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実際嘘もつくけれどもそれとは別に
なんか少し長めの文章にならないかと数日うっすら思っていたけれど、
考えて絞り出したいわけでは無くてもっと思ったことを軽く、気軽く
気持ちの速さと行動の速さを一致させようと思ったら
わたしはよく考えたり、なんかある程度自分なりにうまく完成しているものをとか
しなくっていいんだった
からシンプルに
この頃に思い至ったこと。
いつでも人に対してなんか自分は嘘つきなんじゃないかって感じていて、
実際嘘もつくけれどもそれとは別に、他人と関わる事の詳細な部分についていつでも興味が薄い、目の前の現実的に関わる人の個別の事情に感情的に深く関われない。
いつでも世界が平和に幸福であればいいと思っているんです。
でもそれが今目の前のことと全く直通で繋がっているっていうところがとても弱い。
結果こう人間関係が希薄になりがちであるし、
人と直接対峙している自分が誰なのかよくわからないまま、
なんか合わせたり、なんか柔らかいことを言おうとしたり、マイナスな意味で八方美人的であるなって思ったり、でもなんか違うのかな本音ってなんだろうを実践しようとしてキツい言葉になってこれも違うなって思ったり
結局よくわからないし、黙ることに慣れ過ぎているし、人に対している時の自分は全部自分らしくない、嘘ばかりの人なんじゃないか
嘘ばかりの人じゃないかって思ってきたし、それが悪い自分だって思ってきたんだけれど
この嘘の自分の話は著名人が高額寄付とかして偽善だとか言われることと自分の中ではわりとリンクして、こういうことって自分ではない誰かのためではなくて、世の中により良い行いをする自分でありたいと思うからやることだって考えているし、偽善だって言われてします人に素晴らしいからもっとやれって思っているんだよ。
ではなんでそれを自分に言わないのかい?
興味が薄いっていうベースが変わらなくて無理やりではないのなら、
合わないより合ってる方がいいんだし、キツいより柔らかい方がいいんだって思っているってことは嘘ではないし。
よくわからないままでも、これはわたしだって世の中にとってより良い自分でありたいと思える人間だからこうなのではという肯定的な思いに至った。
至ってよかった。
何年か前に愛着障害という本を読んで大変にわたしは該当者だって思ったこととか、
アイデンティティの確立に失敗しているって思ったりとかしているわたしが思い至りました。
もっともっと楽に生ようと思っている。