人を殺すことば。ヘイトと闘った桜本のオモニ②
前回の続き。
本の内容は桜本でヘイトデモと戦う人々、特に崔(チェ)さんの活動がその中心だ。
崔さんは、桜本にある「ふれあい館」という、在日韓国・朝鮮人をはじめとした人や、多様なルーツを持つ人々が自分を隠すことなくいられることを理念とした、子供からお年寄りまでが相互に支え合う関係を築くためにさまざまな活動をする施設で働いている。
そこでは幼い頃から差別に晒されていた崔さん自身の経験や、親の世代が受けてきたいわれのない差別を受けた苦しみをあたたかく包んでくれるような場所だと感じた。
そんな崔さんは、長年苦しんできたハルモニ(自分以外のおばあさんや祖母の呼称)や息子さん、これからの未来ある子供たちを差別、特にヘイトデモから守りたい一心で行政に法整備を訴える。しかし国は重い腰を上げず他人事のように対応する。
とてももどかしい。なぜ暴力的なヘイトデモが規制できないのかと読んでいるこちらも憤る。
いつの時代も何が正しいのか?を巡って争いが起きる。大なり小なり人はそれぞれの正義があって、それに基づいて行動をしている。その正義が人を救うこともあれば、殺すこともある。コインの裏表のようだ。
ここでは何が正義ということではなく、何が『不正義』なのかが大事だ。
虐げられて、抑圧される人々が目の前にいる。その事実から目を逸らし、どちらも悪いからと中立を装うことは僕には不正義と感じるし、そんな状況は見過ごせない。当時崔さんが国から受けた絶望は計り知れないと思う。
特に行政の腰を重くしているのは「表現の自由」への解釈だった。
ヘイトデモも表現の自由であるという暴論。これを国ははっきりとは言わないものの、ヘイトデモを禁止する法整備を積極的に進めないことから、その行為を事実上認めていることになっていた。
これは法制化に向けた意見陳述の中での龍谷大学の法科大学院教授の金(キム)さんの以下の言葉を受けての一節。
この議論は約8年前の話だが、自分には人種差別撤廃条約に批准しておきながらこんな態度をしていた国に大きな憤りを感じた。それはきっと今も崔さんと同じような思いをして苦しんでいる人たちはいるし、新たに故郷を追われて日本に避難してきている海外の人々にも依然として向けられている根拠のない敵意に対して、国の対応がまだまだ不十分と感じるからかもしれない。
その後崔さん達は、自分の身がいつ襲われるかもしれない恐怖を抱えながら、粘り強く法整備の必要性を訴え続け、それはヘイトスピーチ解消法という形で実を結ぶことになる。
ここで崔さんはヘイトデモを繰り返してきた主催者に対して手紙を送る。
改めて自分と向き合って、対話をしないか?
憎しみの螺旋から降りて、共に生きていくことはできないか?
私はあなたの幸せを祈っている。
多くは書かないが、それは崔さんが常にヘイトデモを行なってきた人たちへ向けてきた「ラブコール」という表現のひとつだった。差別する人たちともいつか分かり合って共に生きることができる。その可能性を諦めない。それは何よりも深い愛がなせることだと思った。
法律というかたちで自分を守ってくれるものができたが、それは根本の解決ではなく、あくまでも双方の理解があって互いを尊重し合い、共に生きるというところへ着地していくことが崔さんが望むものだった。
僕は理想論でもいいからこの姿勢を大事にしたい。
いま行われているガザでの虐殺を見ていると、こうした考えや、対話による解決など理想論でしかないと言われるだろう。自分の大切な人を殺されて正気でいられる人はいない。それでも争いで解決するのではなく、対話やお互いを理解する心を持って、あらゆる差別的なことへNOを突きつけていきたい。理想を語らなくなったらもうそれは感情を失う以外生きていく術がないのではないかと思う。
本は読み終えた。でもまだ足りない。
もしできるなら駅前でヘイトデモと戦うひとと一緒に本を読んでみよう。
桜本に足を運んでみよう。
いつか崔さんを見かけることがあったなら、この本を読んだことを伝えたい。