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潰えた「いつかの明日」(『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』感想)

 この記事は、映画『仮面ライダーOOO(オーズ)10th 復活のコアメダル』(以下、『復活のコアメダル』)の感想で、ネタバレがあります。

 論調としては「何をもってしても完結させるという前提であれば美しい終末であったが、本編シリーズに通底していたテーマを踏みにじってまで完結させなければならなかったのだろうか」という見地で書いています。

10周年と賛否と完結編

 ぼくはこの『復活のコアメダル』を、封切り翌日とさらにその一週間後の2回観た。『大怪獣のあとしまつ』のときは、噂に聞く荒海へ出航する気満々だったが、今回はどちらかというと「お気持ち地雷原」への旅立ちだ。

 1回目は、40年選手の仮面ライダーマニアとして、完結編という触れ込みの『仮面ライダーOOO(以下「オーズ」)』の10周年記念作品を観たくて観た、欲望のままに。

 事前情報や他の人の感想をできるだけ見ないように聞かないようにカットしたつもりだが、映司が死んでしまうという直撃のネタバレを、SNSで踏んでしまった。
 封切り日の朝一番で観る以外に我々に安らぎなど無い。そのように何度自身を戒めても、慢心があるとこういう羽目になる。

 主人公である映司の死については上映開幕早々、瓦礫の廃材によって目を隠すように映されるあたり、映像作品の文法的に「幻影」か「ワケあり」を示しているし、その後にアンクへ洋服を渡した上でロクな説明もせずに去るなど「これはファンタジー演出か死んでいるかだな」というのは開始数分で理解できた。わかりやすい演出のおかげで、映司が死んでいるということへのショックは、初見だったとしてもそれほど無かったことだろう。

 下記は直後の感想。

 作品が完結したことへのストレートな喜び。「とっ散らかった物語」というワードに、後述するこれまで10年間にわたる擦られへの皮肉が見てとれる。

 2回目は、一週間にわたって他の人の意見を読んでから鑑賞した。

 人々の「オーズ」への想いは、賛否の両極端に収束するほど狭くはない。
「理詰めで考えてこの描き方による完結は順当」
「オーズ本編シリーズの思想・哲学と合致しないので受け容れかねる」
「映司が叶えたいことを叶えたのだから満足」
「『メガマックス』や『平ジェネFINAL』のどちらとも設定が微妙に繋がらない箇所があるので、これもパラレル的な世界の一つ」
「同窓会だと思ったら葬式だった」
「撮らないほうがマシだった作品」などなど。

 できる限り咀嚼したかったので、復習として配信の『ファイナルエピソード』『メガマックス』『平成ジェネFINAL』『仮面ライダージオウ』(それぞれ正しい名称は文末の「参考資料」項に記載)ほか『復活のコアメダル』関連映像を視聴した。入っててよかったTTFC。

 映像作品以外には『復活のコアメダル』脚本の毛利亘宏氏による『小説版 仮面ライダーオーズ』も読み直した。800年前の王が復活しボスキャラとして君臨しているゲーム『トラベラーズ戦記』も、当時のセーブデータからラストバトルまでプレイした。

 ついでに書くと、このところのぼくは『大怪獣のあとしまつ』で受けた傷が深すぎて、つい出てしまう「あとしまつ映画よりマシ」を封じるため、映画『大日本人』を急遽ディスクで鑑賞することで中和した。

 余談ながら、映画『大日本人』は特撮への真摯なパロディという点で「あとしまつ映画よりマシ」どころか、かなり良い映画で、その反面「あとしまつ映画にも至らない」怪獣造形やラストのくだりがあったりと、これはこれで熟読玩味しがいのある作品で、本当にあの傷を中和できた。

 余談が続いて恐縮だが、奇しくも2回目視聴前夜、人気Web漫画『タコピーの原罪』の最終回直前話で、これまでさんざん読者を「虐待的描写」と「タイムリープ」と「空気の読めないタコピーの言動」でハラハラドキドキさせた挙句、タコピー自身が消滅することで主人公しずかを笑顔に導けるかもしれないという「何かを得ようとしたら何かを失わなければならない物語」に傾いたので、これを「一得一失(または一失一得)の物語」と言ってしまうのは語義とはちょっと違うのだが「犠牲を払って本懐を遂げる手法」は人気あるよなぁ、なんて思ったりしていた。

 そんなこんなで、この一週間、解像度を上げる努力は「し尽くした」と言っていい。

……だが、あろうことか2回目は、1回目ほどスタッフロールの『Anything Goes!』での爽快感は心に持てなかった。

 下が2回目視聴直後の感想。

 ツイートは前後にもあるので、気になった方はクリックして投稿そのものを読んでほしい。てにをはがちょっとおかしいのは、投稿した時にはそれなりに気分が高揚しているからで、その点はご容赦願いたい。

 ということで、『復活のコアメダル』は単なる10周年記念作品であればよかったのに、なぜこれほどまでに物議を醸す「完結編」となり得たのか。

 まずは、本編シリーズ放送後の10年にわたって、「オーズ」の物語が折に触れて擦られていたことから書いてみようと思う。

バディと信念と極大感情

 現代において、バディものやライバルものの物語は、その要諦を「尊い」「エモい」「極大感情をお出しされる」等のネットミームでメディアやSNSで擦られがちである。

 奇しくも『オーズ』と同時期の2011年にはアニメ作品『TIGER & BUNNY』が放映されており、こちらもバディものやブロマンスとして白眉で、エモい。エモエモのエモ、てーてーてーてーである。←こういう書き方に悪意を見出せるようであれば申し訳ない。

 持論であるが、創作において良いキャラクターには必ず「信念」があり、それを不用意に曲げないことが格を保つ秘訣だ。その上で物語が展開していき、信念を通すにあたって「覚悟」を強いられるシーンで物語はクライマックスとなり、それに至るまでの「葛藤」がすなわちドラマの骨格を形作る。シナリオ養成所で習う「ドラマとは葛藤である」というのはこういうことだと解釈している。

 バディものやライバルものは、主人公の信念と他者の信念の道筋が、平行線だったりねじれの位置にあったりするのを、物語の力によって交差せしめた瞬間に、ボルテージが最高潮となる。

 さらには交差してなお妥結を良しとせず、それでも何らかの影響を受け合うことで交差点からその先の道が光に導かれるように舗装されていくのがまた良い。
 「舗装」という言葉が『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』によって別のジャーゴンになってしまっていることからは目を逸らしつつ、概ねヒーロー集合ものはライダーであれMCUであれ、バディやライバル要素については似たような建付けになっている。

 「オーズ」は主人公である映司とアンクの軸だけでなく、ヒロインの比奈と兄の身体を乗っ取ったアンクの間にある許容範囲の移り変わり、グリード達の確執、真木博士と鴻上会長の思想の相違、伊達の明るく乾いた諦観と後藤の成長など、人物の関係性を巡る見どころは多岐にわたる。

 とりわけ『復活のコアメダル』脚本の毛利亘宏氏による通称「キタムランド」回(33,34話)においては、2話完結の短いエピソードであるにも関わらず、人が人を思いやること、善意、それらが行き過ぎたりすれ違ったりすることによって発生する悲喜交々が描かれている。

 こんな特徴を「オーズ」は持っているので、文末の参考資料欄に挙げた再編集版、劇場作品、客演作品のいずれも、ブロマンスを想起させる言動が無ければならないという義務でもあるかのように、擦りまくった演出がされている。

 ……それがこの10年間続いていた。

 客演映司は客演アンクに遭うたびに「手を伸ばせるなら、手を伸ばすだけだ」と言い、「アイス寄越せ」「今日の分だ」のやり取りをし、比奈は「いつかの明日」への希望を抱いてきた。まるで壊れたビデオテープのように……って情緒がありそうな感じで書いたけど、ビデオ機器は壊れても同じ箇所は繰り返さないネ!

 ぶっちゃけ、食傷気味だった。仮面ライダージオウで『仮面ライダーエターナル』が客演した時も、俳優が本人だったし、言動のどれをとっても「まさにエターナルじゃん!」という嬉しさがありつつ、「なんでゾンビみたいに復活させられたんだ、名シーン名セリフを無理やりbot的に再演するくらいなら、本編シリーズを配信で観るよ」という気持ちがあった。

 なんというか、こういうときに、やはりファンというのは成仏を願ってしまうものなんだ。

ニンテンドーDS用ゲーム『ライダージェネレーション2』のワンシーン

 面倒くさいファン心理。素直に喜ぶこともできなければ、心に従って罵倒することもできない。

 なので、こと「オーズ」に関して言えば「できれば正当な続編で、パラレルワールドや世界改変ではないオーズの世界での後日譚が観たい」という欲望が募るばかりであった。

 その待望の「正当な続編」が公開されたと同時に、それが「完結編」であるというのは、いったいどういうことを意味するのか。

メダルとゴーダと低予算

 前段で「オーズ」を取り巻く擦られ具合については書いたので、次は映画の内容について書きたい。設定へのオタクっぽいツッコミなどだ。

 まず、ちゃんとしてほしかったのが「メダルの所在を明確にする」ことだ。本編シリーズでは、メダルの行き来が彼我戦力差に直結するので、明確にアイキャッチとして「カウント・ザ・メダルズ」されていた。

 本編シリーズから『復活のコアメダル』までの期間、メダルがどう動いたかは、諸説ある。

 未来からの介入によりすべてのメダルが揃った状態で終劇となる『メガマックス』や、エビ・カニ・サソリのメダルが「仮面ライダーコア」とともに消滅してしまう『MOVIE大戦CORE』、おそらく爬虫類系は徳川献上品の中に戻されてどこかの博物館に眠ったままでいるであろう『将軍と21のコアメダル』、模造コアメダルが情緒なく出てくる『平ジェネFINAL』等……。

 これらがため、メダルの所在についてのみ劇場版作品が一切パラレルワールドだったと仮定して、本編シリーズがそのまま『復活のコアメダル』に続いているものとしたい。

 コアメダルのうち映司が手にした「割れたタカメダル」以外は、最終話で鳥系、昆虫系、猫系、重量動物系、水棲生物系、そして恐竜系の各メダルはブラックホール状の虚無に吸い込まれ、消滅した。

 今回の『復活のコアメダル』で登場する「エビ・カニ・サソリ」は本編シリーズ中に鴻上ファウンデーションに存在したと思われ、最終話でも消滅せずに鴻上の手の中にあり、その後「(ゴーダ)ムカデ・ハチ・アリ」が開発されたと考えられる。

 10年の間に、鴻上会長が言うように虚無(おそらく消滅したものが漂っているところ、というニュアンスだろう)の中から古代オーズとコアメダルが復活したとなると、その瞬間のメダル所在と、考えられる最大枚数は次のとおりだ。

  • 古代オーズ:
    「タカ・トラ・バッタ」を1枚ずつ。これは本編シリーズのラストバトルで映司が装着していた「10枚目」のもので、劇中で破壊されたものがそのまま虚無に飲まれていたと考えられる。
    鳥系5枚。10枚のうち、本編シリーズで3枚をプトティラコンボに砕かれているし、1枚は映司がずっと所持しているから、古代オーズのタトバコンボに使用されているタカメダルを除いた数はこれ。『メガマックス』で他の系統が10枚なのに鳥系だけは5枚だったのは同じ計算(のはず)。
    恐竜系3枚。本編シリーズで、虚無に吸い込まれる前にギガスキャンに7枚を使用して虚無に吸い込まれる直前に砕け散っている。この3枚はおそらく真木博士の恐竜グリード由来のもの。
    重量動物系1枚、水棲生物系1枚。グリードは10枚から1枚欠けた状態こそが完全のため、余分なものは古代オーズが持っているのでは、と予測。
    ※とはいえ、猫系1枚、水棲生物系3枚、重量動物系2枚も最終回に至るまでに砕けているんですよね。これらもまあ、吸い込まれたということで……。

  • 復活したグリード:
    昆虫系9枚(ウヴァ)、猫系9枚(カザリ)、重量動物系9枚(ガメル)、水生動物系9枚(メズール)。つまり『復活のコアメダル』では、復活した直後の彼らはいわば10枚目を求める完全体。世界が滅亡に瀕するのもわかる。

  • 鴻上ファウンデーション:
    甲殻類系枚数不明。毒生物系枚数不明。どちらも劇中では3枚しか見えない。設定上、他の動物種も存在していることになっている。

 ここで鳥系5枚で「アンク(ロスト)」は生まれなかったの? 恐竜メダルからギルは? と言い出すのは面倒くさいオタク的ツッコミであろう。

 これらには「意識(魂)の入っていないメダルがいくらあっても、グリードは復活しない。恐竜グリードは本編シリーズで初めて誕生したため、適合する人体があれば誕生してしまうことを800年の間虚無に漂っていた古代オーズは知る由もない」という反論をもってセーフとなるだろう。何がセーフで何がアウトなんだよ。

 さらなる疑問として、復活したメダルとそうでないメダルがあるのはおかしいのでは? というのがある。

 これは、遊戯王のカードゲームで「墓地に送る」と「除外」が違うようなものだろう。プトティラコンボすなわち恐竜メダルのパワーに割られたものは戻らず、同様にギガスキャンに使用して砕けた7枚の恐竜メダルも戻らない。これは「除外」だ。

 よくわからない砕け方をした「10枚目」と3枚の恐竜メダルは虚無に吸い込まれており、これは「墓地に送る」だ。だから今回戻ることができた。カードゲームの解釈を援用してわかるかどうかは別だが……。よくわからないままにしておくってそれなりに大事だなぁ。

   *

 次に湧く疑問はこれだ。『復活のコアメダル』劇中で映司が戦闘でぶんどったとしていくらかのコアメダルがファイルに納まっているが、それらのメダルが手に入る直前は、映司は何に変身して古代オーズやグリードに対抗していたのだろうか?

 もちろん『将軍と21のコアメダル』で描かれたように、映司が臨時でバースに変身して戦ったとも考えられるが、そもそも正規変身者がいる。バースはセルメダル収集のために対ヤミー用に作られていて、グリード達からコアメダルをホイホイと引き抜くような運用はできない。バースをもう一つ作って伊達&後藤のダブル・バースの運用ができたとして、ダメージ覚悟で辛勝(=グリードの一時撤退)が関の山だろう。

 そこでさっきの「エビ・カニ・サソリ」「(ゴーダ)ムカデ・ハチ・アリ」が出てくる。甲殻類系は対グリード戦にコンセプト変更された「バースX」の開発に使われていたとすると、使用できたのは毒生物系となる。

 すなわち古代オーズと戦った映司は「(ゴーダ)ムカデ・ハチ・アリ」を用い、直接変身でムカチリコンボになって古代オーズやグリード達に立ち向かった可能性があるのだ! ムカチリコンボというのはゲーム『仮面ライダー メモリーオブヒーローズ』でのCGモデルや玩具フィギュアこそあれ、テレビや映画では未登場のコンボだ。これは熱い。プトティラでなければタトバコンボからのスタートが基本だということで、他コンボへの直接変身は斬新でもある。いや、適当な亜種メダルでスタートするバトルはいくらでもあるんですが、なんというかイレギュラーなもので善戦したり辛勝したりするシーン、オタクの大好物なわけで。

 しかも毒生物って嫌らしい戦い方をするためのようなものじゃん!? 妄想が捗る。これをなんで映像化してくれないんだ!?

   *

 ではこの「(ゴーダ)ムカデ・ハチ・アリ」メダルとゴーダにスポットを当てよう。これらは鴻上の言うように映司の欲望のデータを参考に作られた人造(=現代製)コアメダルである。

 もしかしたら生前の映司と、誰か人間に憑依(あるいは不完全体による人間への擬態)したゴーダが共闘していた時期、あるんじゃないの?

 グリードから奪ったメダルで何らかの亜種になっている映司が「ゴーダ、早くメダル!」と催促し、映司の記憶を持つゴーダは「アンクならこう言ったんだろ、『オエージ!これを使え!』って」なんて掛け合いがあったかもしれない。

……という妄想をしてしまうくらい、ゴーダは「オーズ」のファンにとって、見たくないけど目が離せないヤツ、として描かれていたと思う。

 なにしろこの作品の中で、映司が正真正銘の火野映司だったことって、古代オーズにやられたシーンとラストシーンくらいなのだから。あとは全部ゴーダ映司。どうでもいいけど、剛田武、ゴーダ映司。韻を踏める。

 ゴーダは開発されて誕生したまでは鴻上に説明されるので理解できるが、ゴーダ映司については、劇中情報だけでは「死亡寸前の映司の身体にご都合的に憑依したのかな?」と推測するほかなかった。

 だが、映司がムカチリコンボに変身するシーンがあったなら、古代オーズに敗北後、フォームチェンジ用に所持していたゴーダメダルが映司に入り込んだり、映司の意識がなくなった隙をみて憑依していた人間の身体を捨てて飛び出して奪ったり、という想像が容易にできるようになる。

 このシークエンスがあるだけでめっちゃ「いけすかない命の恩人」感が出るじゃん!

 いけすかなさと命を繋いでいる両面が今以上に強調されていれば、『復活のコアメダル』での、オーズドライバーを装着してのタトバコンボへの変身を「やってみたかったんだ」と言ってのけたり、コンボチェンジ用のメダルを要求したり、「タ!ト!バ!」の歌についてアンクに言及を迫ったりという、映司の記憶にアクセスできているからこその振る舞いが、単なる擦りの新録ではなくなってくる。

 本編シリーズでタカキリバのカマキリアームを「やっぱ使いやすいなぁ、これ!」と言ったときの映司に重なって見えてきたら、それはもう観客を手玉に取ったも同然でしょ。もうぼくには見えてしまっていますが。

 最終的にゴーダが「劇場版限りの悪役」として小者ムーブでメダルをせしめた挙句に倒されてしまったので仕方ないが、ゴーダ映司として、火野映司を蘇生させる「いつかの明日」までその状態でいるというのも、よかったんじゃないかな。その場合、続編のタイトルが「仮面ライダーアンク」になりそうですが。なっていいですね? ぼくはいいです。

 ちょうど、悪魔が憑依するようなライダーも毎週やってることだし。10年待ったんだ、また10年くらい待つよ。

 で、また10年くらい経ってから鴻上から「ハッピーバースデー! ニュー映司君。ゴーダ君は映司の欲望から作られた存在。実質ゴーダ君は映司君の精神そのものといっていい! そして(神妙な面持ちになって)長い間……ほんとうに長い間を過ごすうちにゴーダ君は……映司君そのものになってしまったようだね」って言われるの。成立せん? ニューエイジとも掛かってて、ほら、いい感じで。よくないか。

   *

 メダルの所持のほかにちゃんとしてほしかった疑問点がもう一点ある。それは「2つのオーズドライバー、どこから出てきた?」というものである。

 変身ベルトは仮面ライダー作品の肝。『復活のコアメダル』で古代オーズが装着しているオーズドライバーが1つ。まずこれは何だ?

 古代オーズが現役だった800年前に使用されたドライバーは、メダルのパワーを制御できなかった古代オーズとともに石化していたが、2011年のグリード復活と同時に、火野映司が使用しはじめた。

 復活までの間、古代オーズが虚無に漂っていたとしても、ドライバーはその腰から外れていたことになる。

 復活の仕組みがわからないため「復活とは現役時代のイメージを現代に蘇らせること」というこじつけをすれば、古代オーズはドライバーを装着したまま蘇ったということができよう。その後『復活のコアメダル』劇中で古代オーズはプトティラコンボの猛攻を受けて爆発四散する。メダルは宙空に浮いていたが、古代オーズのドライバーはその肉体とともに跡形もなく無くなったように見える。

 次に、ゴーダ映司のドライバーは火野映司が持ち続けていたものだろうから、こっちはいわば正規品だ。だが、仮面ライダーゴーダは火野映司の身体を分離する。その後、アンク映司がタジャドルコンボエタニティに変身するわけだが……そう、正規品のドライバーは仮面ライダーゴーダが腰につけたままだ。

 アンク映司が持ってきたオーズドライバーは、さっき爆発四散した古代オーズのドライバーだろうか……? しかし、設定上は他人が認証したドライバーでは変身できないはず。古代オーズで認証されているオーズドライバーは映司では起動しない。本編シリーズでも映司以外の人間がオーズドライバーを装着したシーンは無い。

 仮面ライダーゴーダが火野映司を分離したときに、オーズドライバーが複製された? それは無いだろう。かといって仮面ライダーゴーダからドライバーが外れている描写も無い。もしここでグリード達のしているバックルにつけ変わっていたりしたら良かったのだが……。

 ベルト描写には気を配ってほしかった。「オーズ」においてオーズドライバーの運用ができるのは王の器を持つ者だけなので、無から二つも三つも生まれてきたらおかしい。

   *

 オタクが勝手に様々なシーンについてツッコミを入れたり、補完できそうな妄想をするのは業みたいなものではあるが、60分なりの上映時間と短めの作品であるため、それらをフォローするアイディアがもし存在したとしても、撮影は難しかったのではないかと考えられる。

 そこここで低予算であることが窺えるからだ。

 舞台が「古代オーズが復活して暴れ回った後」というのも、メインキャスト以外をほぼ出さない言い訳としては順当だ。だが、人間社会が滅亡しそうな状況にまでする必要はあるかというと、ストーリーを俯瞰してみると「そこまでせんでも」という感は否めない。

 世界が滅亡の危機にあるというのは、映司の死が確定していたから、その規模に合わせたかったのだろう。映司が死んでしまうくらいの状況なのだから、世界の方はめちゃくちゃになっていて当然だという逆算だ。

 ならばもうちょっと世界設定の辻褄に予算をかけてほしく、これくらいの描写だと、将軍吉宗のいる時代と接続して丸型にくり抜かれた地面が反転するほうが危機に見えてしまう。

 どこでも言われているが「電灯が煌々とした夜景」や「工場生産品である冷えたアイスキャンデー」「ラストで映司が救った少女が、救われてから日数経過しているだろうにも関わらず、ボロボロの服で出てきたこと」にはほんとうに違和感を持った。

  比較してもしょうがないが、映画『大怪獣のあとしまつ』では、夜景のビルが輪番停電している描写があった。洗濯や着替えが難しいほど人類が追い詰められていたにしては、なんとなく辻褄が合わない描写に感じられる。

 それに、新作なのに新作らしくないシーンが続くと言えばよいのか、回想シーンも多かった。回想は本編シリーズでも終盤に多用されていたし、客演作品でもいたるところで再生されたもので、オタクたちにとってはたぶん、親の顔より見た回想、である。

 もちろん「もう擦るのはこれで最後だ」という受け取り方もできる。変化球として、アンクとゴーダのコンビで名シーンの焼き直しをしたり、アンクと映司の立場を入れ替えて再現したりというのがあるのも、良いけれど、良かったけれども、パロディ映像のようでもあり、是も否もどちらとも言い難い。これを是とするにはゴーダの描写がもっと必要だったろう。

 歯に物の詰まったような言い方ばかりしてきたが、低予算であっても本編シリーズへの配慮がされているシーンが多く、これは素直に嬉しかった。

 これまたオタクっぽい小ネタを並べてしまうが、バトルシーンでのBGMに「変身・オーズ」「対決・グリード」を一切使用していなかったのがよかった。戦っているのは映司の身体を使っているゴーダでしかないので、陽気なラテン調のあの曲ではダメなのだ。タジャドルエタニティが登場して初めて「スキャニング・チャージ」が使用される。こだわりを感じる。

 プトティラコンボで古代オーズを打ち破るのも、アンクがそのきっかけを作るのも、本編シリーズに沿った設定や性格どおりで良かった。メダルを割りたいならプトティラコンボとメダガブリュー。これは常識だ。

 アンクは本編シリーズでプトティラコンボに鳥系メダルを3枚砕かれ、生存の危機を感じたことがあったので、その経験を生かして古代オーズからプトティラコンボ用のメダルを抜いて起死回生の一手にしたというのは、なんだかんだ頭が良く狡猾なアンクを示していてよい。

 この劇場版が初めてという人がいるのかはわからないが、体の中に埋まっているメダルが見える技能は、ゴーダと出会ったシーンで説明済み。ご丁寧に視聴者にもわかるよう、古代オーズの体内で恐竜メダルが手前に浮かんでいる描写もあった。こういう小さな積み重ねも劇中できっちり成されていて、納得感がある。

 ライダーや怪人のスーツに使われる予算もかなり限られていたように見えた。

 古代オーズはオーズのスーツに金色ガウンを羽織らせた姿で、グリードを吸収した後は既存スーツを組み合わせてリペイントしたもの。ゴーダの最終形態はそこにプラスしてブラカワニコンボを改造した頭部パーツにスーパータトバコンボの爪部品をつけていて、補強用の透明テープが見えてしまっているという状態。古代オーズの武器も、かつて劇場版で敵が使用していた謎のドクロ剣だ。

 新造のものがそれだけで良いということはないが、使い回しは寂しかった。けれども使い回す元となっているのがすべてオーズ由来なので、なんというか最大限配慮されている。予算における「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」をきっちり「工夫」で乗り越えている感じはする。

 グリードもそれぞれの性格が生かされるほどの尺が無かったのが惜しい。唯一見せ場の多かったウヴァが「ヤツのコアメダルは、俺が奪ってやる」と飛び出していったのも、ウヴァの名前の由来が「奪う」だからというのもあるし、どれほどの記憶が復活したコアメダルに残っていたかはわからないが本編シリーズでのウヴァの最期を考えると、全てのメダルを集めることに執着があってもおかしくない。(もちろんウヴァ自身は二度と他のコアメダルを吸収したくはないだろうが)

 こういったこだわりポイントの有無について、特撮オタクは何かにつけ監督や脚本家のせいにしたがるものだが、ファンの多い本編シリーズメインライターの小林脚本ではなくとも、田崎監督や毛利脚本は、オーズの本編シリーズや関連作品でむしろ頻出だと思うし、誰が手掛けていたとしてもここまで要素を拾ってくれていたら御の字じゃん、という感想になる。

 映像の話はこれくらいにして、次は「オーズ」を取り巻くテーマが『復活のコアメダル』で果たされたのかについてを書く。

欲望と伸ばした手と都合のいい神様

 本編シリーズのテーマには「欲望」というキーワードが中心に据えられている。有名な鴻上会長の「赤ん坊は生まれたとき『欲しい』と言って泣く! 生きるとは欲することだ!」というセリフに象徴されるように、登場人物それぞれ、ゲストに至るまでが持つ欲望を中心に物語が組み立てられている。

 バトルシーンでも欲望がより大きいほうが勝つようになっていて、エピソードによって行き来するメダルでそれが可視化されている。劇中科学のロジックでメダルを集めたグリードが強力になるだけでなく、物語としても、欲望が肥大化したらそりゃ強いよね、という筋が通してある。

 主人公である映司の印象は、初期ではまだまだ内面が見えないため、主人公だけあって個人的な欲が無いからかえって強いのではないか、明鏡止水の心持ちだからこそ変身を使いこなせるのではないか、という雰囲気を漂わせて始まる。鴻上会長やゲストの生み出すヤミーやグリードによって欲望の形が描かれるほど、反比例して映司はそこから遠い存在に感じられる。

 主題歌でさえ「要らない持たない夢も見ない」で始まるが、これは叙述トリックみたいなものだ。中盤で映司の出自や戦地で何があったかという内容が明かされたあたりから、映司は個人的な欲望を失ってはいるが、底なしなほどの欲望の器であることが見えてくる。欲望が大きいというのではなく、欲望を受けるための器が大きい。そうなると、主題歌の聴こえ方まで変わってくる。

 映司が自身の器の大きさに自覚的に動き、そこに世界を救える力が欲しいという願いが純粋な欲望として積み重ねられていくことで、視聴者の解像度の上がり方がグッと高まる。合わせて、ストーリーもクライマックスを迎える。

 映司は欲望の器としての能力がある。これがあったからこそコアメダルの暴走に際して世界を救うことができた。

 物語のテーマとしても、全て欲してOK、一つを得て一つを失うなんて誰かの都合に合わせる必要はない、映司を都合のいい神様にしてはいけないと、そう結んだ。

 さて、欲望の器が大きいという能力に着目すると、セルメダルをあれだけ飲み込んで最終決戦に臨むことができたのは納得がいく。

 けれど、できるんだからやるでしょ、ほかの人にできないんだから自分がやるしかないでしょ、というところから生まれたその場の欲は、本人に根差しているというよりも、欲張りに(=器に)根差したものだろう。その類稀なる能力とは別に、本来映司が欲していたものとは、世界の救い方とは何だったのだろう。

 きっと「コアメダル(グリード)が暴走してヤバいから仮面ライダーになってこれを倒す」という「小さな」ものではなかった。

 グリードなんか出てこなくたって、この世界は悲しみに溢れていた。溢れている。観客、視聴者の世界がそれだ。本編シリーズ放映中は、東日本大震災が発生したし、『復活のコアメダル』上映は、ウクライナ戦争が連日報道されるさなかだ。

 そういった観客や視聴者の世界ともシンクロする「世界を救う大きな力を手に入れる」欲望を前提にすると、『復活のコアメダル』での映司の死そのものの是非を問うのは、本編シリーズ後の映司の人生が、引き続き「欲望の器」としての役目を全うすべきだったのか、自身の「欲望」に忠実にあるべきだったのかを問うのに等しくなるのではないかと思っている。

 復活した800年前の王を前に、映司は少女を救おうとして命を落とした。

 本編シリーズで何度も回想された「戦地で少女をミサイル攻撃から救えなかったシーン」は、世界観がまったく違う仮面ライダージオウのオーズ編でもカットインされたほど擦られた。ファンは「ジェネリックミサイル少女」の登場に「またか」と思ったかもしれない。

 映司にとっては、叶わなかった願いだからこそ、頭にずっとこびりついて離れなかった記憶が、トラウマが、目の前に広がったことだろう。

 あのとき伸ばせなかった手を伸ばし、庇い、古代オーズの爆発攻撃によって命を落としたというのは、映司が報われた瞬間だったと思う。報われたというのは、映司がしたいことができた、過去と訣別できた、という点でだ。

 劇中の精神世界シーンで「ア~ンク、久しぶり~」と、憑き物でも落ちたかのような映司がアンクと会話するが、命を落としたことについて観客の煮えきらない気持ちを代弁するかのように、アンクから「そんなことで」と言うセリフが吐かれる。しかし映司は「伸ばせるときに、手を伸ばした」に過ぎないと答える。

 信念と覚悟。そこに至るまでの葛藤は十分にやってきたので、それを踏まえると、ここにドラマがきちんと構成されたわけだ、瞬間的に。

 瞬間的にドラマが構成されて、物語がストンと終了してしまった。

 観客も一人の少女を救うことは決して批難されるようなことではないと理屈ではわかっているが、ゴーダが「(少女は)死んだよ」と嘯くシーンが事前にあったため、「オーズ」という物語世界で無駄死にが発生していいのか? という疑問が続いたままラストシーンを迎えたことだろう。

 一方で、他人を救おうと思ったら、その代償に自分が何かを失わなければならないという「一得一失の法則」じみたものは、本編シリーズでは否定されていた。

 一度は泉信吾(比奈の兄)によってあれもこれも救いたいという比奈に対して「このまま彼(映司)を都合のいい神にしちゃいけない」と語られたが、最終話直前で火野映司本人が自身の欲望に気づいたことによって、むしろそれをも飲み込んで、得られるだけ得ていく飽くなき欲望こそが肯定されたのだ。

 それを体現したのが「10枚目」の「タカ・トラ・バッタ」メダルを用いた「真のオーズ」の存在だ。

 なので、今回「少女を庇って→映司が死んで→アンクが交代するかのように復活」というシークエンスは、らしくない。本編シリーズのテーマも踏みにじったことになる。アンクを復活させることからの制作側の逆算も感じさせる。

 稀有で底なしの包容力がある欲張りな「オーズ」という物語世界で、命がなくなったらハイそれまでよ、というのは、あんまりではないか。

 物語のくせに、人生並みに、面白くない結末。

 その結末にどうしても向かっていかざるを得ない事情があったとしても、アンクが復活した仕組みがそもそもよくわからなかった。映司が命と引き換えに願ったというファンタジーなパワーで済むんだったら、この10年の間の客演でやれた程度のことだったじゃないか、という如何ともし難いもどかしさが広がる。

 どうして「少女もアンクもみんな救ってみんなハッピー、というのを望む欲望」は許されなかったのだろうか?

 ご都合主義でアンクのコアメダルを鴻上が最新技術で「金継ぎ」して、それで大復活、大ハッピーでもよかったんじゃないか?

 観客のでっかい欲望を叶えたとして、怒るのはぼくのような口うるさいオタクだけのはずだッピ。(←不穏な語尾をつけるな)

まとめ:ファンの情緒がぐっちゃぐちゃ

 ここまで、とにかく『復活のコアメダル』を観て思ったことを書くだけ書いてきた。ほんとうにオタクの面倒くさい感想だ。

 この劇場版1本約60分を最後に、それ以上「オーズ」の物語は紡がれないのならもう仕方がない。擦られすぎて食傷気味だったブロマンスに決着をつけたことだけを褒めるしかない。

 そうとでも割り切らなくては、この『復活のコアメダル』はそもそも撮らなくてよい作品、誰の欲望を叶えたのかわからない作品に思えてしまう。

 もし『復活のコアメダル』が撮られなかった場合、ファンは「アンクは本編シリーズでグリードとして死んでしまったけれども、そもそもメダルというファンタジーなのだからいつか修復されるという形で復活するのだろう」という希望を描いて、何度擦られようがずっとその希望を維持されるほうが情緒を保てる。正解ではないが最適解ってやつだ。

 そしてこの10年、実はファンの情緒は上下の程度はあれ、守られてきた。

 『メガマックス』も、「いつかの明日のさらに未来」からアンクがやって来たとすることで、「いつかアンクが復活するのだろう」という希望は守られた。

 『平ジェネFINAL』も映司とアンクの再会を描写しこそすれ「メダルの偽物が本物と同様に振る舞った」だけであり、「いつか復活したら本人としてああ描写されるかもしれない」という線で守られた。

 当然、これら二つを何の慈悲もなくパラレルワールドだと決めてしまえば、本編シリーズであれだけ未来への希望を示唆して終幕としておきながらも「映司が死んでしまったのでこれで終わりです」ということだけを描いた『復活のコアメダル』は相当ファンに厳しい、「守ってくれない」映画だ。

 考えれば考えるほど、いつまでもふわっと客演して、名セリフを擦りながら、またアンク消えた、またアンク消えた、とやっていたほうがマシだったのではないか、と。いや、それはそれで気持ち悪いわ。どうしたらいいんだ。このぐちゃぐちゃ感が、一週間経っても、18,000字にわたって書いても、晴れない。

 希望としては、『メガマックス』に続く世界はいまだ描かれていない、としてほしい。今回の完結編が「正史」だとして、パラレルワールドで続いてほしいという欲望だ。

 『メガマックス』でアンクが未来へ帰還した後では、当然のように映司も生きているし、メダルも揃っている。ぼくの好きな仮面ライダーアクアことミハルも、きっと初期型タイムマジーンを駆ることもなくなり、同じように「擦られた存在」の仮面ライダーエターナルとの戦いで命を落とさないで済む。

 「オーズ」のファンとしては、今回の完結編という言葉を鵜呑みにせずに再び10年でも待ち、今後何らかの形で「いつかの明日」に解決が提示され、「Time judged all.(時間が全て裁定した)」となることを祈りたい。

ニンテンドーDS用ゲーム『ライダージェネレーション2』のワンシーン

参考資料

 『復活のコアメダル』をより一層楽しみ、理解するための補助線として、本編シリーズ終了後から『復活のコアメダル』までの間にオーズについて描かれた作品のうち、チェックしておくとよさそうなものをピックアップした。

  • 『ネット版 仮面ライダーオーズ 復活のコアメダル 序章』
     TTFC(東映特撮ファンクラブ)会員コンテンツ。『復活のコアメダル』直前の出来事を描いた短編。ほんの数分の中に、レジスタンスの戦いと戦乱の規模、映司と比奈の再会、白い服の少女との交流が描かれる。
     映画だと800年前の王に倒されるシーンでしか見られなかった「火野映司が変身するオーズ」のバトルシーンがあり、そこでのBGMには「対決・グリード」がしっかりと使われている。

  • 『ネット版 仮面ライダーオーズ バースX誕生・序章』
    上記同様TTFC会員コンテンツ。バース組の集結シーンが描かれる。後藤ちゃんの環境の変化も見て取れる。人造コアメダルも無から湧いたわけではなく、鴻上はコアメダルについて相当に追求し続けていることがわかる。個人的にはオーズのキャラクターたちの中で里中君が好き(変身しないのにめちゃめちゃ強いから)なので、嬉しい。

  • 『仮面ライダーオーズ ファイナルエピソード ディレクターズカット版』
     予習に最適。テレビシリーズの結末を知らなくては『復活のコアメダル』を楽しむことも悲しむこともできない。
     ディスク販売の映像作品で、TTFCでも観ることができる。本編シリーズの最終2話を再編集したもので、『復活のコアメダル』と同じ田崎監督。本編で使用されなかった8分のシーンや音声追加がされている。
     映司が狂気なまでに力を欲したのかがわかるだけでなく、世界の終焉を前に各キャラクターの思想信条が深く描かれる。
     欲望が「オーズ」という作品においてどれほど中心に据えられているか、というテーマの真髄を感じることができるだけでなく、メダルによる暴走や、紫のメダルとプトティラコンボの特性など『復活のコアメダル』で引き続き用いられた設定についても知ることができる。
     最終決戦でのタジャドルコンボ変身時に「タカ!クジャク!コンドル!」の音声がアンクの声になっているが、これは再編集だからではなくテレビ放映時からすでにそうなっていて、これには驚かされた。演出が過ぎるからなのだけれども……。すでにこの時から「エモさ」への試みは繰り返されていたのだろうな、とは思う。
     ラストバトルは『復活のコアメダル』で対照的に演出されていて、合成技術の進化がとてもよくわかり、そこからも10年という時間を感じられる。

  • 『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ ムービー大戦MEGAMAX』
     W、オーズ、フォーゼと昭和ライダーたちが勢揃いする劇場版作品。ディレクターズカット版があり、こちらは20分のシーン追加がされている。生身アクションを惜しげもなく取り入れている坂本監督作品。
     オーズのパートは、未来から現れた悪の仮面ライダーポセイドン、同じく未来の青年ミハル、そして突如帰ってきたアンクを軸に物語が進む。
     未来を扱っていることから、封切り当時の視聴者の興味は「40年後までに映司とアンクは再会できているのか」というところにあったわけだが、それは明示されない。
     しかし、自律してしまうという失敗を孕みながらも鴻上の手によって人造コアメダルが作られていることが示唆される。本編シリーズに続いてコアメダルを多数保持すると暴走することがポセイドンの存在により示されているが、本編シリーズ終盤とは違い、人の形を保てている。
     各所で指摘されているが「未来から来たアンクが何故復活したのかを問われてもはぐらかして答えない」「同じ時間の延長上の未来のはずなのに、40年後から来た仮面ライダーアクアがオーズのことをよく知らない」ほか、映司から「一緒に戦うのってもしかしてこれが最後?」と訊かれてアンクが「そうしたくなかったら、きっちり生き残れ」と答えるシーンがあり、『復活のコアメダル』がこれらの演出を汲んで作られたことが推測できる。
     劇中でアンクが未来からやってきたことに登場人物たちが気づき、映司と比奈の間で「いつかの明日にこのメダルが元に戻って、アンクにまた会えるってこと」「いつかの、明日…」という会話がなされる。
     ラスボスは「銀河王」だが、この悪逆非道な敵に対して映司が「それは、間違った王の姿だ!」と啖呵を切って「王」に対する考え方をぶつけるシーンがある。
     ライダー客演もの、大集合ものとしては、何度も観たくなる傑作と言ってよいと思う。

  • 『仮面ライダー 平成ジェネレーションズ FINAL ビルド&エグゼイド with レジェンドライダー』
     映司とアンクの関係性を強く「擦っている」代表的な作品。大集合映画のため複数作品の仮面ライダーがクロスオーバー登場し、W→オーズ→フォーゼと劇場版の宿敵を務めた「財団X」の残党も現れる。映像やセリフでのファンサービスだけでなくオリジナル俳優の客演も多く、その目玉として映司とアンクが登場する。
     アンクは敵の作り出した模造メダルから生まれているので本編シリーズでのアンクではないはずなのだが、映司が本人のように扱っていく上に、アンクもそのように振る舞うのでこのあたりがファンからの評価が分かれるところ。
     『メガマックス』を受けて「今日この日だったんだな、お前がいる明日って」と映司が言ったり、アンクが体内からメダルを放出しタジャドルコンボにチェンジするときに本編シリーズ最終話の「それがお前のやりたいことなら」という映司のセリフが引用されたり、ラストシーンで再びの別れに関しては、じめっとしていて、ちょっとやり過ぎで気持ち悪いな、と思った。(個人の感想です)

  • 『小説 仮面ライダーオーズ』
    『復活のコアメダル』脚本の毛利氏による本編後日譚の小説。第一章にて古代オーズとアンクの関わりが書かれている。第三章は映司がオーズに変身できることからメダルの揃った『メガマックス』後と受け取れるので、『復活のコアメダル』に続いていなさそうではある。

  • 『仮面ライダージオウ EP09,10,44,45,46』
     主人公のジオウが、自身が魔王となる悲壮な未来を変えるために選んだ行動によって、平成仮面ライダー作品の時空がライダーの存在とともに次々と喪失し、混然としていく作品。
     EP09~10は『復活のコアメダル』と同じく毛利脚本。オーズ編という触れ込みではあるが、王のモチーフとしてエグゼイドの檀黎斗が当てはめられ、映司も比奈もオーズ本編を彷彿とさせながらも全く違う人生を歩んだ役(映司は赤い羽根をつけた議員に、比奈は服飾デザイナー)になっている。オーズ時空が喪失しなかった場合のことをおぼろげに感じているかのようなセリフがある。
     EP44~46は前述の『メガマックス』で登場した「湊ミハル/仮面ライダーアクア」が未来のジオウたちを知る者として登場し、映司からもらったパンツをお守りとして持っていたり、生き様に明らかに映司に影響を受けたと思われるところがある。

  • 『仮面ライダー トラベラーズ戦記』
     ニンテンドー3DS用のロールプレイングゲーム。W、オーズ、フォーゼ、ウィザード、鎧武の5作品のライダーだけでなく、多くの周辺人物が登場。仮面ライダー同士の掛け合いだけでなく、違うシリーズの人物同士が出会ってしまった故の会話も、それぞれのキャラクターの性格や境遇を色濃く反映したものになっている。『復活のコアメダル』での人造コアメダルに似た概念の「ラストメダル」があり、これがステージボス(偽怪人)の源になっている。アンクも偽物としてステージボスで登場する。
     ラスボスは復活した800年前の王すなわち古代オーズだが、単純な復活ではなく、ラストメダルを生み出した財団Xの研究員を依り代にしている。最期は暴走して怪物の姿となり、ライダー達に倒される。
     同シリーズでこれより前に発売されたアクションゲーム『仮面ライダー ライダージェネレーション』『同2』がある。前者はオーズをベースとしている。後者にはオーズを使用して恐竜グリードを倒すミッションが存在する。

  • 『仮面ライダー メモリーオブヒーローズ』
     ニンテンドーSwitch用のゲームソフト。W、オーズ、ゼロワンが登場するほか、コアメダル「ムカデ・ハチ・アリ」を用いたオーズの「ムカチリコンボ」と対応するグリードの「ムチリ」が登場する。『復活のコアメダル』での仮面ライダーゴーダは「(ゴーダ)ムカデ・ハチ・アリ」を用いたフォームだが、姿形は「ムカチリコンボ」や「ムチリ」のどちらともまったく違う。

おまけ

 今季ワーストは文春ヤミー。3月20日の記事。『復活のコアメダル』でファンはそれどころじゃないヒリつきようだってのに、空気読めアホ。

(おわり)



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