古墳と古代寺院
近代史について書こうと思ってたけど、バタバタするウチにネタが溜まりすぎて、整理するのに相当時間がかかりそうなので、つらつらと最近思ったり行った場所について書こうと思います。
冒頭の写真は先日行った梅木平(ばいきひら)古墳近くの丘陵が崩れている状況です。2018年の水害で1週間近く雨が止まず、その結果古墳近くの丘陵が大幅に崩れてしまいました。この古墳が今日のメインテーマです。
昔の人は経験的な知識から地盤の固い洪積層とかを見抜いちゃうので、古墳もまず崩れない場所を選んで造営します。崩れやすい場所に作ることもあるが、それはしょぼい古墳だったりして、大きいものはやっぱりちゃんと選んでることが多いんですね。
これは延喜式にも記載のある、旧山陽道のある場所なんだけど、歩いていくのがほぼ無理になってます。無理やり歩いた人のブログを見ると、この奥にあるという史跡案内板などは辛うじて残っているそうです。
昨今の水害は、どうみても地球温暖化の影響ですが、これが過去千年以上の単位で起こってこなかったものなので、危機意識ホンマ持たないとヤバいよね。
さて先日のことなのですが、三原市本郷町にある梅木平(ばいきひら)古墳に行ってきました。県史跡に指定されており、6世紀末~7世紀初頭の円墳で、県内最大の横穴式石室を有しています。戦後間もない昭和24年に指定されてるあたり、いかに重要だったかがわかります。
近くには横見廃寺(白鳳期)等が存在、県内で最も古い瓦が出土しています。6世紀末から7世紀に入ると、中央政権では方墳と寺院をセットにする独特の葬祭を行うようになります。特に中国北方から朝鮮半島にかけての方式とされ、日本では蘇我氏が葬られたという石舞台古墳と飛鳥寺のセットが有名です。
蘇我氏と物部氏が仏教を導入するかしないかで争った、という逸話を聞いたことがあると思います。アレどういう意味かご存じでしょうか?厩戸皇子が蘇我氏側について物部氏を倒しますね。実は仏教興隆に続く十七条憲法とか冠位十二階とか、割と一連の動きで繋がってます。
少し時計を進めて日本書紀や古事記を読むと「潤色」といって、天武天皇の時代に結構書き加えてるんですが、随所にそれ以前の歴史書に本来あったであろう逸話が残っています。6~7世紀の日本は、中央政権といえどまだまだ基盤は不安定で、大王家と周辺の近臣らは濃い親戚関係にありました。
そしてそれぞれの家々に伝承が残っており、家ごとに神様がいたんです。葛城山の神様が大王の前に現れて遊んだ…といった逸話は、それぞれの家の神様が大王家と対等に近かったことを示しています。親戚なんだから当然っちゃ当然なんですが、関係性がかなり近かった。
さて7世紀頃になると東アジア状勢がきな臭くなり始め、日本も統一された政権が必要になっていきます。そんな中でまず「信仰」を1つにまとめる必要がありました。こうした問題解決で成果を挙げていたのが、お隣中国にある北魏という国でした。日本史に詳しい人なら、法隆寺の建築様式で「北魏様式」という言葉が出てくるのを覚えているかもしれません。アレ単に建築様式を真似ただけじゃないんです。
北魏では均田制といって、のちの律令制に近い制度を導入していました。次の隋も均田制を踏襲しますが、日本は制度だけじゃなく仏教も北魏を初めとする中国北方や朝鮮半島から導入しています。いわゆる高松塚古墳の壁画などは、こうした地域からの影響を受けて成立しています。記録にはありませんが、実際に北魏あたりに渡って制度やら何やらを学んだ人がいたんじゃないかなと思います。
で、当時の東アジアも似たようなもので各家ごと(部族とかも)に神様がいて信仰対象をまとめる必要がありました。信仰がまとまらないと「ウチの神様はこう言ってる!」というような事案が起きます。言うことを聞かなくなるんですね。そこで仏教を導入して成果を挙げていた。先例があったということなんです。
やや時代が下りますけど、道鏡が皇位につきそうになって大分・宇佐八幡宮が「ちょい待てや!」とご神託を出した事件(宇佐八幡宮神託事件)がありました。当時は神様が言うことって一定の意味があったことを示してます。なぜか宇佐の神様が中央政権に口出ししている点でも興味深いですね。一番アレなのは皇位継承者が別系統になるかもしれない大事件なのに、割とシレッと教科書に載ってる点ですw
こんな理由で、共通した信仰対象である仏教を広めようとします。ウチの神さんが~。を封じるためですね。あと氏族らのパワーバランスで官位を与えてたのも紛争のモトなので冠位十二階を設定し大王から官位を与えるという制度を徹底するぞ!と宣言します。他方で言うこと聞けや!と十七条憲法を定めてます。十七条憲法については後世の創作説もありますが、僕個人は似たような法整備があっても変じゃないと思ってます。
話がすごく逸れましたが、古墳時代の終わり頃の古墳や寺院というのは、そういう信仰の変化を象徴していました。それまで氏族の神様(先祖も含め)を祀っていた古墳をやめて、寺院を建てることになっていきます。梅木平古墳と横見廃寺も、こうした時代背景を受けたものです。
県内最大の横穴式石室というだけあって、かなり大きいです。高さもかなりあります。畿内のそれに比べると小さく見えるが、西日本でもかなり大きい方になります。
これだけの石室を作る力のある人が、間を開けずに寺院を作り始めます。割とアッサリと信仰の対象や祭式を変えちゃうんですね。ちょっと今の感覚だとわからないかもです。
でも、不思議じゃないですか?中央が寺院を作ってるからって「はい喜んで!」と地方豪族がお寺を建てるでしょうか?実は彼らもかなりしたたかなんです。寺院建立は地域開発と大きな関係があり、旨みがあったからこそわざわざ新しい宗教である仏教に鞍替えしています。
この寺院と地方整備がセットになってるあたり、地方豪族もかなり頭が良いし、最初にシステムを組んだ中央政権の人達もすごい。中国の制度で一番日本に合うと思って色んな地域の制度をリサーチした上で、北魏の政治手法を導入したんだと思います。
当時の寺院というのは、ハイテク技術を集めた施設でした。まず大きな柱を必要としますが、その重量を支え運べるだけの基盤のしっかりした道路を作らねばなりません。当時は田んぼの畦道みたいなのばっかりでしたから、これを整えること自体が物流の充実を示してました。そして僧侶を招くだけではお経が読めないから、筆や硯も必要だし、書記官も養成しました。紙も(作る技術も)必要になりますが、記録を行うことで安定した税収が約束される。仏具は金属器なので高温焼成を行う冶金技術も必要になるし、瓦屋根なので窯も必要でした。燃料の運搬にも道は重要な働きをするほか、薪を切るので新しい土地開発も副産物で発生します。窯や寺院建設に測量技術や上記プラントにかかる工人も招聘せねばなりませんが、これは水利にも影響したはずです。
ザッと見るだけでこれだけ必要になりますが、全てインフラ整備に役立ちます。金属の技術は農業に直接影響を与える(当時は鉄製農具の普及が不十分でした)し、高温焼成のために山野を切り開くことにもなっていきます。のちの8世紀頃になると、律令制の浸透と共に上記が徹底し始める(国分寺ができることに注目して下さい)ため、税収は一気に増えていきます。
こちらは群馬県の山上古墳ですが、若干時期が下って7世紀の半ば頃と言われてます。こちらも近くに山名伊勢塚古墳(6世紀後半の前方後円墳)があり、葬制の移り変わりを見ることができます。時期的なバラつきは多少あったものの、この時期を境に信仰が変わっていきます。
山上碑と山上古墳に関する説明にも「僧」という言葉が出ており、信仰の移り変わりを読み取ることができます。こちらは概ね7世紀後半にあたります。この時期を境にして、中央でも古墳が作られなくなっていき、地方もそれに従って減るようになります。
古代に関しては、他にも色んなエピソードがあるけど、この流れを知ってて見学するとすごく楽しいです。昔の人ってホンマ頭ええな!って思うし、今やってるPOIで「地域活性化のため~」と単純にあるのとか見ると「先人の偉大さを理解しようぜ!」って思っちゃう。
ホンマ昔の人って頭良いなぁと再確認した見学でした。
以上です。