POI申請を愉しむ③
先日、かじぃさんが古墳の話をしてましてね。やや…というかかなり羨ましくなりまして、このシリーズ方向転換したろうか!とか不埒なことが浮かんでしまいました。。
だってねぇ、あんなに楽しそうだと「ンなもん、ワシもたくさんネタあるんじゃあああ!!」ってなるじゃないですか。
でも、ここは初志貫徹です。なぜに近代史にこだわってるのか、そしてPOI候補の中で最も数が多く、かつ広がり始めるとこんなに面白いジャンルはないというのをお伝えしたいんです。
ぶっちゃけ古墳の方が僕は好きだし、それこそ書き始めたら止まらなくなるんです。だけどやっぱり残ってないんですよね。近代のものと比べるなって話だけど、絶対数が全然違う。だけに近代の方が細かなストーリーも色々浮かぶだけでなく、人の息遣いを感じれて面白いんだよね。でも悔しいから、どこかで外伝みたいにして古墳の話を書こうかな~でも沼だからな~と悩んでます。
さて、今日はちょっと現実的な「予算」のお話です。石碑を作る相場って、今でも結構いいお値段します。いくつか出てますけど、あの棒くらいのサイズの歌碑クラスで19万円~になってます。当然、ある程度の大きさのものになると(幾ら人件費が安かったとはいえ)いいお値段だったでしょう。
多分、明治大正期の石碑相場とか立派な近代史のテーマになりそうだけど、ここでは割愛します。まず最初の事例がこちらです。
ややハレーションを起こしてますが「表忠碑」です。戦死者を祀ったものなんですが、まぁまぁ大きなものです。立派に囲ってあるものの、最近は手入れがあんまりされてない模様。。。
県道沿いにありまして、かなり目立ちますがやや放置気味ですね。この石碑のキモは背面でした。
大正八(1919)年三月建之とあります。この石碑の特徴は、日清・日露・シベリア出兵までの戦死者を同時に祀っている点です。日清戦争が1894~1895年ですから、実に25年前の戦死者を祀っています。いくら何でも放置しすぎだろうと思うのですが、設置前年から始まったシベリア出兵の戦死者もまとめちゃってます(しかもシベリア出兵は1922年まで続くので、途中経過みたいな感じ)。
決めつけはできませんが、どうして25年も慰霊碑を建てられなかったのか。例えば、以前貼った蒲刈町宮盛(みやざかり)区では、日清・日露の石碑を別途に建てています。
大きさも先の例に比べて大きいだけでなく、面取り(四角く面を取ること、この方が高い)もされてます。対する表忠碑は大きな岩にそのまま字を彫っているだけです。
恐らく何らかの理由で予算がなかったんだろうと思われます。さすがに25年経って「おいおい、そろそろ他所みたいにちゃんとしようや?」ってなったように思います。周囲の囲いは同時なのかわかりませんが、皆さんがんばった先輩たちを祀ろうと必死だったんだと思います。
きっと代々問題になっては先送りしてたのかもですね。でも、まだ石碑を建てられる地区はいいんです。実際には建てることもままならなかった地域もありました。
ちなみに宮盛地区のように、日清・日露を分けて建てられる地区はさほど多くなかったのです。この当時、宮盛は海運で栄えていたようで、この石碑を申請しているときに地元のおばあちゃんが色々教えてくださいました。港湾改修碑があって、その石碑が建てられた日のことを昨日のように語ってくださいました。まぁこれはまたの機会に。
次回は、日清日露の石碑が集落ごとに建てられ、地元の神社が改修される流れを時間軸に沿ってご説明します。この「予算」のお話が、まぁまぁ生々しく見えて面白かったので書いてみましょう。
古墳について書くのかなり先になりそうだな…