感動ポルノを、BUMPの「ひとりごと」に絡めて考えてみる
感動ポルノという言葉をご存知だろうか。
感動ポルノとは…
…2012年に障害者の人権アクティヴィストであるステラ・ヤングが、オーストラリア放送協会のウェブマガジン『Ramp Up』で初めて用いた言葉である。意図を持った感動場面で感情を煽ることを「ポルノ」(ポルノグラフィ)という形で表現している
2020年には新型コロナウイルスにおける医療従事者への感謝として「コロナ(ウイルス)と戦う医療従事者の皆さまへお礼のメッセージ(拍手)を送りましょう」と自治体やタレントが音頭を取るケースもあり、「感動ポルノ」「全体主義的」だと批判されるケースもあるという
(Wikipediaより一部抜粋)
医療従事者への感謝が見世物かのように消費され、「ありがとう」で済ませてしまっている現状に「あれ?」という疑問が呈されている。
「美談にしているけど、良いのか?」ということだ。
日本では「24時間テレビ」で無理やり感動ものにしようとしている様子も非難の的になることもあったそうだ。
まずはコロナ禍の感動ポルノについて、簡単に整理してみる。
感動ポルノの概要
医療従事者にとっては、コロナウイルスによるマスクなどが足りない状況下で働かなければならない状態が続いていた。
そんな環境が続いているときに、「現場のみんな、ありがとう」といった空気感(扇動も含み)があった。
でもそれで済ませてしまっていて良いのか?
「ありがとう」と言われると、確かに嬉しいかもしれない。通常なら。
ただ医療現場の最前線で汗を流している人にとってみたら、彼・彼女たちにも家族があり大切な人たちがいる。
守らなければならない「最も大切な存在」を「ありがとう」という言葉では養えない。
つまり「ありがとう」という言葉だけで現場に無理強いをさせてしまっていた。
「ありがとう」と言われた方は、文句を言いにくい。
そこに意図的にではないにせよ、「ありがとう」という言葉で現場の声を低コストで封殺してしまったのだ。もっとそれ以前に考えることはあったはずだが、勝手に美談として完結させ、言葉を封じてしまったのはまぎれもない事実だと思う。
極めつけは「ありがとう」と言ったことに「ありがとう」と言った人たちが満足して、勝手に感動して、また感動ものとして「消費」していったことだ。
では、何が必要だったのか?
医療の現場からしたら欲しかったのは「マスク」とか「現場に不足している医療物資」とかだったはずだ。
もっと直接的に言うならば「資金」「お金」だったはず。
医療従事者のボーナスが出なかった、減った、という話も記憶に新しいと思う。
それらを「ありがとう」で済ませてしまった。
「ありがとう」で不満を言うのか。と一方では怒りの声も出るかと思うが、状況が状況だったというほかないし、そもそも感情論で語るべきことではないと思う。
要は「それで済ませてしまって満足だったのは、『ありがとう』と言った側だけだったんじゃないか」ということだ。
一方的な優しさは、他方からしたら抑圧的に映ってもおかしくはない。
BUMPの「ひとりごと」から考える「優しさ」
感動ポルノという言葉を知った時に、ぼくは真っ先にBUMP OF CHHICKENの「ひとりごと」を思い浮かべた。
「優しさ」について触れた歌詞で、今回のコロナ禍の感動ポルノ騒動にも当てはまる部分があると思ったのだ。
一部歌詞を引用しながら話していきたい。
(勘違いしてほしくないが、BUMPはこの歌詞にそこまでの意味を含ませてはいないし、「ひとりごと」は2007年リリースだから関係は一切ない。ぼくの勝手な解釈だ)
ねぇ 優しさってなんだと思う 僕少し解ってきたよ
きっとさ 君に渡そうとしたら 粉々になるよ
ねぇ 君のために生きたって 僕のためになっちゃうんだ
本当さ 僕が笑いたくて 君を笑わせてるだけなんだ ごめんね
人に良く思われたいだけ 僕は僕を押し付けるだけ
優しくなんかない そうなりたい なりかたが解らない
「優しさ」とは「渡そうとしたら粉々になる」。
その「渡そうとした」優しさは「僕のためにな」るからだ。
皆 良く思われたいだけ 自分自身を売り込むだけ
優しくなんかない そうなりたい 僕が一番ひどい
「自分自身を売り込むだけ」――今回のコロナ禍の騒動で、「自分自身を売り込」んだのはまぎれもなく「ありがとう」といった人たちだ。
もちろん「ありがとう」といった彼・彼女たちには悪気がなかったことはわかる。
でもそれは一方的だったのではないか。
「皆良く思われた」かっただけなのではないだろうか。
両者にとって良い優しさ
また一方でこうも歌っている。
ねぇ 優しさってなんだと思う もう考えなくたっていいや
本当さ 僕ら知らないうちに 僕らで作ったよ
二人で出会ったよ
「ありがとう」も形が違えば「優しさ」だったのかもしれない。
ただそれすらも感動ものとしてメディアに消費されるかもしれないが、現場の人間も感謝できればそれは双方の意思が尊重されているから良いのかも。
要はwin-winの関係が出来上がれば良いのかなと。
BUMPの歌詞の意味合いは違うが、両者にとって良い関係が、「優しさ」たり得るのではないだろうか。
ちなみにぼくは、BUMPの「ひとりごと」は、2人以上でなければ優しさすらも考えないし、感じられない、という意味合いだと解釈している。
常に相手の立場を考える。
今回のコロナ禍での医療従事者に対する感動ポルノ騒動は、たしかに一方的な「ありがとう」で、現場の人にはそれだけで無理を強いてしまっていた。
一方で現場では医療従事者に対する誹謗中傷も相次いだらしい。
最前線に立っている人に対して「病院は何をやっているんだ」などの声が、患者から直接言われることもあったようだ。
そしてその対価として、ボーナスはなくなり、「ありがとう」の一言をメディアやSNSを通してのみ行われ、それをさも美談であるかのように伝えられた。
考えなくてはならなかったのは、お互いが何をもって感謝や優しさを伝えるべきだったか。
ぼくらは常に相手の立場にたって物事を考えなくてはならない。
ぼくも自分勝手なところがあるし、無意識に相手を尊重しているつもりが、相手からしたら一方的だと取られてもおかしくはない発言、行動もあっただろう。
一人一人の立場が違うように、考え方、性格も違う。
人は常に「偏見」という名のメガネをかけているということを、ゆめゆめ忘れてはならない。