POI申請を愉しむ②
前回の「忠魂碑に寄せたお墓」からやや時計を進めた、日中戦争前後の時期が今日のお題です。ジャンルとしては忠魂碑の類いになります。
POIの申請って、通常の位置情報ゲームの真逆をめざします。ポケストやポータルのある場所は、既に誰かが見つけている可能性が高いので行きません。なにもない方角に進むため、ポイントを稼げる可能性は低いです。覚悟の上なんですけど、この「何もない」が割とミソで「ホントになにもない」のか「あるけど人が行ってない」のかが混在してます。
後者だと凄く嬉しい。文献上チョロっと載ってたり(全く載ってないというのはまずない)、人の記憶から薄れ始めていて覚えてる人が少なくなってたりするとPOIラッシュみたいな状態になります。僕個人は頭の中で「大漁」という言葉に変換してます。
さて本題、冒頭の石碑ですが昭和十二年に建てられました。航空兵曹の忠魂碑です。この日はめぼしい成果もなく、帰路につこうとしてました。周囲は過疎も過疎で、人に聞こうにも人がおらず、居ても「ウチのばぁちゃんが生きてたら詳しく知ってるんだけど」と言われる始末。そうした中、こちらは旧道に面した場所に設置され、下草も刈られており大切にされている石碑でした。ご近所の人に確認して背面に回ります。
逆光の加減があるので難しいですが、幾つか読めました。キーワードはやはり「霞ヶ浦航空隊」でしょうか。昭和八年に入隊したようです。もう一度表面に回ってみましょう。
海軍航空三等兵曹、勲八等、昭和十二年十月吉川村有志などの文字が見えます。揮毫したのは「呉海軍人事部長 奥信一」という人物のようです。
一つ一つ分解していきましょう。僕はDescriptionって「事実だけ記録する」スタイルをとります。考察は家でも可能だし、記載事項などは現地でしか取れない事実のみをできるだけ盛り込む方が良いのではないかと考えています。手法に対する考え方なので、その人その人に合う方法がいいと思います。
この石碑で重要なのは「昭和八年」に「霞ヶ浦航空隊」に入隊している点です。この人物(便宜上Aさんにします)は、海軍少年航空兵として乙種4期だったのではないかと思われます。予科練航空兵の訓練を受けながら、併せて学歴も修められるというものでした。当時最新鋭の兵器である航空機に乗れる点もあり、全国から志願者が集まる難関だったようです。
3年間の訓練の後、艦上で訓練を行い各地の航空隊に配属されたそうです。もちろん航空力学や物理学も履修した(爆弾を落とすならマストだったはず)でしょう。爆撃という文字もあるので、爆撃機に乗っていたのではないかと思われます。そして側面にある「昭和十二年十月」という部分にも注目です。有名な渡洋爆撃が起きた年にAさんは亡くなっています。
記録によれば渡洋爆撃が行われたのは8月13~16日、この間に65名の搭乗員が亡くなったとあるので、このうちの一人なのだと考えられます。Aさんは村一番の秀才だったに違いありません。今だって航空自衛隊のパイロットと聞いたら珍しいのに、当時はもっと珍しかったでしょう。
村の人は将来を嘱望された「人財」Aさんの死を悼んで石碑を建てることにしたのだと思います。まだ戦争は遠くの土地で起きており、国としても余裕のある時期でした。実際、昭和15年以降になると太平洋戦争が始まるせいなのか、この手の石碑はほとんど建てられなくなります。また先で上海事変関連の遺構を紹介するつもりですが、恐らく石碑を建てる余裕があったのって昭和12~13年くらいまでじゃないかな。
さて表面の揮毫は「奥信一」という人物でした。概ね下記のような人のようです。
奥信一:大阪府の出身、最終階級は中将。明治43年海軍兵学校を卒業、大正10年12月大学校甲種(21期)、同15年東郷元帥附副官となる。昭和3年4月軍令部に出仕、欧米各国へ出張を命ぜられ同7年3月海軍省人事局第二課長、同10年呉海軍人事部長、同13年少将に任ぜられ艦政本部造船造兵監督長、昭和15年阪神海軍部部長となる。
この石碑が建てられた昭和12年10月というのは、奥が少将に任官する直前でした。大佐だったんでしょう。渡洋爆撃は昭和12年暮れまで行われたようなので、遅くともAさんは9月までに亡くなっていたのだと考えられます。流れから言って8月半ばの攻撃時のように思えますが断定は出来ない。
1つ言えるのは、10代の少年航空兵が世界的ニュースになった渡洋爆撃に参加して命を落としたということです。そして地元で自慢の人だったろうということもわかります。
そしてもう1つの側面がありました。後日談ですが地元の方に説明したら、大変驚いていました。そんな立派な人がいたんだ…という感じです。地元の歴史が失われつつある現象をハッキリ感じました。
今、日本中そうだと思いますが、高齢者がどんどん亡くなったり痴呆になっていったりで記憶が失われています。その息子世代も「お袋が生きてたらわかるんだけどなぁ…」という方が非常に多くなっています。孫世代になるともう全然わからなくなってる。
あちこちで聞きますが「生きてる時に聞いておけばよかった」という現象が日本各地で起こっていて、それを紐解く糸口になるのがPOIリサーチだと思います。もちろん土地の方に断ってから行わないとですが、地域も求めているケースがあるので、何らかの施策があるといいですね。地域の郷土史会も高齢化が進んでいて、機能してないものが多いようです。
この辺を勘違いしてPOI申請で地域活性化!と思ってはいけないし、こんなことで寄与できるとかおこがましくて全く言えませんが、少しでも伝えられるように調べてみたいなと思うキッカケになった石碑のお話しでした。