POI申請を愉しむ①
コロナの影響で呉復興イベントが尻切れトンボになり、なんとなくポヤーと過ごしてました。そうした中、欠かさず行ってきたことがありました。
そうPOIの申請です。POIというのは(僕の知り合いなら大体わかるだろうけど)、Niantic社の位置情報ゲームで使われる場所のことでPoint of Interestの略です。興味ある点、って意味かな?
僕はIngressを始めた当初から申請が好きで、割と色々調べてPOIを増やしてきてるんだけど、つい先日かじぃさんとのやり取りで、
って言われて、そうなのかぁと思いつつ結構日が過ぎちゃいました。
POIの申請というのは、最初は小さなプリップでしかないんです。調べて調べて調べて、申請していきます。最初は石碑だの遺跡だの伝説だののホントに小さな「断片」です。メッチャ小さな事実の断片しか生成しません。歴史って事実のみでは成立しないんですね。
この歴史って事実のみ単体では成立しないというのを、POI申請を通じて最近実体験したので、それをお伝えしようかなというのが、このNoteの趣旨です。
結構むかしのことですが。
学生時代に「これが読めたら東大でも京大でも受かる!」と指導教官に言われ、死ぬほど苦労して原著を読んだE.H.Carr先生の「歴史とは何か」というのがあります。お陰で英語は(そんなに)苦労しなかったです。もうスッカリ忘れたけどねw
日本語でも割と読みにくいです。この中にあるんだけど、歴史的事実について触れてる部分がある。っで、プロイセンだかの外交官の手紙の話が出てきます。手紙の内容だけでは歴史的事実にならないんですよね。それは断片に過ぎなくて。その事実を積み重ねた先に歴史的事象が見えてくる…
って書いてたら多分僕もわかんなくなりそうなので、これは本を読んでみて下さい。
で、Noteを書くにあたって躊躇したことが2つほどあるんです。
1つめは、断片が合さったといっても、ピースが2つくらい合さってるのが幾つかあって「こんな話なのかなぁ」という状態だということ。まだ確信を持てないんです。恐らく組み上げていくと、ある日ザッと何かが出て来るんだと思う。だけど、それ待ってたらいつまで経っても語れないよね?という話になって、ちょい書き留めてみようかなという次第です。
歴史としては広島県南部の近代史かなぁ。
大したことないので、拍子抜けすると思います。
2つめはPOIとしてまだ申請中なものがモザイク状に混ざってるんです。僕としては鉄板でLiveする(=POIになる)ものばかりなのだけど、それ見せるってことは「これ審査する時に頼むわ」って言ってるみたいになりそうで、自分のポリシーに反するんですね。
あと致命的に日本語がおかしいのもある。
まぁどうせ何回も読み返して直すけど、それでもおかしいからいいか…
さて、まずこの記事の冒頭にある写真から書いてみましょう。設置は明治末頃のものでした。日露戦の戦死者を祀っています。形状としては所謂「忠魂碑」の類いですね。一番上に右から篆書で題名を書いて、その下に縦書きで戦死者の略歴を書いていくタイプです。天皇陛下に忠誠を誓い、任務を全うし亡くなった兵士を祀ります。
忠魂碑は明治後期から大正時代くらいまで多数建立され、道路建設記念碑や〇〇翁頌徳碑あたりに比べてもダンチで多いです。石も恐らく同じものを使っていて、一種のトレンドだったんじゃないかと思います。
写真は碑文を写していません。もちろん申請もしてません。これは何故かというと「釋〇〇」と書かれていたんです。形式は忠魂碑で彼の生い立ちや戦績を記載するものだったけど、アタマに浄土真宗の法名があった。つまり形は忠魂碑だけどお墓として設置しています。ご遺族の意向としては忠魂碑の形式をとってるけど、中身はお墓にしていた。だから碑文を出してはいけないと思ったんです。ご遺族の意識が極めて重要に感じました。
この時代の忠魂碑って、街道沿いに建てられるものが多いんです。見せようという意識が強い。名称も「〇〇君忠死之碑」とか「陸軍曹長勲〇等功〇級〇〇君之碑」みたいに「立派にお国のために死んだんだ」というものが大半を占めます。どっちかというと慰霊の意味じゃなく、ウチの子はお国のためにこれだけ働いたんだぞ、という趣旨が色濃い。揮毫も佐官や将官が行っていて、まさに名誉の戦死というものだったんだと思います。
余談ですが、こうした近代の石碑って旧道沿いに建てられてます。その位置や向きで旧道の方角がわかることも多いです。それを辿ると次のPOI位置も簡単に導けたりします。僕が旅申請で困らないのは、これを意識してるからです。
ときどき聞くんだけど「慰霊碑だから申請に躊躇する」という意見があります。これに対しては「少なくとも当時の人は見て欲しいから建てた側面がある」とお伝えしてます。この辺、最近の災害で亡くなった方の慰霊碑と分けて考えた方が良いかもしれないです。
…話を戻します。上記の「釋〇〇」とあった形状は忠魂碑だけど、碑文はお墓だったタイプ。こちら当時そんなに多くなかったように思います。少なくとも僕の見てる広島県南部には少ない。軍港・呉を抱えているからかもしれないが、いずれにしても本例は浄土真宗の信者として弔おうとしたことがわかります。また街道沿いではなく、田んぼのあぜ道のような場所で目立たないように置かれていました。見せようという意識が薄いんです。
なんとなく、これってご遺族のささやかな抵抗だったんじゃないかと思えます。ここでは日露戦の賛否を議論しません。ただ残る事実で考えると、ご遺族の思いが滲み出ている気がしてならない。生きて帰って来て欲しかったけど、そんなこと言えるご時世じゃないからせめて兵士としては開放して、門徒として弔おうとしたように感じました。安芸門徒と呼ばれ、浄土真宗の信者比率が高いことで知られる広島にあって「釋〇〇」という戦死者の事例がほとんどないことも、時代のある側面を示しているように思います。
昨今のコロナによるマスクの同調圧あたり見てると、そんな空気あってもおかしくなさそうだなぁ(まして若者ばかり死んでるし)と思います。
という具合で、一個一個を洗っていこうと思います。とゆか鬼のように長くなるぞこれ…