聞こえてしまったものへの倫理 ——小林エリカ『トリニティ、トリニティ、トリニティ』について(2020年秋学期「ジェンダー、クィア理論で読む日本文学」の期末レポート)
今、私は福島の実家でこのレポートを書き始めた。福島はいまや、東京より安全になっている。
「安全になっている」? 本当にそうだろうか。目に見えるものだったらそう言うことができるかもしれない。隣の家から火が出ているのが見えたら逃げてしまえばいい。ナイフを持った不審者を見かけても逃げればいい。ゴジラが現れようが逃げれば問題ない。しかし、ウイルスは目に見えない。東京は緊急事態宣言下にあっても、街に出れば福島よりたくさん人がいる。しかし、福島で、その少ない人との関わりの中で見えないものが私にも降りかかる可能性はあるのだ。その可能性という目に見えないものはここにだってあり、逃れることはできない。
小林エリカ『トリニティ、トリニティ、トリニティ』のうちには、まだ福島が東京より「危険」だった頃の福島が登場する。開会式の二週間前、聖火が東京の新国立競技場に向かう一方で、福島にもランナーが現れるのだ。福島第一原子力発電所の近く、避難指示の解除された富岡町を、老人のランナーが放射性物質を放つ<不幸の石>を持って駆け抜ける。ゴールは廃炉資料館のマリ・キュリーの生家を模した建物の扉。東京にいる「私」はそれを笑いながら見つつも、富岡町と自分のいる場所とがつながっているかもしれないという不安を抱く。
この場面には作品の大きな展開を象徴する記号が出揃っていると言えるだろう。オリンピックに沸き立つ東京、震災から時間が経ち見えないものとなった福島、聖火に擬えて老人が持つ石ころ、その石ころを耳に当てた老人が確かに聞いたと語る「声」、私たちを悩ませたものとして良くも悪くも身近にある放射能という科学技術、歴史からその存在を忘却されてきた「女性科学者」としてのマリ・キュリー、事件を起こす点で一際厄介な認知症だと考えられている病気トリニティを発症した老人のおかしさ、つながっているかもしれないという気持ちを掻き立てる「目に見えざるものたちの逆襲」というフレーズ。
対になっているこれらの記号たちから一つの物語を作る一番簡単な方法は、この対を逆転させてしまうことだろう。それは、福島の代わりに東京を「危険」にすることだったり、東京の代わりに福島で聖火リレーを行うことであったりする。あるいは、マリ・キュリー、女性科学者を「ご存知の」放射線被害についての加害者として表舞台に立たせることもそうだろう。しかし、小林の作品はそのようにして皮肉を作るには留まらない。そのことが際立って示されるとともに、そこから作品が単なる「逆転」とは違った仕方で動き出す場面にあるのが「私」の性に関する描写である。
駅はトイレまでしっかり冷房が効いていたが、汗が溢れるように出続けた。汗で腕に張り付いた黒い手袋をつけたまま臍まであるベージュの補正下着を下ろし、便座に腰掛ける。股の部分に黒ずんだ血がべっとりとついている。指折り数えてみれば、私の生理は一日たりとも狂いのない周期でやってきたのであった。
私はその血を見下ろしながら、息が苦しくなる。
流れ出る血は、私が努力を怠った結果そのもののように見えてぞっとした。
子宮と卵巣が二十八日、六七二時間の時を費やし入念に準備したものが全て無駄になったのだ。
私が性交し、妊娠し、出産すれば、生まれたかもしれない命だったのに。
「私」は仕事に向かう途中で、生理痛を覚え、トイレに駆け込む。そこで「私」が経験しているのは、単なる痛みと血だけではない。そこには「努力を怠った結果」としての「生まれたかもしれない命」の経験が潜んでいる。潜んでいる、と言ったように、それは目に見えるものではない。目に見えるのはあくまで血に過ぎないからだ。しかし、「私」はこの目に見えないものを、その、可能的に存在していた命の可能的な声を聞いたのである。
この、見えないものをどうにかして見るとは別の仕方で、聞くという経験が、作品を大きく駆動させている。この作品についての小林のインタビュー記事を引こう。
「人間は光を求めて、電気や原子力を手に入れ、今の社会を築いてきた。神にしか統制できない太陽のような光を手に入れたいという、その欲望みたいなものを小説で描きたかった」
目に見えないものを見ようと駆け回った末、「目に見えないものは見えない」と分かった。そして気付いた。「見えないものを見えるようにしたいのではなく、あったかもしれない過去の声を拾い、見えないものを見えないまま書き留めたい」
一つ目の引用と二つ目の引用とでは、小林の描こうとしている対象は別のものである。前者において小林が描こうとしているのは技術としての光、あるいは原子力——原子力は飛行機や自動車に搭載され全く「見たことのない」未来を生み出すとも考えられていた——、といった「見えないもの」を「見ること」を可能にする(と信じられている)ものへの欲望である。こうした欲望に従って「見えないもの」を見ようとするとき、それは、部分的に見せることに成功するとしても、同時に「見えないもの」の全てを捉えることをもはや全く不可能にしてしまう。原子力自動車の未来を見ようとする時、積む原子炉や核燃料の、到底積むことのできないような構造は見えなくなる。老人を襲った病気トリニティを見ようとする時、それは認知症と同じようなものとして見え、病のうちで老人が聞いた「声」が何だったかは見えなくなる。
後者において描こうとされているのは、そうした欲望から離れた態度である。「あったかもしれない過去の声を拾う」とは、その欲望に従うのとは別の仕方で見えないものに接近することである。それは決して「押してダメなら引いてみろ」的な、最終的には見えるものが手に入るという生ぬるいものでもない。生まれえたのに生まれなかった子は、どうやっても生まれることはないからだ。その点ではこの行為はある意味で、実りがない。実りがないとわかっているものをしかし、「書き留める」、行為に移す時、我々は「不気味なもの」を見ることになる。それは、実りがないのになされているとして半ば狂気じみている。その狂気は徒労として笑われる側面を持ちながら、一方で、それが確かに起きている時に我々は「理性」への挑戦として、その行為に同時に不安を感じることとなる。「見えないものの逆襲」が位置しているのは、この地点である。そして、そのような行為に「私」を促す有責性が、生理という極めて個人的な場面に接続されている点に、作品の主題と性との優れた連関がある。
この「実り」のない行為についてさらに検討するために、小林の記事からもう一つ引こう。
[…]16年の出産後、仕事も家事もできず「ただ家にいる自分は無価値なのか」と落ち込んだ経験が執筆の原動力となった。
「人はただそこにいるだけで価値がある。お金や役に立つかで価値を考えるのは違うと思った時、この小説を仕上げなくてはという気持ちになりました」
「見えないもの」を見ようとして書くときにつきまとう色眼鏡は、その取捨選択を有用性に従って行う。芸術作品が一部の人からすれば金銭的価値の高低からしか見ることができないように、見ようとするときの見え方を価値観というものが支えている。今も支配的な仕方で存在する資本主義のあるいは家父長制の価値観のうちで、女性は、出産や生理、ホルモン注射でその「生産性」の落ちるだけで、あるいは労働場所が家庭であるがゆえに何も「生産」しないとみなされることで、ひいてはただ女性であるだけで、それはある価値観からの「有用性」がないとみなされ、同時に、もはや捉える必要のないものとまでされてしまう。
見るのではなく「あったかもしれない過去の声を拾う」というのは、このような価値観から離れる行為を意味している。生まれたかもしれない子供に耳を澄ませることと対応するのは、例えば、すでに描かれた歴史にあったかもしれない人々の姿に耳を澄ませることだろう。<不幸の石>の「声」を聞くのはちょうどそのような行為だ。小林の作品において石は「指紋だけじゃなく全ての事柄を留めている」。
この<不幸の石>は、前作『マダム・キュリーと朝食を』における「光」と対応しつつも、そこで起きている「見えないものを見る」という不可能(事実「もしも」「全ての事柄を留めている」のならば、と言われていた)を克服している。それゆえ「見えないものを聞く」経験は、宙に浮いてしまう特権的な経験、文学作品の中のファンタジーになることを免れている。それは同時にその経験を一つのアナロジーとして、他の日常的な経験ののうちに重ねて考えることを可能にしている。そのことの一つの例が、生理の経験だった。もう一つ、重ねられているのは、母娘の関係である。
作品の前半において「私」と娘との関係はほとんど前景化されない。<不幸の石>の声を聞く真似事を娘がしている場面では「私」は娘の経験を自分の経験に重ねているだけで、娘に対してはいかなる感情も抱かない。あるいは引っ越しの場面では、「私」と妹とが作業をしている中、爆音で娘は音楽を聴いているが、その音楽について妹から聞かれても、「私」は娘がその音楽とどう出会ったかなどではなく、音楽それ自身について真面目に解説をしている。解説をしている最中に音楽を娘が止めたときには娘に対し注目することはあっても、娘のその言動に対しいかなる感情も抱かない。このような場面からは、娘に対する、まるで自分とは別の世界にいるかのような無関心が見て取れる。一方で、関係性が見える場面もある。「私」は娘に対してとにかくイライラしている。娘の服装にだって不満を持っており、また、祖母がいなくなって慌てているのに電話に出ない(出られなかったのだが)娘に対しても怒りを抱く。
無関心や怒りとは一見真逆の態度もある。期待だ。経血を拭った後に「私」は、そこで流されていったしまった「見えないもの」に対し、自分を重ね合わせている。自分自身の生が誰にとっても見えないものであり続けるのではないかという虚しさ。そこから救ってくれるのが娘だというのだ。
けれど私はひとりじゃない。
娘が私を救ってくれるだろう。娘がダメでも、娘がいつか子供を産み、娘の娘がまた子供を産み、娘の娘の娘がまた子供を産むのだから。過去から未来に向けて連綿と繋がる一本の線を思い浮かべながら、私は娘に、娘の娘に、娘たちに、縋り付くようにして、もういちど勢いよくトイレットペーパーを巻き取った。
「私」にとって特に興味のない、あるいはむしろ私を苛立たせるような存在で、それにもかかわらず「私」はあまりにも都合よく、自分自身を救ってくれるという期待を持っている。その期待は、決して「見えないもの」を聞く態度からは来ていない。その証拠に、この場面にはさまざまな未来が捨象されている。娘が子供を産まなかったら? 娘が息子しか産まなかったら? 機体の裏にも、見ようとしない態度は徹底しているのだ(それ故、娘に対して怒りを爆発させる場面で再度この「一本の線」への信仰のような認識が繰り返される。「私の腹から生まれたこの私の娘の何をこれ以上、見ろというのか」)。
トリニティに罹った母を追う物語は、最後に、娘と私との見えなかった関係性が露わになるという一見それまでの筋と何の関係があるのかわからない仕方で終わることとなる。「私」は、自らが生理の、あるいは重苦しい過去を忘却してしまうことの、有責性から逃れるために依存していたサイバーセックスサイト「トリニティ」でチャットを交わしていた相手が実の娘であったことを知る。ここでの経験は、見たいという欲望の対象となることのなかったものに見舞われるという点で「見えないもの」を見るのではなく別の仕方で捉える、「聞く」という経験であると言えるだろう。この聞くことの経験が、母の眼差しを娘に対する無関心から変えたことが最後の二文に表現されている。
私はまっすぐ見つめた。
この私の目の前にいる、一人の人間を。
『トリニティ、トリニティ、トリニティ』においてなされているのは、見えないものを見ようとするということではない。欲望に従い、支配的な価値観に迎合するようなそのアプローチを取る代わりに小林エリカは見えないものを聞こうとする。それは、価値観に衝突する点で、半ば狂気として現れる。一方で、それが単なる狂気にとどまらず、我々の立っている価値観を揺るがすような不気味さを持っている。作中では「私」の身体についての経験にその萌芽を持っており、あるいは小林エリカの出産の経験に萌芽を持っている、この「別の仕方でアプローチすること」は、小林のジェンダー論的な、あるいはそれに留まない「あったかもしれない過去」全てに向けられた射程を明らかにするものである。
参考文献
・小林エリカ. 2019. 『トリニティ、トリニティ、トリニティ』. 集英社.
・大沢祥子. 2020.「<訪問>「トリニティ、トリニティ、トリニティ」を書いた 小林(こばやし)エリカさん」. 北海道新聞.
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/380639?rct=s_books(2021年1月14日アクセス)
・小林エリカ. 2014. 『マダム・キュリーと朝食を』. 集英社.
・小林エリカ. 2021. 「光の話」. 京都精華大学アセンブリーアワー講演会, 2021年1月14日.
(のち録画が配信される予定)
・Listen to Her Song 彼女たちは歌う. 2020. 『トークイベント3「フェミニストっていう?いわない?」 出演:上野千鶴子、菅実花、小林エリカ、スプツニ子!、荒木夏実』. Youtube. https://youtu.be/rzn1WoDX3z4(2021年1月14日アクセス)
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