繰り返す怨嗟のレジャー(『仮面ライダー BLACK SUN』感想)
仮面ライダーBLACK待望のリブート作
『仮面ライダーBLACK SUN』とは
2022年10月28日に公開された、Amazon Prime配信作品。全10話を一挙配信した。1987年から1年にわたって放映されていた『仮面ライダーBlack』のリブート作品。監督:白石和彌、出演:西島秀俊(南光太郎、仮面ライダーブラック・サン)、中村倫也(秋月信彦、仮面ライダーシャドームーン)ほか。キャッチコピーは『悪とは、何だ。悪とは、誰だ。』
本作は『ブデチゲ(鍋)』である
この『仮面ライダー BLACK SUN』(以下、本作)をどう捉えれば良いのか。5周した今でもわからないでいる。『仮面ライダーBLACK』(以下、原作。テレビシリーズを指す)の要素やオマージュは詰め込まれているし、怪人の出自を戦時中の人体実験に求めたことで政府とゴルゴムの密接な関係や人種差別の根幹にあるものも描き、南光太郎と秋月信彦の確執を学生紛争時代からのコミュニティを巡る関係性に落とし込むことで怪人側のドラマも厚みを増している。
ヒロインである葵もいわゆるお姫様枠ではなく、最初から最後まで強くあることで本作のメインテーマをエピローグまで引っ張っていっている。
世界設定やキャラクターの芳醇さだけでなく、ヤクザ映画の文脈を汲んだバイオレンスシーンも濃厚で、人間臭さと哀しみのユーモアにも溢れており、全編を通して7時間ほどあるのに眠くなる箇所が全くと言っていいほど無い。
かといって両手放しに「面白い! 最高! みんな見て!」と言ってしまうと嘘ではないが罠を仕掛けている気分にはなる。「名作」や「怪作」、あるいは「原作のエッセンスを見事にリブートした作品」とありきたりのラベルを貼って片付けてしまうのは勿体無い。
料理で言えば「ブデチゲ(韓国の軍隊発祥と言われるソーセージやチーズの入った辛味の効いた寄せ鍋)」に近い。
一つの鍋にめっちゃ好きな具材がドカドカ入っていて締めの辛ラーメンまで旨くて満腹だが、振り返ると全部ジャンクじゃん! という感じだ。
それに、慟哭に溢れている。
お勧めするとはいえ、7時間ほどの長編。映像に表された全ての要素に注目し続けるというのは疲れるので、初見であるなら特にブラックサンとシャドームーンの「50年越しの青春との決別」として観るのをお勧めする。
その次は是非ビルゲニアに注目してほしい。これはハリーポッターを全部観た後に、スネイプ先生視点で観なおすのと同じ感じだ。って、そんな勧め方ある?
俳優陣の好演
内容に入る前に、俳優陣について触れておきたい。っつか、どの役者も上手い。映画は俳優の演技によってその世界への没入度合いが変わるものだが、視聴者の世界と作品の世界が、半分くらい地続きに感じられつつ、残り半分をしっかりとしたファンタジー、怪人や仮面ライダーが存在する世界として魅せてくれる。
主演の西島秀俊、中村倫也はもとより、葵役の平澤宏々路がそれに負けない演技でラストシーンまで目が離せない。
ゴルゴムの上級怪人、政府要人、仲間たち、市井の人々……。1972年パートも含めて、全てこの世界に生きているという質感が醸されている。
ぼくは、映像作品の面白さは俳優で担保される割合が大きいと思っていて、少なくとも本作はそれのみでもお勧めできるほどだと思う。仮面ライダーファンでなくても、気になる俳優が一人でもいたらそこだけでも見てほしい。
欲を言えば、そこだけと言わず、第10話まで見てほしい。
思想のテンプレ的社会描写
本作は、舞台設定としてポリティカルなモチーフが敷かれていて、人種差別、学生運動・学園紛争、政治腐敗・陰謀論を背景に強く感じられる物語になっている。
ノンポリが直視しづらいセンシティブな題材を織り込んでいながらも、作品そのものが左傾化しているかというとそうは見えない。「差別をする人たちってこうだよね」「学生運動をコミュニティのレジャーとしてやってる時代だったよね」「悪徳政治家のいる劇ってこういうものだよね」というイメージを様々なモチーフを混ぜこぜにして映像にしている。
主人公である南光太郎がタイトル明けに食事をしているのはホルモン屋。半地下のシチュエーションは韓国のヒット映画『パラサイト』を彷彿とさせ、俊介の住む家は韓国物産店を営んでいるなどコリアンタウンを思わせる。
ところが、国内の韓国・朝鮮差別を下敷きにしているかというと、本作で想起される差別はどちらかというとアメリカの黒人差別だ。
デモ行進時に掲げられるプラカードがBLMに似せてあり、デモ中に激昂した怪人が警官によって射殺されたことや、警官が怪人を確保する際に息ができないという訴えを無視して押し付けているなどは実際に報道された海外の事件と重なる。
主要人物のオリバー(牧師)とその息子ニックは黒人を想定して配役されている。
劇中社会で差別の対象となっているのは怪人だ。だが、虐げられる存在は怪人だけではない。
悪徳総理大臣視点で「生活保護者、独居老人、子供を作れないLGBTQ」が名指しされ、そういう者は怪人への改造やヒートヘブン(怪人の食糧。覚醒剤のメタファーでもある)の材料にするとナレーションで語られた上で、投獄されている描写まである。
このあたり、昨今ネットで極論されがちな優生思想や話題となった政治家の失言を極端に翻案した映像と言っていい。政権与党と互助関係にある票田組織なども最近の社会的トピックに近しい概念だ。
それらは何らかの現実の事象を一対一で当て擦り(パラフレーズ)にしているのではなく、多くの人がバラバラに持っている社会問題のイメージを最大公約数的に喚起するのに使われている。
オマージュされている全ての事象・事件を知らなくてもこれが何を描いたものなのか、ほんのりとわかるはずだ。
怪人差別が蔓延する社会
本作の「怪人」概念は独特である。従来の『仮面ライダー』シリーズにおける怪人は一般人より遥かに腕力が強く、特殊能力を持ち、仮面ライダーが必殺のキックを放たなければ倒せない脅威だ。
だが、本作で人間社会に溶け込んで生活している下級怪人は弱い。
冒頭でデモ中の小競り合いから変身したハエ怪人は警官によって射殺される。1972年のシーンでは人間が仲間をやられた報復としてサイ怪人を吊るして殺す。後の現代シーンでは俊介(スズメ怪人)がリンチに遭った後に吊るされる。
これらはビリー・ホリディの『奇妙な果実(Strange Fruits)』で表された、差別を受けて殺された者の姿に重なる。
人の姿をとって社会に溶け込んでいたとしても、独特の臭いで指さされ、違うものとして区別される。
視聴者からは明確に違いがわからないのだが、スクリーンの中の人間は、自分たちと怪人の違いを見出して差別心を剥き出しにする。
そもそも戦争兵器としての期待から改造されたのが本作の怪人だ。戦時中は改造人間を略したと思われる「改人」の呼称が使われていたが、おそらく「怪人」とすることで蔑称に堕したのだろう。そういう所からも差別は発生するべくして発生したものではないのかという疑念が湧き上がる。
さらに、ゴルゴムの一員として活動できない役立たずや、怪人オークションでも売れない者、人間と交わって生まれた二世たちを下級怪人と位置付けてヒエラルキーを形成していると察せられる。
ここに社会を包む欺瞞がある。
人間側の差別主義者たちはおそらく怪人全体から人間が受ける暴力的な脅威を感じていながら、数が多く弱い下級怪人たちをターゲットに差別運動・ヘイトスピーチを展開していると考えられる。
劇中の50年前に「ゴルゴム闘争」があったとされているが、光太郎や信彦の関わった以外で、大規模な暴力事件があったりしたのだろう。
そういった歴史の傷跡を引き摺って、現代の怪人差別に繋がっていると考えるのが自然だ。
それに被差別者である怪人がヘイトスピーチや挑発に乗ってしまい先に変身して暴力を振るう構図が多い。
終盤でリンチに遭ったスズメ怪人(俊介)も決して無垢ではなく、直前に爆破テロ活動を行っただけでなく、警備員の銃を奪って人間を殺している。
デモ隊も、怪人側は当初は「差別をやめろ」に終始していたが、差別側は「怪人に親を殺された」など振るわれた暴力への抗議が含まれていた。
次に怪人側は劇中で射殺されたハエ怪人の弔い合戦的なデモ行進へと変わるが、描かれた参加者はレジャー感覚で雑談しながら歩いているように映されている。
こういった非対称性やレジャー感も状況を読み解くキーになっている。
あまり現実になぞらえすぎるものではないが「抗議活動をしている人々が真面目に見えない」ことが揚げ足取りのように世間の話題になったことを思い出す。
映像中での下級怪人は腕と顔が動物然としているだけで、見た目はハロウィンのコスプレのようであるが、これは記号と考えて良いだろう。
映像としてもっと嫌らしい表現をしようとするならば、下級怪人は人間に近いが常時表皮や体毛が動物的で、上級怪人は動物そのものの正体をしているが人間への擬態(変身)が完璧、という棲み分けになると思う。
このあたり、コウモリ怪人が人間の皮を首の下あたりに残しているのは「どっちつかずのコウモリ」というパブリックイメージ、劇中でどちらの陣営にも顔を出して生き永らえる処世術をデザインでも示しているといえそうだ。
差別主義者(ヘイター)たちが「差別ってのはですねぇ 人間が 人間に対して 行うものなんですよ!」と拡声器でがなり立てて、怪人差別は狭義の差別ではないというレトリックを展開するが、結局怪人は人間を改造したものだったので……。
終盤での、怪人の出自が人間であり兵器として企図されたものであるという事実の公表は、劇中世界で“同族”意識を高める結果になったのだろう。
エピローグ部分にあっても庶民レベルの怪人差別は遍在したままだが、怪人への直接的な差別運動は弱体化し飲み屋の客にも眉を顰められる存在へとなりつつある。
ショッキングなことに、差別主義者集団が新たに標的にしているのは「外国人・移民」である。
被差別属性が善かれ悪しかれ権力の庇護を受けオーソライズされると、それはもうマイノリティではなくなってしまう。結局人間が叩く相手というのは、さらに弱い者、拠り所の薄い者なのだ。
(逆説的に、被差別者がいつまでも被差別者でいることの特権を得続けようとしたら、権力による庇護を受けない程度で差別反対運動を留めておく必要がある)
こういったリアルとフィクションの距離を持って、本作では差別とは何であるかが語られる。他の学生運動などの社会描写も同様である。
学生運動に参加したノンポリのレジャー感
第2話からフォーカスされるのは、学生たちの闘争。内ゲバ、総括、粛清。
学生運動や学園紛争といえば'60年安保闘争だが、本作では架空の1972年となっている。これは昭和の仮面ライダー放映が1972年であるところをなぞっている。
ゴルゴム闘争と名付けられた時代。
反人間・怪人の解放を謳い、その後「五流護六」となるセクトで同郷のビルゲニアによるアジ演説会が開かれており、そこへ信彦と光太郎がやって来る。
「暴力に訴えるのは好きじゃない」と言って会場入りしたのに、二人はこの時代のドラマでキーとなる新城ゆかりに惹かれるものを感じ、流される形で加入。
政府を交渉のテーブルにつけるための人質として、時の総理大臣堂波道之助の孫(真一)を攫い、「怪人の処遇改善について」すなわち生存権を交渉するダロム、ビシュム、バラオム。
堂波はすでにその程度のことは許容する算段ができており、それ以上に怪人たちが政府の役に立つように提案し、政府の手にかかれば怪人など絶滅できると恫喝をする。
後に怪人のルーツは戦時中における堂波の計画にあったとわかるが、いずれ怪人たちの反発があることも織り込み済みで用意周到に進めておいたのだろう。
その後「五流護六」は人間に従属することを良く思わないビルゲニアらと意見の対立で割れ、政府のスパイであったゆかりの思惑もあって、その先に怪人の未来があると信じ、根拠の薄い行動を正当化しながら進んでいく。
結局、信彦と光太郎はゆかりに絆されてキングストーンを渡してしまい、創世王を抹殺しようとした咎でゆかりはビルゲニアに斬られ、信彦は捕えられ、光太郎は創世王に返り討ちに遭って敗退し、オリバーがゆかりからキングストーンを奪って行方をくらませる。
ここに至るまでの描写、時代の空気感、本人の体感に根差さない大義、行き当たりばったりの方向転換……。伝え聞く学生運動セクトのありがちな姿と見事に重なる。(ツラのいい女性活動家にノンポリが絆されて、わからないまま思想を振りかざす姿も)
これは現代パートでの怪人解放デモや怪人撲滅デモに参加している人々のノリにも通じている。どれだけ当事者意識で参加しているものか。
最近も、政治的に利害ある土地での抗議活動に参加している者たちがその土地の人間ではなく、活動のためだけに各地から集った人なのではないかという話題があった。
映画の製作期間などを考えると、直近の政治的な話題を下敷きにしたとは考えにくいが、だとすると完全な創作あるいは「よくあること」なのだろう。
「よくあること」になってしまう人間の本質。人は、若者は、そのエネルギーの行き場を、大義が正当であるか欺瞞であるかには関係がなく、コミュニティ活動に求めてしまうところにある。関係がないどころか興味がないのかもしれない。
1972年から50年経ち、創世王の生命力が弱まっているところから種族としての存亡が掛かり始める。これも欺瞞であって、創世王が代替わりをせずに朽ちたところで、怪人たちが一気に滅亡するというシステムは無い。
創世王エキスの枯渇やヒートヘブンの供給低下は堂波のサイドビジネスを脅かす。その堂波に寄りかかって保っているゴルゴム党は、怪人たちにとっての教義的シンボルを失うことになる。
終盤で、秋月博士が語るところにより創世王はそもそも神的な存在ではなく言うなれば偶発的に成功した怪人第一号でしかないとわかるのだが、その種明かしを知るほどに、こういった教義的シンボルの存在はコミュニティにとって大きく作用するものなのだと感じさせられる。
故に、50年経った現代で再び内ゲバと粛清が始まる。組織の姿形は変わっても、あの時代の精神性は変わらない。
シャドームーンにより再結成されたゴルゴムで、バラオムは他の上級怪人たちからナイフを背に突き立てられ粛清される。
これなどは総括において忠誠と信用を試すカルト儀式的側面を演出したものだろう。同胞を殺める共犯者となることで結束を固める。こういう地味にエグい描写は「人間の嫌なところ」を際立たせる。
たのしい政治陰謀黒幕論
戦時中、堂波道之助は戦争兵器として改造人間すなわち怪人を生み出した。戦時中の人体実験は第731部隊(知らない人は戸山人骨でググってください。ぼくの母校の裏手から発見されたのです……)になぞらえることができる。
1972年には学生運動のセクトからの提案に応じると見せかけて怪人たちの生殺与奪を握り、二世も増えた現代では道之助の孫である真一が創世王を支配下に置くことで、怪人を票田としながらも人身売買や麻薬売買のサイドビジネスに利用している。
1972年時点での怪人票20万票は、それだけで全国区で大勝できる規模ではないが、他の野党と競り合った場合に「民の党」に上乗せすると勝てる選挙区は多いということなのだろう。
怪人たちを「創世王を崇め拠り所とする宗教」と捉えれば、互助の関係をもって支援団体とするのは聞いたことのある話でもある。
当時は現在の小選挙区制と違って中選挙区制のため「族議員(利害団体に推される議員)」が多く、そこから頭角を表していったのがダロムたちゴルゴム党の現在と考えられる。
答弁の場で、野党からの質問に総理である堂波真一はのらりくらりと答えにならないことを言い、そもそも民意で社会は作られていないと嘯く。その傍には官房長官と幹事長。役者も現実の政治家に寄せた演技をしている。
終盤で野党が示す資料は、視聴者である我々はそれなりに根拠があるものとわかっているが、あの世界の人々からしたら活動家の小娘が出してきたものを鬼の首を取ったかのように嬉々として使っている野党ということになる。エビデンスに弱い野党、どこかで見たことがある景色だ。
いずれも現代の与野党政治家のパロディになっている。この辺りは舞台美術にまで及んでいて、商店街にはご丁寧に「美しい祖国を取り戻す」スローガンの書かれたポスターまで貼ってある。
差別問題と同様、現代政治の様々な部分を引用したりパロディにして繋ぎ合わせているが、投影されるキャラクターとしてはとんでもなくフィクションだ。
堂波真一は就任後にビルゲニアを解放して”飼い”、キングストーン奪取のためにオリバー襲撃に立ち会ったり、怪人オークションの利益を懐に入れていたり、捕虜の檻へ行き怪人化する素体を選んだり、暴力的な場面に姿を現すことに躊躇が無い。ゴルゴムでクーデターが起こったと報告に来たビルゲニアをなじって何度も蹴りを入れるシーン、こんなにバイオレンスな総理がいたらヤバい。
そして堂波が信彦へ「お前たちは莫大な予算を掛けて戦争の兵器として生み出された無敵の国民だ。全て政府に用意された作り物だ!」と明かすシーン。悪役のネタばらしほど不快と虐待的なカタルシスを同時に感じるものはない。
視聴者にとって悪はいずれ成敗される道理とわかっているからこその感覚ではある。
この悪役は、立小便のあとコウモリ怪人とコオロギ怪人に襲われるという末路を辿る。みじめで惨たらしくもあっけない死は、相応しいものだろう。
ただ、悪辣な総理大臣がいなくなったところで、それほど社会は変わらないというのがこの作品が突いてくる痛い箇所だ。政権は解散総選挙で再編され、怪人たちは一定の権利を得つつも引き続き差別され利用され、やはり人間同士の間で差別は続く。
キャッチコピーの『悪とは、何だ。悪とは、誰だ。』にあるとおり、生活圏内に見える悪というのは、わかりやすく形をとっているものが全てではない。
Long Long ago, 20th Century
本作の舞台設定については前述したので、ここでは注目のキャラクターについて掘り下げていきたい。
1972年で時が止まっていた信彦
主人公である南光太郎とともにこのストーリーを暗く少々湿った雰囲気で最後まで引っ張るライバル秋月信彦こと、シャドームーン。
本作の予告編でも使われたシーン。デモ隊同士の小競り合いに信彦が駆けつけ、演説をぶつ。これは後になればなるほど50年前を忘れられない故の行動であることが際立つ。
もっと言えば、ゴルゴムを抜け出し散髪も済ませてヒゲも剃り、ご丁寧にかつての同志が集った学舎に思いを馳せてから「よーし、オルグっちゃうぞー! 俺の青春っ!」とばかりに車のボンネットに立っているのがわかる。
秋月信彦(シャドームーン)は50年にわたって幽閉されていたが、心は1972年に取り残されてしまっているのだ。
昔のように若者を集めて組織し、闘争を繰り広げる。
創世王の殺害を目論み、ゴルゴム党へのテロに及んで捕らえられ、堂波に真実を聞かされ、敗走した先で自軍の全滅を聞かされ、失意の中で立ち寄った商店街では戦闘から逃げ延びていた俊介がリンチに遭って吊るされた現場を目撃する。挙句、怒りから差別主義者の一団の前に現れ首謀者の井垣を殺害する……。すべて行き当たりばったりの、50年前の再演である。
南光太郎の黒バッタから仮面ライダーへの変身は、怪人にされた葵を目の当たりにして、生きとし生けるものの自由のために戦う決意から行われた。
だが、秋月信彦の場合は、差別を行うだけでなく同族とも殺しあう愚かな人間共と袂を分かち、徹底して人間を支配する怪人側の首領となって戦う決意である。
しかし、それでも辿り着いてしまう場所が「五流護六」だというところに、彼の悲しさがある。どこまでも50年前の居場所を、その再現を求めているのだ。
それなのに、当時からの付き合いであるビルゲニアを追放し、ダロム、バラオムといった同胞を粛清して居座る姿には、滑稽さすら感じる。
信彦を止めるためゴルゴム党に乗り込んできた光太郎は、信彦と拳を交えながらも、キングストーンを埋め込まれた互いの出自を問う。
「争わない俺たちだから選んだ… そう思ったら…ダメか?」
その言葉に耳を貸さずに決着がついた後、信彦の脳裏によぎるのは学生運動時代。皆で写真を撮った、いちばん楽しかったその瞬間だ。
「この世界は…本当に変わるのかな?」
「そのために何をすればいいのか まだ何もわからないな」
「しょうがないよ 私たちは誰も特別じゃない」
「遺したものを誰かに受け継ぐだけの―― 歴史の通過点だから」
光太郎はその次へと「受け継ぐ」ことを実践しようとしていたが、信彦はモラトリアムでいたかった。
そのことが次のように吐露される。
「もうみんな居なくなった ゆかりもオリバーもみんな居たんだ… ダロムも ビシュムも バラオムも ビルゲニアも」
「光太郎… 俺は…あの頃に戻りたい」
そして信彦は体内のキングストーンを取り出して光太郎に託し、絶命する。
参考まで。原作のエンディングテーマは『Long Long ago, 20th Century』である。二十世紀は遠くなりにけり、といったところか。
同じく原作挿入歌の『俺の青春』の内容とともに、本作における信彦の心情に呼応するところがある。
シャドームーンは主人公のライバルとして申し分ない強さを誇ったが、大量に人を殺めるまでに一貫していた行動の源泉が「青春に囚われていたから」というのは、矮小というべきか、人間臭いというべきか。
それ故にここでも「悪とは、何だ。」が首をもたげる。
嗚呼、ビルゲニア!!
本作の序盤から暴力的な振る舞いでインパクト十分なビルゲニア。
原作では仮面ライダーブラックやシャドームーンに並ぶ素質はあれど、生まれたタイミングが悪く世紀王として認められなかった上に粗暴だったので3万年にわたって幽閉されていたという曰くつきの強敵だ。
本作でのビルゲニアは、光太郎と信彦と同郷で彼らより少し先に怪人となったのだろう。古代甲冑魚がモチーフというところからも、古代生物繋がりでダロムやビシュムと同時期に改造された線も考えられる。
少年時代の光太郎と信彦が青い水(創世王エキス)の効能について「ビルゲニアの兄ちゃんが言ってた」「だから信用できないんだよ」という会話をしていたあたり、おそらく信じ込まされた「500万年におよぶ怪人の歴史や逸話」を大げさに友達に語ってしまう子供だったのだろう。
創世王は神だと言って憚らず、1972年では新城ゆかりから創世王を守る剣だと言われたのを真に受けてサタンサーベルの所持者となり、その務めを熱心に果たすようになった。
創世王の前では礼を欠かさないし、「創世王様、しばしのご辛抱を」「ここんとこ時間があると創世王に祈ってる」などのセリフからもその真摯さが伝わってくる。
堂波道之助がセクトとの交渉において、創世王を預かり怪人たちをいずれは戦争の道具にするという恫喝に対しても、屈することを良しとせずに警護を虐殺。
その後は内ゲバの中でゆかりを斬ったことから、創世王を殺そうとしていた秋月信彦とともに捕らえられ、堂波の孫の真一が総理大臣に就任する2003年まで幽閉されていた。
ビルゲニアは怪人側で人間の命を容易く奪うキャラクターとして作られている。差別される下級怪人と一線を画しているのはこれに依るところが大きいだろう。怪人は人間にとって脅威なのか差別対象の弱い存在なのか、この線上にいる。
現代では人間を怪人化するのにも躊躇がなく、改造担当者のノミ怪人にも当たりが強い。人間が怪人に改造される際の表情や叫び声がたまらないというヒールっぷりを発揮。光太郎や信彦と再会し、一戦交えて腕をもがれても、そのふてぶてしさは変わらなかった。
だが、創世王の存亡をかけたゴルゴムの内紛で、頂点に立った信彦から「人間の匂いが染み付いている」と追い出され、堂波には役立たず扱いされて居場所を失っただけでなく、怪人として強力な葵にも戦闘力の差を見せつけられた。
その果てで、彼にとっての存在理由を決定的に失わせる出来事に直面する。
それは秋月博士から語られた「創世王に意思は無く新たな怪人を生み出すエキスを垂れ流すだけの存在である」という告白だ。
怪人改造手術の担い手であった秋月博士ですら創世王は作られた概念でしかなく不要だと考えていた事実。
これまで創世王の守護者としてサタンサーベルを携えていたビルゲニアの心は、完膚なきまでに打ち砕かれてしまう。
レゾンデートルを失ったビルゲニアは葵に「いつでも殺せる」と言われながらも、肝を据え、葵の親が死を賭して運んできた人体実験記録フィルムを葵に託す。
葵の行く先は、ブラックサン、クジラ、コウモリ、ノミといったゴルゴムを抜けたメンバーの根城であった。
これまでの経緯から一人疎外感を覚えながらも、彼らがブラックサンの蘇生を遂行しまばゆい光に包まれるのを見る。あの輪の中には居られないと感じたことだろう。
最後は、国連スピーチで堂波に関する陰謀の暴露配信をしている葵を守るため、送り込まれた特殊部隊との大立ち回りを繰り広げる。
ここまで、ビルゲニアは1972年から造反と変節を繰り返しているように見えるが、創世王を信じ、怪人が迫害されない世界を見て行動していたという点で、信念に背くことのない「忠臣」であり続けた。
その散り際として、第9話の特殊部隊との戦闘は、ラフ・ファイトながら(本作の全部がケンカバトルといえばそう)本作におけるベストバウトかもしれない。
人間側の隊長として、これまでデモ行進に立ち合ってドライながらも人間と怪人とを分け隔てなく扱っていた黒川が配置されており、使命によって演説を中止させようとしているのも歯痒い。
戦闘中、ビルゲニアは抜けなくなったサタンサーベルを刃を折りとって抜く。眠る時でさえも大事に抱えていた剣をだ。この剣で守るべき創世王は無く、命を賭して守るべき怪人の未来がある。
根性で黒川を追い詰めるが、包囲した隊員たちが放った数多のワイヤーに貫かれて身動きが取れなくなったところを、至近距離からの射撃で硬い装甲を撃ち抜かれ、血を吐く。
葵のいるバスににじり寄る黒川を最後の力を振り絞って討ち取り、激闘の末、屍で埋め尽くされた地に仁王立ちで命を終える。
本作の製作者インタビューで事前に「ビルゲニアと向き合わなければならない」というコメントが出されており、当時は「そんなのあるかい!」と笑っていたが、ここまで生き方に向き合わされるキャラクターになるとは思わなかった。
顔だけ露出しているスーツも、原作どおりというには他の怪人とまったく違うおかしさを通り越して、表情が窺い知れる良いデザインに思えるから不思議だ。
それなりにリアリティのある世界設定の中で、若干ファンタジーな「サタンサーベル」が名称とともに原作とほぼ同じ形(刃だけ軍刀のように反った形状に改変されている)で用いられただけでなく、葵と創世王(光太郎)との決戦兵器として用いられたのもアツい。
柄が無い状態だとドスにしか見えなかったけれども。
ビルゲニアは、信彦と違って50年前に留まることも、光太郎のように受け継ぐべき輪に入ることも、ましてや自分から変わろうとすることも、できなかった。
忠臣であることでしか生きられなかったのだ。この不器用さ。強いのに不器用、そして仁義。ヤクザ映画ですかこれは。
葵の受け継ぐ者としての強さ
本作のヒロインである和泉葵は最初から最後まで強い個人として描かれている。怪人が団体であるのとは対称的で、強い個人とはヒーローの条件でもある。
その強さの積み上げ方、不幸の積み上げ方が念入りで、冒頭の国連スピーチで人間の立場でありながら「人間と怪人の共存を」とスピーチをしてクラスメイトに祭り上げられていた軽さが、クモ怪人に襲われ、アネモネ怪人に養母を殺され、父親を怪人にされた上で喪い、母を殺され、自身もビルゲニアの罠によってカマキリ怪人にされ、ゴルゴムに攫われてキングストーンの記憶を読まされ、ボーイフレンドはテロリストになって人間を撃ってしまい、その彼も人間たちからのリンチに遭って吊るされてしまう。
これだけ不幸を重ねられても、自身の境遇を受け入れて人間と怪人との共存を諦めることなく、怪人の力をものにしてビルゲニアをも圧倒し、退け、彼をいつでも殺せると豪語し、守らせ、南光太郎の復活を支えるまでになった。
精神的にも強い葵は、光太郎の復活に際し問いかける。
「負けた人から何を受け継ぐの?」
「敗北の意味だ」
そう教えられ、国連スピーチでは自ら怪人であることを明かした上で、怪人が80年近く前の戦争で兵器として人体実験を受けた者であることを暴露した。
葵が重ねてきた不幸は「人と怪人」そして「敗北・死」にまつわるものであり、これら全てを受け継いだということの表れでもある。
葵の母が「怪人になっても死ぬわけじゃない」と伝えたことの強さ。生き続けることのみが敗北から己を遠ざけるという信念の強さ。
これだけの強さがあるキャラクターは、同時に説得力をも持つ。
これまで書いてきたように、本作はそこここに社会問題の片鱗を感じさせる作風だが、メッセージとしてはバスからの配信演説が最も強いものだろう。カメラワークも視聴者に向けて葵が語り掛けているように強調されている。
差別は受ける側が戦わなければならないもので「差別は間違いなくそこにある 差別は誰かの生きる意味を奪う行為だ 生まれてきた喜びを奪う行為だ」と葵は説く。
場合によっては怪人による共存演説なぞ、差別主義者を差別する側に回った、と受け取られてしまうだろう。
だがそれだけの覚悟をしても、配信演説を終えバスを出て周囲を見渡すと数多の屍が散らばり、親の仇であるビルゲニアも絶命している有様だ。
理想と自身が説いたはずの「共存」が覆される光景が広がっていたわけだ。その先には殺し合いしかない、と。
エピローグで少年少女によるゲリラ戦闘部隊を率いている姿には賛否両論や疑問がつきまとうものだと考えられるが、敗北と死が結びついている以上、暴力が依然として存在し悪の蔓延る世界では、戦い続けなければならない。
奇しくも新たに総理大臣となった仁村が中継で述べたことと一致してしまっているのは、因果というには哀しいロジックである。
さて、作中の世界で中庸でいるのは難しいが、独特のノリで生き永らえたキャラクターもいた。
ヒーローになりたくてなったニック
ニックは、不器用で生きづらい登場人物が多い中で特異なキャラクターといえる。世渡りが上手く、怪人に投げ飛ばされたりシャドームーンに足蹴にされてもタフに生き延びる。
情報屋としてゴルゴムに乗り込み、友人である葵を裏切り、裏切ったことを「アイムソーリー、その節は」でしれっと謝り、最終的には念願の怪人となって親オリバーの仇である堂本真一を暗殺した。しかもカラっとした態度で。
幼少期にオリバーが襲撃に遭った際、ショッカー人形と怪人人形を戦わせて遊んでいたところからも(作中で仮面ライダーが放映されていたとは思えないが)怪人が持つ暴力への憧れが少なからずあったように思われる。
目前でビルゲニアによって父のオリバーが打ちのめされたことに対しても、力さえあればと考えたに違いない。
光太郎がバッタ男からブラックサンへと変身するのを目撃し、ニックはこの時「さらに変身するの!?」と興味と歓喜の入り混じった声を上げているし、怪人ヒーローへの思い入れは人一倍ある。
処世術についても、登場時から陽キャでコミュ強であることを全く隠さない。それは葵との喫茶店での会話やゴルゴムでビシュムとバラオムに会った際の物怖じしない様子に見てとれる。
光太郎を匿った際に、焚き火を囲み、コウモリの語る酔っ払いの武勇伝に「まじすか ヤベェっすね」と適当な相槌を打ってニコニコと流しているのも、最近の若者っぽい。
こうした役割を黒人キャラクターに与えて活躍させるというのは、人種差別の問題を敷く本作において、相当に皮肉なものにも思える。
そういった深読みも含めて本作の味といえる。
仮面ライダーとして見ると…
変身ベルトとキングストーンって結局は何?
オタク同士での論議は別として、仮面ライダーの記号は一般的に「変身ベルト」と「ライダーキック」と「バイク」だと思われる。次点で「バッタ(イナゴ)」と「マフラー」だろう。
けれど本作は「変身ベルト」と「バイク」についての説明が全く無い。
1972年でアジ演説会場にバイクで乗り付けた光太郎と信彦だが、この二台には原作同様バトルホッパーとロードセクターという名前がついている。そのへんで売っている乗用バイクとは随分形が違うし、バトルホッパーに至ってはもろにライダーの顔を模した意匠が施されている。しかし説明は無い。
出身の村から出て都会の大学へ入学する際に、前途有望な二人の足として与えらえたものかもしれないし、若者の趣味の一つとしてバイクいじりをしていたのかもしれないが、これは想像の域を出ない。
それよりも深刻なのはベルトだ。なぜ出てくるのか、いつから出るようになったのか、機能は何なのか、ブラックサンとシャドームーンのベルトの違いは何なのか、まったくわからない。
作中に出てくる改造人間に関する極秘文書にはベルトのスケッチが描かれている。写真にもベルトのプロトタイプと思われるものを埋めようとしているものがあったり、手術シーンにおいてもストーンを入れる際にあらかじめ埋めてあった(?)容器のフタを閉じているように見える。
堂波道之助によるコンセプトは兵器としてコントロール可能な強化人間なので、その容器は「自我を失わずに怪人パワーを振るうための装置」だろう。一般の怪人にもそれは埋められているはずだ。クモ怪人、アネモネ怪人、カニ怪人の致命傷が腹部への攻撃だったこともこれに関連しているかもしれない。
ということは、光太郎と信彦にだけキングストーンが与えられていることから考えても、ベルトは容器とは別か、兼ねる形でのキングストーン制御装置と推測できる。
そういう推測をしたところで、キングストーンが体外に出ていても二人は変身できており……。制御する必要なくない?
このあたり、例えば変身ベルトが手術痕に癒着していてゲートとして機能しており、バックルが開くとキングストーンが格納できる、取り出せる、みたいなことだとわかりやすいのだが……。
怪人は誰でも石を持っていると劇中で言及されているので、光太郎と信彦はキングストーン以外に「バッタのストーン」も体内にある可能性がある。
その仮定のもとではあるが、劇中で二段変身を活用してもよかったのではないだろうか。
キングストーンが格納されていないときは変身してもバッタ男どまりで、キングストーンが入ってはじめて仮面ライダーになることができれば、わかりやすい。
あわせてバッタ男のステゴロ喧嘩ファイトから、ライダーパンチやライダーキックを駆使したスタイリッシュなファイトに変化するとヒーローっぽいかもしれない。(オタク的願望です)
おそらくこういったニチアサ(日曜日の午前中に放映されているヒーロー・ヒロイン番組)的ギミックは、本作がベルト玩具をそこまで販売促進しなければならないという性質のものではないので、解説されなかったのであろう。
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なお、お値段がかなり「大人向け」の自動開閉ギミックを備えた本作登場の変身ベルト『世紀王サンドライバー』がプレミアムバンダイにて絶賛予約受付中。ぼくは躊躇なく予約しました。
物語のキーとなっているキングストーン自体も、特別な働きをする理由がわからない。不思議アイテム、キングストーン。
「創世王」は単に改造手術に成功した第一号怪人につけられたあだ名みたいなものだったわけで、次期創世王を名乗るのに何らのアイテムは不要のはずだ。
その割には不思議パワーでダロムやビシュムを拒絶(ビターン!)するし、葵には石の記憶をビジョンとして見せたりもした。一体何なんだ?
キングストーンが無いときでも光太郎や信彦は変身してしまうし、考えてみれば「根拠はないけど創世王と同じように月蝕とバッタでやれば何とかなるんじゃ!?」ってノリで信彦と光太郎にキングストーン埋め込み手術をしていたようにも見えてきたな……!?
オタク的に変身ベルトやファンタジー由来のパワーは劇中の超科学で構わないから、何らかの理由づけをしてほしいな〜、と思ったところである。こうやって考察をするのも好物だといえばそうなのですが……。
本作の仮面ライダーはどういうヒーローなのか
さて、本作は悪を様々な姿で浮き彫りにしているが、何が正しいかということからは相当に距離を置いている。
例えば、人種差別はすなわち悪だとわかるが、差別主義者のスピーチ以外に彼らの善悪観についての経緯や理由は開示されない。
それらを説明してしまうと、「差別主義者視点での悪」すなわち「怪人=暴力的な被差別者」という概念が立ってしまうからだと思われる。
昨今、「正義の反対はもう一つの正義」が物語られることが多くなった。暴力の姿が見えていても「やられる側にもやられるだけの理由がある」という類の屁理屈が大手を振ってまき散らされる。さらにはその屁理屈を自然なものとして受け入れている土壌がほうぼうに残っている。
暴力に正義など無いと考えると、仮面ライダーはそもそも正義ではないのだろう。
あるいは、暴力にも正義があるというファンタジーでのみ成立するものなのだろう。
そういった観点に立つと、本作の仮面ライダーすなわちヒーローは、シンプルに「悪に対峙する者」や「その立場での自由のために戦う者」であって、「滅ぼすことで世界平和が訪れる記号的な組織」が登場しないのも頷ける。
第10話冒頭、原作『仮面ライダーBLACK』のオープニングを徹底的に模した映像が流れる。しかも当時の主題歌をそのまま使用しており、配役やスタッフ表示のフォントも寄せてあるどころの騒ぎではなく、ほぼそのまんまだ。
オタク的には「バッカやろうwww」「やりすぎw」と大歓喜する演出ではあるのだが、これは第9話のラストでブラックサンがキリストが如く復活を遂げ、胸にライダーズクレスト(ライダー固有のマーク)を胸に刻まれたことで、あらためてヒーローである「仮面ライダーブラックサン」として再誕したことを意味する。それにしても凝り過ぎだろ!
原作の話が出たので少し触れておくと、原作版の創世王は「おのれブラックサン 私は必ず蘇る 人間の心に悪がある限り 必ず蘇る 忘れるな!」と捨て台詞を吐いて壮絶な爆死をする。
それに比べて本作での創世王はあまり悪の権化っぽくはない。
人体実験で怪人へと改造をされ、シンボルとしていいように祀られ、木箱に押し込められて拉致され、エキスを抽出され、ビジネスのネタにされるという数十年に亘っての被害者のように見える。
象徴的な姿をもった怪人や悪人のみを果たして悪と呼んでもよいものなのか。
形はなくとも社会の姿が変われば、葵が改造されたように逆の立場に立たされてしまえば、容易に市井の人もそうなり得るのではないか。
第1話から提示されているデモ行進のあちら側とこちら側、現に混ざっていたではないか。
そして差別者と被差別者のラインを跨ぐとき、誰も自覚など持ちはしない。
そんな社会の混沌とした渦の中で、ヒーローは都度、対峙する者として時代時代の悪に立ち向かい、それぞれの決着をつけて通り過ぎていく、去っていくものなのだろう。
劇中の創世王は悪として倒されたようには見えなかったが、エピローグでは明らかに諸々の悪が形を変えて受け継がれ、蘇ることが示唆されて終わる。その悪の概念の中には……きっと葵も含まれてしまう。
エピローグに思うこと
光太郎と信彦の間で決着がついた後、世界と残された人々はさして変わっていない。
総理大臣が暗殺されようが内閣が再編されようが、政治家はむしろ表立って怪人を戦争利用するとして戦争立法をし、差別主義者は矛先を外国人・移民に変え、葵をはじめ怪人たちは武装勢力の組織再編をする。
50年経っても人の本質が変わらないとしたら、すべての闘争と失われた命の意味は何だったのだろうか。
「非暴力では何も止められなかった 何故ならばこの世に悪が存在しているからです」と嘯く政治家。
「悪い奴が生まれる限り 戦うよ」と新しい旗を見上げる、受け継ぎし者である葵。
実はどちらも同じことを言っている。
あらためて、本作のキャッチコピーは「悪とは、何か。悪とは、誰か。」である。
そして、日蝕とは、黒い太陽であり、月の影であり、それは「光を覆い隠すもの」だ。
このエピローグで暗示されるのは「光と闇の果てしないバトル」であり、それは原作の続編『仮面ライダーBLACK RX』主題歌にも記されている。
もちろん本作に続編『仮面ライダーBLACK SUN RX』の報はないわけだが、もしあり得るとしたら「Rights and eXcution(権利と執行)」くらいのこじつけをしてやっていってほしいと思う。
クラウドファンディングや一挙公開について
本作の制作に際してはクラウドファンディングが行われており、特典の『仮面ライダーBLACK 変身ベルト』復刻版目当てで参加したのだが、これだったらエキストラ出演権の抽選がある1番高いやつに応募すればよかったと悔やんでいる。
初報の時点でこんなに印象深い作品になるとは予測できなかったので仕方のないことではあるが……。
一挙公開という手法も、合っていたのではないかと思う。アニメなどは毎週毎週Twitterで感想戦をしながら観る楽しさがあるが、1週間の間にワクワクや期待感のみで過ごせることは稀で、仮面ライダーシリーズであっても「#○○○○反省会」というタグがつけられて文句が書き連ねられるという状況だって発生する。
こと本作は、社会描写、オマージュ、パロディ、不可解な設定……。全体を通して見ないと、作り込みとガバガバの許容ラインを見極めることができないものだと感じた。なので1話ずつの公開には向いていなかったと感じる。
言葉を選ばずに言えば、毎週公開だとド素人のクソ浅読みでTLが荒れる恐れがあった。(←素人差別じゃん。差別ってのはですねぇ 人間が 人間に対して 行うものなんですよ!)
コラボ飲食店の『仮面ライダー・ザ・ダイナー』のメニューも劇中で印象的な「ヒートヘブン」「創世王エキス」「総裁のカツカレー」などがあり、コンビニではクラフトコーラ酎ハイが売られるなど、プロモーションとしてもターゲットを的確に捉えていて、恵まれていたと感じる。
非オタクのための豆知識&ツッコミポイント
さて、本作には『仮面ライダー』シリーズの定番演出や、特撮ヒーローアクションならではのお約束(≒ガバガバ)表現が多数用いられている。ここ二十年ほどの「ニチアサ文脈」ともいえる。
ここではオタクでない人やニチアサおよび原作を履修していない人が、本作を見ていて「どういうコト?」となりやすい、「そうはならんやろ!」「なっとるやろがい!」ポイントをピックアップして解説する。
南光太郎が50年も潜伏していた?
本作での黒バッタ(バッタ男)への初変身時にその波動が三神官にまで届いたことで、南光太郎が生きていた、活動を再開したということが伝わってしまう。
この演出により50年振りに変身したと考えられるが、それまでは序盤での取り立て屋をしているシーンのとおり、変身せずに必殺仕置き人のような仕事をして生活していたのであろう。
変身による波動が遠隔地の上級怪人に伝わる演出は、初回以降無くなってしまう。ニチアサでは序盤で使われていた演出や設定が、一年間の放映のうちに費用やわずらわしさの観点から失われ、後半で使われなくなることがあるが、それに似ている。
怪人名で呼び合っているのは?
本作において、怪人名を通すのは直接改造されたとおぼしき怪人たちの矜持であると考えられる。二世は俊介に表されるように人間の名前を名乗っている可能性が高い。
南光太郎と秋月信彦が怪人でありながら特別な存在(あるいはノンポリ)であるということを示すことにもなっている。
だからといってノミとかコウモリって呼ばれてていいの!?
ダロム(三葉虫)、ヴィシュム(翼竜)、バラオム(サーベルタイガー)、ビルゲニア(古代甲冑魚)だけ恐竜時代っぽい生物なのはの何?
原作においても三神官とビルゲニアのモチーフはこれらであった。本作においては何の説明もないが、おそらく強い改造人間を作るために強い生物を求めた背景があり、化石などからストーンを生成して改造手術が成功した例ということなのだろう。
なお原作ではシーラカンス怪人やアンモナイト怪人も出る。
アネモネ怪人の結界って何?
どういう仕組み、効果かは不明。光太郎はバッタ男に変身できなかったが、スズメ怪人は変身できた。信彦も変身できている。光太郎の変身機構にだけ作用している?
三神官の座を狙っていたほどなので、アネモネ怪人はそれなりに強いのだろう。
カニ怪人だけ泡になって溶けたのは?
昭和の『仮面ライダー』において、人間や戦闘員が溶解されて泡となって消えるシーンがホラー的アプローチとして使用されていた。
『仮面ライダー』シリーズにおいて、カニモチーフの怪人は大抵溶解液が武器になっている。カニが口から泡を噴くことからの連想であろう。
だからといってカニ怪人にだけその演出をしたら特別感が出ちゃうだろ!&ハサミだけ残してヒロインに形見が如く抱えさせてるの何!?
キングストーンって体内から簡単に出せるものなの?
特撮オタクもびっくりです。
なんでダロムもビシュムもキングストーンに選ばれなかった?
劇中で示されている通り、怪人としての力が足りなかったということだが、原作では「世紀王」という概念があり、5万年ごとに創世王が代替わりする際の世紀王(月蝕の日に生まれたブラックサンとシャドームーン)にのみその資格があるとされていた。
だからといって、ダロム「ぐぐぐ…(ビターン!)」→ビシュム「ぐぐぐ…(ビターン!)」って天丼することないだろ!
本作でのビルゲニアは創世王を崇拝するあまりキングストーンを試すことを拒否した。試しても難しかっただろう。原作でのビルゲニアは創世王を受け継ぐという野望に溢れていたが、3万年早く生まれてしまったがために、素質はあったが資格が無いという存在だった。
光太郎のヘルメットに書かれている言葉は?
「BELIEVERS Are JUSTICE」「King of Truth 」と書かれているが、これは原作主題歌の「♪信じる奴がジャスティス 真実の王者」という歌詞をもとにしている。これの対極として、ビシュムが繋がれたバラオムに対して「その時、信じるものが正義よ」と言うセリフがある。
ゴルゴム党に書かれている「5 Streams 6 Protect」って?
ゴルゴム党が1972年のセクト「五流護六」だったことの名残り。
そもそも原作の"ゴルゴム"に製作上無理やり字を当てたのが五流護六なのにそれを英訳したものが劇中の50年後に受け継がれてるって押し通すの、ハチャメチャだな。
怪人オークションでの金持ちや総理が眺めていたカタログは?
カタログに使われている写真は、原作の怪人図鑑のものと思われる。
下級怪人よりはるかにカッコイイ写真が並んでいるが、植物型はあんまり売れないという総理のコメントは、子供たちが怪人図鑑を見て「なんかこの木みたいなやつ弱そうじゃね?」と語る感覚と同じで面白い。
ゴルゴム党内にあった松と竹のある部屋、何?
ダロムを演じたのは中村"梅"雀氏なので「松竹梅」を揃えたのではないかと推測される。(それじゃただの与太話だよ!)
原作のゴルゴムは宗教的な秘密結社で政財界の有力者を取り込んで社会に浸透していた。その雰囲気を出している……? と思われる。また、原作は本作の「怪人が生き残るために政治に与した」とは逆の構図になっている。
ビルゲニアは変身しても顔が出てるのはどうして?
原作においても顔が露出したスーツであった。
怪人態の定義が曖昧な本作だが、序盤で光太郎が金を取り立てていた老人は顔の半分が怪人だったのと、俊介がリンチに遭った際に人間の顔が一部見えていたほか、コウモリの怪人態は人間の皮が垂れ下がっているので、人間の顔が外側か内側かというのも何か法則があるわけではなさそうだ。
創世王が木箱に入れられていたのはなぜ?
オタクにもわからねぇよ! ただ、1972年で学生が用意できる運搬コンテナとしては解像度が高い。体育座りでおとなしくしている創世王もちょっと可愛げがある。押し込められようとした際にキレて念動力使ったりしなかったのかな。
創世王はなんで心臓だけでも動いたりできるの?
本作での堂波セリフどおり、とんでもない「生命力」としか言いようがない。
原作の創世王はバッタの姿ではなく空中に浮遊する巨大な心臓である。本作で創世王から心臓を取り出して吊るしたことにより、原作再現となっている。
ブラックサンが創世王の心臓に手を突っ込んだことで、次期創世王となったが、この仕組みは謎である。生命力を”受け継いだ”ということなのだろう。
ヘブンはどうして生まれた?
ヘブンは、創世王のエキスと人肉を混ぜて加工して製造された怪人用覚醒剤と言える。怪人第一号たる創世王が生まれた後、そのエキスを研究したことから発展したと考えられるが、人肉と混ぜることにした経緯が不明。
例えば、創世王が人肉を食した際に体内で特別にエネルギー効率が良いという観測ができた等から消化中の人肉を取り出して研究し、人為的にその状態を作り出すなんてプロセスがあったかもしれない。だとするとヘブンは創世王のゲロと同じということになってしまうのですが……。
クジラがブラックサンに注いだ液体は?
原作にてクジラ怪人が仮面ライダーブラックを「一族に伝わる秘薬」を注いで復活させたことの再現。本作で復活の原理が一切説明されないため「原作でそうだったから」としか言いようがない。
クジラがブラックサンを運んだ海の住居について、原作では海底洞窟内だったが、そのオマージュのためにわざわざ本作のクジラは潜ってブラックサンを運んだと思われる。ノミやコウモリ、葵とビルゲニアは徒歩や車で到着したのはご愛敬(≒ニチアサのガバガバ感)
ブラックサンとシャドームーンの最終決戦で使われた技は?
つま先が光るライダーキックだけでなく、手をベルト付近に当ててのキングストーンフラッシュ(バイタルチャージ)に、拳を光らせてのライダーパンチ。これらは原作で頻繁に使用された技である。
原作放映時に販売されていた変身ベルトの玩具は、「テレビパワー」と称してブラウン管の発光を受信して自動で回り出すギミックが搭載されていた。これらの技が番組内で発動するときはブラウン管が光ったのだ。
原作続編のRXでは「リボルケイン」という錫杖型の剣を怪人の腹に突き立てる「リボルクラッシュ」という技がある。シャドームーンが脚剣でブラックサンを貫いたり、葵が創世王(光太郎)を貫くのは、その技にも似ている。
葵が終盤で変身した際のベルトは?
不明。葵がベルトで変身する際、平成仮面ライダー第一作目である『仮面ライダークウガ』の変身ポーズを構えてから腕を回すのは「新しい時代」へバトンタッチしたことを示しているのではないかと思われる。
それならそれで『仮面ライダーカマキリ』といえるくらいのスーツデザインをしてほしかった……。
ベルトまわりの小ネタとして、戦時中の改造人間関連資料の中に変身ベルトのスケッチがあり、一瞬だが『仮面ライダーBlack RX』のベルトとおぼしき円形が二つ並んだデザインのものが映る。
ラストで訓練を受けている少年たちも怪人?
最後に葵によってスカウトされた女児は、外国人差別のデモに対して配置されていたので明らかに怪人ではなさそうだ。
少年戦士は原作でも描写があり、最終話付近ではゴルゴムとの闘争で命を落とし、本作同様の十字架の墓が建てられているシーンがある。昭和の『仮面ライダー』シリーズでもライダーとともに悪の組織と戦う「ライダー少年隊」などの概念がある。
それにしても十字架が立ちすぎなので、すでに何度か紛争(テロ行為かもしれない)を繰り返しているとも思われる。
おわりに
戦争や差別問題や政治と宗教の関わりなど、世情と重なって見えてしまう部分が多くなった本作。正義の拠り所を見失いがちな現代において、「悪とは、何か。悪とは、誰か」を考え、話題にする機会を与えてくれたことに、感謝です。ここで擦ることではないのですが、いたずらに反ワクチンを揶揄して日曜の朝に流し、BPO案件となったシリーズがあった直後なので、なおさら……。
それにしても、レジャーで反対運動やってる連中、どうにかなんねぇのかな(←差別ってのはねぇ!)
ありがとうございました。
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