番大きい感情はいつも「たけるのことが好き」という気持ちで、たけるを好きな自分しか好きになれず、そのことに辟易して何度「これ以上たけるのことを好きになりたくない」「こんな歪んだ好きのなり方したくない」と思ったかわからない。ただのファンでいられたらどんなに楽だったろうか。そう思ったことは数えきれない。

決して爽やかではないし生きやすくもないけど、それでも明るくて幸せな地獄だった。同級生たちが結婚や出産をしていくなか、わたしはたけるがいればもうそれでいいや。たけると結婚したい。それが叶わないならたけるが一生結婚しないよう祈り続けよう。幸い、たける以外との結婚願望は皆無だったし、それがわたしの生き方で、この幸せな地獄にずっと留まり続けるんだろうなと思っていた。

1年前、『恋は続くよどこまでも』というドラマが始まる前までは。

普段思ったことはだいたいTwitterにポイするけど、さすがにあのドラマについては140字じゃ収まりきらなくて自分の記録のためにnoteを書いた。

2020年1月から3月。「コロナ」の3文字が世の中に放り込まれ、その波紋が加速度的に大きくなっていった頃。楽しみにしていたライブや舞台の中止がぱたぱたとドミノが倒れるかの如く決まっていき、エンターテイメントの光がひとつ、またひとつと消えていく日々の中で、このドラマはなんとか最後まで無事完走し、しかも想定外の熱量を伴った社会現象になった。そしてそれは、容赦なくグサグサとわたしを刺し、ドラマが終わる頃にはもう瀕死だった。

よかった。やっと終わってくれた。

そう安堵したのも束の間、結局世間の「佐藤健フィーバー」は全然終わってくれなかった。ちょうど4月クールのドラマから本格的にコロナの影響を受け始めて、撮影スケジュールが大幅に狂って後倒しになり、ぽかりと空白の期間ができたことも大きいだろう。その空白を埋めるように放送された早すぎる再放送。沸き立つ『恋つづ』ファン。佐藤健×上白石萌音のコンビを尊ぶ「たけもね」の字。正直マジのマジでめちゃくちゃ無理だった。もともとこのドラマに納得していない部分が多かったから、このドラマで佐藤健を好きになったファンたちにも懐疑的だったし、何より拗らせた恋心に「たけもね」は猛毒だった。上白石萌音ちゃんのことは全然嫌いじゃないけど、あたかもお似合いカップルのように「たけもね」を扱うツイートを見るたび、手が震え血を吐く…までではないけれど、本当に体調が悪くなった。


だって、恋つづよりもっとたけるの演技や良さが出ている作品がいくつもあるのに。「たけもね」とかドラマは終わったのにいつまでその括りで話してるの。キャラ萌えはわかるけど現実世界でもその2人が付き合ってるみたいな言い方しないで。たけるのLINEがすごく素敵なことなんて前からわたしは知ってたよ。Sugarのコメント欄だって前はこんなに治安悪くなかった。恋つづからの新規のくせして「たけるくんはやっぱりこういうところあるよね」なんて古参ぶるのやめて。


たくさんの呪詛を吐いて、吐いて、吐いて。


自衛をしなければ、と思った。


この明るくて幸せな地獄が、無酸素の地獄に成り果てる前に。自分が完全に蝕まれてしまう前に。早急に、切実に。


Twitterで「佐藤健」と検索するのをやめた。配信ライブアプリも、恋つづファンが爆発的に増えたから意図的に見る頻度を減らした。雑誌もテレビも、前ほど必死に追わないようにした。

自分でも意外だったけど、思ったより自然にたけると距離を作ることができた。接触を減らすのはもちろん寂しくはあったけど、同時に、解釈違いへのイラつきや嫉妬やそれにまつわる自己嫌悪から解放されて、ものすごくホッとした。「遠距離恋愛ってこんな感じなのかな」なんて呑気なことを考えられるまでメンタルを引き上げることができるようにもなった。それには、他界隈で応援しているアイドルのおかげも大きかったと思う。ちょうど休養していた自担が復帰して、ひさしぶりに見る彼の一挙手一投足に、嬉しくなったり、感動したり、涙を流したりした。たけるが「恋」を突きつけた人であるならば、自担は「愛」を教えてくれた人だった。彼にはアイドルとしての成功はもちろんだけど、なにより健やかで光ある人生を歩んでほしい。たくさん寝てたくさん笑って、好きな人と美味しいものでも食べてほしい。わたしたちが払ったお金が少しでも彼の幸せに還元されるなら、それほど嬉しいことはない。

彼を応援することで心の安寧を取り戻しつつ、やっぱりたけるは別の次元で好き。だから恋つづフィーバーが一段落ついたら、たけるを取り巻くものが前みたいに落ち着いたら、そしたら戻ろう。


だけど、そう思っているうちに、夏が過ぎて秋になり、冬を越して、また春になった。


このあいだ、たけるがバースデーオンライントークイベントの配信を行った。たけるの髪は知らないうちに少し伸びていて、見たことのないイヤーカフを左耳につけていた。ゆるい喋り方で配信が進むなか、「佐藤健の結婚運を占う」という企画コーナーになった。色々な占い師が登場し、たけるは結婚できるだとか年上の人が合うだとかもっともらしく話すなかで、ある占い師が言った。


「佐藤さんには、500人のガチ恋の生き霊が憑いています」


いや、それわたしじゃん。

500人のうちの1人、確実にわたしじゃん。


思わず笑ってしまって、そのあと、ふと気づいた。


自分の中に、499人をなぎ倒そうという気概が、もうまったくなくなってしまっていた。


以前なら、500人の中でたけるを好きな気持ちはわたしが1番強いと、見えない499人と占い師に確実にタイマンを挑んでいた。499人を倒してたけると結婚するのはわたしだと、拳を握っていたはずだった。それが今は、心の中を見渡せど見渡せど、どこにもない。

動揺した。そこは今までわたしが明るい地獄から見ていた景色とは違っていた。

大好きだし結婚したい、とは変わらず思う。ただ、そこに含まれる現実味や切実さは、数ヶ月前までは濃縮還元100%で喉を焼き尽くすほどのものだったのに、いつのまにか果汁10%の喉ごしのいい飲みやすいものに変わってしまっていた。

幸せなこと、なんだろうか。気持ちの大きさなんて目に見えないもので張り合うことなく、嫉妬もせず、こんな穏やかな気持ちで彼を見ることって、きっと幸せなことのはずなのに、今感じているのは、戸惑いと寂しさと虚無感だ。


これが、距離を置いたことによる変化なのか、この歳になって仕事をして変わらない日常を過ごすことで育った諦めによるものなのか、それとも。


答えはまだ出ない。



来月、演技するたけるの姿を『恋つづ』以来、1年ぶりに観に行く。

奇しくも、それはわたしが8年前に彼を好きになったきっかけの『るろうに剣心』の続編だ。


それを観て、わたしはどんなことを思うんだろう。


こんな長文を書いてしまうくらいには、まだ全然、大好きだけど。





たける、32歳のお誕生日おめでとう。

新しい挑戦を始めるあなたを誇らしく思うし、あなたの夢が叶えばいいなと、きっとあなたならやり遂げるんだろうなと、無条件で信じています。

その姿を、今年はちゃんと見届けたいなと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?