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「書くこと」「読んでもらうこと」云々
noteを初めて5日。「書く」という行為はしんどいけれど、やはり楽しい。そんなことを改めて感じている。noteは記事ごとのview数が提示され、読み手が確実にいるということを実感できているから、それが書くモチベーションになっているところもある。
そもそも、このnoteを「紫央」としてやろうと思ったのは、私が文章を書いている(書きたい)ことを話して、それを「読んでみたい」と言ってくれた人がいたからである。音声LIVE配信アプリSpoonで出会って、仲良くしてくれている人たちの中にもそういう人がいたからである。
Spoonで出会った人達は、「知っているけれど知らない人」達である。現実に会っていたら仲良くならなかったであろう人達も少なからず、いる。そういう世界線で、「紫央の書いた文章」を読むことに時間を割いてくれる人がいるという事実は素直に嬉しいし、だからこそ、そういう人がほんの少しでも「面白い」と思う文章が思ってもらいたいというところもある。(現実は難しいけれど)
私自身を知る誰かが、私が話す文学やコンテンツの話を「面白い」と言ってくれることは、それがどうしようもなく嬉しい。読んでくれてる「誰か」の顔が思い浮かぶのは、何だか面白いし、ありがたいところである。その人たちが読んで楽しい文章を書いていければなと思ったりもする。(それはとはまた別のベクトルで全く知らない誰かに読んでもらうのもかなり嬉しい。「私の書く内容」自体に興味を持ってもらえたのはかなりの自信になる)
そんな「知っているけれど知らない読者」のひとりが、「承認欲求おばけの憂鬱」を読んで、問いをくれた。
以下の部分の()とはどういう意味がもう少し聞かせてくれないかということだった。
コンテンツを生み出すうえで、「誰かのために何かしたい」と思うことは意外と傲慢なことだよなと思う。その文章に内包されている「(私は)誰かのために何かしたい」の()を忘れて、そこで悩んでいる人も少なくない。
確かにここは文意が伝わりづらい。なるほど、意図することを伝えるのに適切な言葉ではなかったかもと反省した。
ここで伝えたかったのは、本来、自分の意思が起点であるべきなのに「(誰かに求められてるから)誰かのために何かしたい」という他者本意の首輪で雁字搦めになって居る人少なくないなぁということだ。
I メッセージ的に行動するべきなのに、他者に意味性を置いてしまうとしんどくなっている人が多いということだ。「優等生」でいようとすればするほど、心が摩耗していく、そういう誠実で生きづらそうな人を何人も知っている。
私はわりと、我が強くて、プライドが高い、協調性に欠けるタイプだから、もっと自分本位にやりたいことをやればいいのに、だなんて思うからこそ、こんなことを書いたのだった。
ここで、少し脱線して、「アイドル」について書こうと思う。
私は男女限らず、「アイドル」という対象が好きで、よく見るのだけれど、アイドルがコンテンツを提供するアプローチとして、大きく3つに分けられると思っている。
①自分が魅力を感じるものを受け手の求める形に昇華 させるタイプ
②受け手のニーズに即して行動し、そこにあわせてオリジナリティーを出していくタイプ
③そのバランス型
このタイプについての考察とアイドルグループの役割については、長くなるので、また後日語るとして、私がアイドルを見ていて、しんどそうだなと思うのは、②のタイプである。
②のタイプのアイドルは特に真面目で、「自分が求められる像」に縛りつけられていると感じることが少なくない。日本で求められているアイドル像って、「ひたむきにファンのために頑張るスーパーアイドル」だと思う。「ファンの求める像」を追求するプロほど、実際の自分との乖離で自己のコントロールが効きづらくなって、しんどそうだなと感じたりもする。もっと自分本位に生きればよいのになと、これまた無責任に思うけれど、それがそのタレントの良さだったりするので難しいところである。アイドルが楽しくアイドルしてくれていたら嬉しいなと一人のオタクは思うのであった。
そんなことを考える日常である。もっともっと色々と考えていきたい。