POI申請を愉しむ⑧
今回は三原市にある久井町を探訪します。平安時代・天暦年間に起源があるという、杭牛市の史跡を中心に安芸国・備後国の国境について幾つか事例紹介します。
前々回、このシリーズ⑥でちょっとだけ書きましたが、広島県は西部が安芸国、東部が備後国に分かれています。国境ラインは蛇行するように南北を縦断しているのですが、ここ久井町では町内で国境があったそうです。まぁまぁ珍しい土地だと思います。
まずは車を走らせ、久井支所(旧:御調郡久井町役場)に向かいました。折しも市長選挙の頃だったんですが、支所の写真やストビューを撮っていると役場の方が出てこられました。事情を説明すると「そうなのか、それならどこそこで聞いたらええよ」と色々教えて下さいました。
地元の方に聞くいいチャンスだと思い「やはり安芸と備後で感覚が違うんですか?」と質問してみると「あんまり交流がないし、あっち(安芸?)のことは詳しくないんよね」という答えが。子供のころから交流があんまりないみたいですね。
実は地図を見てもわかるんですけど、山とか川とかで区切られる土地ではありません。大きな谷があるとかなら物理的に行き来がないのも納得なんですけど、割と平坦な土地なんです。
やはり国境が大きそう。江戸時代は藩が違っていたはずなので、その頃に分断された感覚が今なお残っているような感じがしました。まずは支所から最寄りの史跡・安芸牛に向かいます。
確かに牛が寝てるみたいですよね。POIにもなったのですが、かいつまんで説明すると「安芸・備後の国境で争いがあり、闘牛で決着を付けようと両国の牛を持ち出したが勝負は決せず、両者とも自国に戻って力尽き、石になった」という伝説が残っています。
この説話、極めて近世的なんですが牛市のある地域性を象徴するものでもあり、大変興味深いと思います。この石のある安芸国・山中野という土地には、古代の窯跡もありまして、一定の規模を有していました。
窯跡があると言うことは供給先が近くにあるし、大量の燃料を運ぶための道路も整備されていたことになるので、国境という関係上、何らかの官庁的な施設があったのかもですね。このインフラ論については以前書いたことがあります。
いずれにしても、交通の要衝として古くから重要視されていた土地であることは間違いなさそうです。次は備後側の石を見に行きます。距離は安芸牛の北東500mほどの場所にあります。
Descriptionほぼ同じでごめんなさい、対になるオブジェクトなので書きようがなかったのです。どちらも同じような形状をしていて牛が寝ているみたいに見えますね。
江戸時代の農村にあって厠肥(きゅうひ)は非常に大きなウェイトを占めていました。牛馬は耕運機であり運搬機であり、肥料も作り出す農業に欠かせない生き物でした。明治期の記録ですが牛一頭で年間1500貫(5625kg)の肥料を生み出したといわれています。
牛を闘わせるほど普及したのは近世だし、国境争いが多かったのも近世(特に中葉以降)です。上記の説話はまさに江戸時代の牛市の賑わいを象徴するものだといえます。
杭の牛市は、豊後の「浜の牛馬市」や伯耆「大仙の牛馬市」と並ぶ日本三大牛馬市の一つと言われていました。江戸時代を通じて盛んに牛馬の売買が行われますが、近代に入って年間7回市が立つようになって最盛期を迎えます。現在、県史跡となっています。
実は中世久井庄もかなり記録が残っているのですが、今回そこまで書ききれないので割愛します。ただ、この牛市の上にある神社は伯耆大仙神社の分霊をまつる大仙神社と言われています。安芸・備後・伯耆という三つの国のかかわりが見えて興味深い。
大正期に牛市は最盛期を迎えます。この石碑は大正末に建てられていますが、大きさだけでなく碑文も自信たっぷりな感じがしました。しかし、この時期をピークに徐々に牛市は衰退し、農業機械化の影響もあり昭和39年に廃場となります。
久井はなかなか面白いので、また探訪するかも。
以上です。