自由について
(これは2019年に書いた日記です)
前に書いたように、みぃは自由が確保されていないと苦しくて体調を壊すほどのストレスになる人です。
幼稚園に行っていた頃、ふと「お母さん、わたし自由にしてもいいんだよね?」と聞かれたことがありました。
わたしが教えたわけでもないのに「自由」という概念をいつの間にか掴んで、それを求めていることに驚きました。
きっと幼稚園という場所に、不自由さを感じていたのでしょう。
わりと自由な園ではあったけど、遊びを途中で遮られて、朝の会だよーとか、先生が決めた歌を歌わされるとか。考えてみると、指示のもとに動くことも多い。意味を見いだせないことをやらされるのは、みぃにはとてもストレスだったんだと今になって思います。
その頃は、なんでこの子はこんなにも自由を渇望しているんだろう?と不思議で、生まれ持った魂に刻まれてるのかな、すごいなと感心さえしていたけれど、わたし自身が幼稚園に疑問もなしに入園させていたので、幼稚園の不自由さにきちんと目を向けていませんでした。
あれもこれもやりたくない、と拒否する子を、自分勝手とか我が儘だとか、手におえないだとか、大人は思うことがあります。
でも、それはもしかしたら、自由を求めるという正統な権利の主張であって、自由を簡単に手離さないということは、ひょっとすると相当すごい、必要なことなのではないかと思うのです。
小さい頃から、当たり前に先生の指示に従い、家では親の決めたスケジュールに従い、与えられたことをきちんとやることを称賛されて生きていると、自分の気持ちのままに動くことや、自分の意志で決めることや、自分で考えて選ぶことは日常の中でほとんどありません。
自分の気持ちのままに動いて誉められたこともないし、自分の気持ちを押し込めて、周りに合わせることの方が「良くできました」なので、知らぬ間に、自分の気持ちの存在が薄まって、人の指示に従うことにストレスもなくなってくるのかもしれません。
みぃは、自分の気持ちを大切にしたいのです。自分の気持ちの存在感が大きいのだと思います。
自由にしたい、自分がやりたいことをしたい、自分のやり方でしたい、自分が満足するまでしたい、こんな気持ちは失うべきものなの?責められるべきものなの? まだ幼稚園や小学校低学年で、それを押し込めないといけない理由は何なんだろう。
これまでわたしが思考停止していたことを、みぃは考えさせてくれます。
幼稚園時代、みぃはいつもほとんど一匹狼でした。お友達と遊ぶよりも、風や草木とたわむれることを選んでいました。お遊戯会のときは不満げな表情で、途中でステージを降りてきました。かといえば、母親のコーラスサークルの歌のときは、一人立ち上がって指揮者の真似をしていました。
そこにあるのは、自分の気持ち。気持ちとか意志に蓋をしないで自由に振る舞った結果が、その場の周りの全員と違う行動になったとしても、それを一人でやれるって、よく考えるとめちゃくちゃ格好いい、ロックンロールだと思います。
ホームスクール、不登校、それは、周りの多くの人と違うことをすることです。
自分の気持ちで選び、指示もスケジュールもない、責任者もいない自由な時間に身をおくことです。
それって、自主的で、主体的で、自立していて、すごくクールなこと!
用意されたスケジュールがないホームスクールで、時間をうまく使うことは、自由を手離してきた人達には、もしかすると始めは難しいのではないかと思います。
でも、ずっと自由を大切にしてきたみぃにとって、自由な時間を持てあますなんてことはほとんどありません。いつだって、自分で選んで自分で決めて自分がやりたいことをしてきたから、今もそれを毎日続けて生きているだけ。
退屈や暇とも無縁。でも、例えば今日から1ヶ月、すべて自由にしていいよ、と言われたときに、困惑せずに時間を使いきれるこどもが言ったどれだけいるのかなと、わたしは時々そんなことを思います。
みぃにとって、何かを自分の意志で選ぶことは、とても自然に出来ることなのです。
だから、通級のときも、先生に自然に意志を伝えていますよ。笑っちゃったのは、先日ソーシャルスキルの授業で少人数のグループワークの時間に「それは、つまらなさそうなので、わたしは参加しないで見ておきます」と先生に言ったこと。
ここまで自分基準で過ごしているなんて、アッパレだわと思いました。
学校に行かなくなり出したときに、何人かの人に「みんなつらくても頑張ってるよ」と言われて、みぃがその子達よりダメであるかのように否定的に言われたけれど、逆にみんなは自由に耐えられるのかな、とわたしは思いました。
こどもを自由にさせると悪いことが起きるのではないか、という漠然とした考えが、もしかするとこの国にはあるのかな。
自由を謳歌する人にやたらと批判的だったり。
でも、この国は今、いろいろな面で更に自由が奪われていっている危険な状況で、
自由をないがしろにした先に、戦争があるのではないかと不安になることもあります。
自分の自由を大切にしてきたら、他人の自由も同じように大切なことがわかる。
もしかしたら世の中から「ずるい」という言葉さえも消えていくかもしれません。
娘が5才にして「自由でなければ、生まれてきた意味がわからなくなっちゃうよ」と訴えてきた時から、それまで意識していなかったこの二文字について、考える機会が増えました。
考えてみると私にとっても、自由より大切なことはなかなか見つからないということに気付きました。
どうやら私も人一倍、自由でいたいのです。
(出来ればどこにも属していたくないとか)
(週に一度は一人でドトールで珈琲飲みたいとか)
(行き当たりばったりで生きてしまうとか)
ああ、娘がこんなにも自由を愛しているのは、私に似たからなんだなと最近では確信しています。
だから、我が子の不登校が苦痛ではないのだろうとも思います。
さて、ここまで自分で読み返したところ、この日記に着地点がないことに気づきました。
まとまりもないですが自由について自由に語らせていただいたということで、今回は思いきって唐突に終わろうと思います。
「終」
(終わり方フリースタイル!)