POI申請を愉しむ⑦
夏も終わろうとしていますね~。今回、かなりのスピードでPOI化したので記憶の新鮮なウチに書き上げる事にしました。地味なれど濃い候補の多い場所でした。
今回の舞台は、今治市の沖合に浮かぶ大島の更に先にある「津島」という離島です。人口およそ数名、ほぼ過疎の島となります。地図上では民家が並んでいますが、正直大半の家に人が住んでおらず、船も1日3便しかありません。
なぜ、津島を目指したのか。それはある1冊の本に書かれた、興味深い内容でした。僕は本来この近辺にある古墳を調べようとしていました。以前あった津島村を併合した吉海町が刊行した町内史跡案内を調べていたとき、あるページが目に止まりました。
この本の中に菅原道真などが書いた「三代実録」という歴史書に津島のことを記した箇所があると出てきます。9世紀に書かれたものなのですが、津島の山頂にある大きな岩は古くから祭祀の跡であり、須恵器が出ていることも証拠の1つだとあります。
しかし山頂で須恵器が出土するというのも奇妙な話です。通常、古墳があるか建物などの遺構でもないと、須恵器は出土しません。古墳だとしたら時期がぜんぜん違う(三代実録は平安時代初頭なので古くなる)し、祭祀の跡だとしたら平安時代初頭になると須恵器生産は減衰しだすので、それより少し前の律令期とかになるような気もする。
まして三代実録といえば、かなり古い歴史書です。その記載のある場所がホントに津島にあるかどうかはともかく、もし須恵器を見れるなら時期もわかるので見たい!もうこの時点でワクワクしてました。
まずはリサーチから始めました。愛媛県が刊行した歴史関係図書のページを見ると、現在津島は今治市になっていました。この中に更に吉海町があり、2001年に町史を刊行していました。
しかしHPにあるのは各市史・町史の目次だけなので、中身がわかりません。この手の書籍は現地図書館に行かないと読めないケースも多く、まずは役場に電話して聞いてみる事にしました。ちなみに広島大学・愛媛大学、広島県立図書館には所蔵されていませんでした。吉海町の役場で貸出はしないが閲覧できるとわかり、現地に向かう事にしました。
役場に着く直前、古墳を発見したので立ち寄ります。立石を調べるキッカケになった大島最大の古墳、藤崎古墳です。
看板では前方後円墳とありますが、実際には円墳の模様。せっかくなので見学する事に。やや急な坂を登っていくと、お墓や地蔵堂の中に古墳はありました。
どうも6世紀末~7世紀初頭のもののようです。遺物も豊富に出土したようですね。時期的には古墳時代末期にあたり、そろそろ周辺では寺院を建て始める頃です。当該期の関係については、以前書いた古墳と古代寺院に関する記事もご覧下さい。
石室も残りがよかったです。開口部は埋もれてたので、カメラを突っ込んで撮影しました。割と細い石室で、確かに古墳時代末期の特徴を有しています。埴輪が出土するというのがやや気になるけど、次回のお楽しみにしましょう。
古墳を見学してから役場に向かいました。吉海町史は読む事ができたのですが図書館所蔵図書じゃないらしく、守衛さんも本を戻して業務に戻りたいようだったので、要点だけメモを取って次の場所に向かいます。
実は冒頭出てきた中に『津島村史』という書籍が出てくるのですが、役場にもないようでした。そこに立石や三代実録との関係が詳しく載っている気がするけど…
さて、船は朝・昼・夕の3便のため、昼の便の前に腹ごしらえすることに。島には商店はおろか、自販機もないそうなので諸々買い込みつつ食事です。リーズナブルな食材が結構ありました。バーベキューにして食べます。
諸々焼きつつ腹ごしらえですが、ビール飲めないのが痛い!!運転するから泣く泣く諦めます。それに今飲んだら眠くなって島の探索どころじゃないな…w
腹ごしらえも終わり、飲み物を買い込んで待つ事30分、やってきました渡し舟。正直、港が小さくて「ココにホンマ来るの?」って不安でしたが、たまたま通りがかった郵便局の人に聞くと「来るけど、着いたら超絶ヒマですよ」と教えて貰う。そら探索しない前提なら絶対ヒマだよなぁ(^_^;)
船内に入りました。正直クソ汚い!!(失礼)ちょっとすえた匂いもします。一体、いつ改装したのか、とゆか昭和の頃に建造されたまんまの船なのかも。。チケットとかないです。あるかもしれんけど、現金払いでした。
船はおよそ15分くらいで到着しました。この日は島にいる父母を子供らが世話に行く日だったらしく、3~4名同乗の方がおられました。聞けば島外に住んでいるけど、親の様子を見るためにときどき戻るのだとか。
島のメインストリートはここのみでした。やっぱ不思議らしく「何をしに来たの?」と自然に聞かれたので、これこれで~と話したところ、島のお年寄りに行き方を聞いてみてあげるよ!となりました。ラッキー!
島には元軍関係者の銅像もあったけど、当然誰も申請してない(津島にPOIは皆無)ので、写真に収めます。小学校跡碑とか歴史を感じるものが結構ありました。
そして連れて来られた古老の方にお聞きすると「あそこはもう30~40年くらい誰も行ってないよ、道も残っとらん」とのこと…ぐは(;´Д`)
さっきの立石の画像もお見せしますが「これはもともと別の本にあった写真を写し撮って載せとるんよ、この本を作った時も撮りにいっとらん」ということでした。なんという…
どうも道が残ってないようで、立石も森の奥深くにあるとのこと。先の『津島村史』もまだ読んでないし、島の古老ですら場所がわからないということで諦めることにしました。代わりに島を探索することにします。船の出発まで2時間近くあるので、散策くらいはできそうです。
大正時代に建てられた防波堤完成記念碑です。小さいですが、往事の様子を知ることができます。瀬戸内海の島に多いのですが、明治期くらいまでは海運で栄えるものの、昭和に入って急速に人口減になってしまうパターンのようです。
島に唯一あったお寺の敷地内にあった日露戦の記念碑です。当時は出征させるだけの若者が結構いたようですね。15名ばかりの戦死者が刻まれています。これは近代の村としてはまぁまぁの規模です。
石碑の置かれるお寺ですが、既に住職などはおらず、お葬式などで集会所的な使われ方をするだけになっているようでした。綺麗に掃除されてました。
島にあるという「津島大山積神社」に向かいます。地図上に確認できる神社はこれのみでした。忘れ去られたクローラーなどを横目に進みます。道はあちこちで分断されていて、もう今いるお年寄りの方が亡くなると島は閉鎖されそうな感じです。
崩れた土で埋まりかけの石段を登ると、拝殿がありました。割と新しそうだなぁと思い周囲を見渡すと、どうも昭和60年頃に改修されたようです。記念碑がありました。
名前も多数列挙されており、この当時くらいまでは人がまぁまぁいたとわかります。コミュニティがなくなるってこんな感じなんだな…
帰り道、意外なことに気がつきました。恐らく津島で一番の発見です。
手前の鳥居に「文政六歳」とあるのが見えると思います。実はその奥にある石灯籠は天保六年、更に奥の狛犬は天保十五年なんです。鳥居・石灯籠・狛犬の全てが近世後期に建てられたものでした。恐らく当時そのままの状態で残っています。
農村部の神社で、江戸後期の事例はもちろんありますがセットで残るケースはあんまりないと思います。少なくとも広島県南岸、三原や竹原といった比較的人がいた地域は別として、農村部のものはまだ見たことがなかったです。呉市や東広島市ではほぼないんじゃないかな。割とすぐ壊しちゃうんでしょうね。
もちろん申請させて頂きました。こんな博物館でも展示できない「江戸時代終わりの神社の風景」を切り取ったような場所こそPOIにふさわしいと思います。
この石段も江戸期のものでしょうが、一人「エモいな~!」と叫んでました。特に史跡指定はされていない、崩れかけた神社ですが、エモさは普通の古墳よりずっとリアリティ溢れるものだと思います。
以上です。