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「乱読のセレンディピティ」を読んで

ざっくり要約と少しコメント
乱読の効用について書かれた本(外山滋比古さん著)
本の選び方や読み方についての洞察も得られる本
というか読書以外の生き方についても色々考えさせてくれる本
興味を持っていただけたら、やはり実際に読むのがおすすめです!

大事だと思うことが多すぎて、ぎゅっとしてもめちゃくちゃ長くなっちゃいました


まえがき

難しい本を丁寧にじっくり読むのは良いことだけど
風のように読むのも良いという話

知的刺激という面からすれば乱読はとても良い
面白いし、発見もある
妙に力を入れず、風のように

本はやらない

もらった本はおもしろくない、やはり感心するのは自分で買った本

得体の知れない遠くのものから、おもいがけない美しい誤解とともに深い教えを受けることができる

乱読のセレンディピティ

読書にも距離の美学がはたらく、知人の本やすすめられた本とかではなく、遠いもの

身銭を切って読むのがいい
お金を払った読書は重い意味をもつ
何を求めるか選択することに知的活動がある

書評を見て本を選ぶのも自己放棄、他力本願でよくない

新刊でも古本でもないものが図書館にはある
お金を払って読むのがよいけど、そうでない本が図書館にはある

読み捨ててもいい、どうして読破できなかったか反省するのも良い

乱読がよろしい。読み捨てても決して本をバカにしてのことではない。
かりそめの読者がしばしば大きなものを読み取る

乱読のセレンディピティ

悪書が良書を駆逐する?

禁書になると、気になってひとは読みたくなるもの
みんなが読んでいるものより

こっそり読む、ついのぞいてみたくなる。危険なものに惹かれる。

西鶴の好色文学も〇〇〇で隠されていたほうが、みな気になって読む。
〇〇〇が明かされると萎える

教育についていえば
読ませたかったら、逆に読むことを禁止する方が有効かもしれない。

良書については、識者がその命を守り、古典として生き残ることができる。

悪書はいつなんどきでも、良書を駆逐しようとしている。
区別もあいまいに
活字文学の危機

心ある読者が求められている。
つまり、自己責任をもって本を読む人である。
自分で価値判断のできる人。
知的自由人。

乱読のセレンディピティ


読書百遍神話

少しにぶいような人が失敗にもめげず、読書を続けることができ、
本のおもしろさに開眼する

ウサギはカメに負ける。
読書好きになったカメがリードする。

乱読のセレンディピティ


読書百遍、意自ずから通ず はフィクション、神話
わかるのではなく、わかった気がするだけだ
でもそれが悪いわけではない
何度も読めるのは、どこかおもしろく、
わからない部分を自分の考え、自分の理解、自分の意味で補うからで
自分の考えを出すことがたのしいのだ
一種の自己表現といえ
わかりきったことしか書いてない本ではこのような読み方はできない。

本は読み捨てでいい。
繰り返して読もうと思う本が数冊でもあればりっぱ

本についても過食・偏食はよくない
だから同じ本を何度も読むのも限度がある

健康な読者をのぞむなら、昔ながらの考えは変えた方がいいだろう

読むべし、読まれるべからず

読書をしすぎると、知識が思考を圧倒してしまう
やはりバランスが大事
問題は生きる力につながらない知識のための知識を喜ぶ勘違いであり、
それは健全ではない

では、生きる力に結び付く読み方とは何なのか

論文のすぐれた人と講演のすぐれた人はどちらが本当にすぐれているのか
それは、講演のうまい人物 という話があるらしい
話すことがうまい人は心と頭のはたらきがよい
話すことの方が大きな意味をもっている
心、生活に近く、自然
文章は思考と人格に結びつかないで、いい文章であることができるのだ
公教育を受けた人は、文字や書物を、話し言葉より価値があると思いこんでしまう
知識が生活からはなれてしまっている

適量を超えた知識のメタボリックは、思考を妨害
物知りの馬鹿が生まれることもある

読書がいけないのではない。
読書、大いに結構だが、生きる力に結び付かなくてはいけない。
新しい文化を創り出す志を失った教養では、不毛である。

よりよく生きるため、新しいものを生み出す力をつけるために本を読む。

一人前の年齢に達したら、ただ本に追随することを恥じる必要がある。

乱読のセレンディピティ

風のごとく

音読を奨めるのは、適度の速さで読めということ
1冊を10分で読むのは、読む価値のない本かもしれないし
やはり生きた読書ができたとは言えない

外国語を読むのは難しいが

母国語だけ読んでいてはわからないことがわかる余徳がある。

乱読のセレンディピティ

僕)やはり技術が進歩して、海外でも英語を読んだり、話さなくても生きていける昨今でも、外国語を学ぶ意味があるというメッセージととらえた

著者がイギリス人の同僚と話していて悟ったこと
ゆっくり読んでもいけない、はっきり声に出して話すと、文字だけよりもよく理解できるということに気がついたのだ

いちいち辞書を引いていては、言葉の流れが消え意味が取れなくなる

繰り返して読むことで難しい文章も読める
そうして流れるように早く読めるようになるという考え方であれば
読書百遍にも一理ある

ことばの生命を殺さない程度に早く読む

本は風のごとく、爽やかに読むのがおもしろい

乱読の意義

この本では、一般ではよくないとされる
乱読を高く評価する

アルファー読みとベーター読み

読み手があらかじめその知識を知っている状態で読むことを
アルファー読みと呼ぶことにする
内容や意味がわからない状態で読むことを
ベーター読みと呼ぶことにする

物語や文学はベーター読みに移行しやすくなる
しかし、ジャンルに囚われてはいけない

乱読家とはジャンルに囚われずなんでも好奇心で飛び込む読み方をするもので、簡単にはなれない、小さい分野に収まらないこと
10年20年と乱読していれば、少しは教養がつくだろう
理系文系なんてこだわっていてはいけない

人間学ともいうべき広い視野、乱読をすればいい

乱読の入門としては、新聞、総合雑誌を流し読みするのがいい
見出しだけ見ていって、気になったらリード(序盤)だけ読んで
面白かったら最後まで読む。

書店へ行こう、雑然としている
面白そうだと思ったものを手に取り、あとがきを読む
著者略歴も見る、顔写真に踊らされてはいけない

乱読するのに失敗は逃れられない。
それも乱読が一般的によくないと思われている理由の一つだろう

だが人間は失敗から多くのことを学ぶ。時には成功より多くのことを。

失敗を恐れない ー それが乱読に必要な覚悟である。

乱読のセレンディピティ

セレンディピティ

思いがけないことを発見する能力

乱読によって思わぬ発見アイデアが生まれる

専門分野の本ばかり読んでいると、クリエイティブに考えられなくなる
軽い気持ちで読んだものに意外なアイデアやヒントが隠れていたりする

乱読はなるべく速読が良い、丁寧すぎるとことばの残像を捉えられない
風のように速く読む

本が読まれなくなった、本離れが進んでいると言われる近年、
乱読の良さに気づくこと自体が、セレンディピティであると言っても良い。

乱読のセレンディピティ

読者の存在

著者の読者論
ノートが取れない状態、学校の本だから書き込みもできない
それでも心に響くところは消えない
ノートをとりながら読書することをやめた

洋書を夢中になって読んだ
ケインブリッジ・スクールの知的思考は新鮮、刺激的だったようだ

作品、著者は評価されるのに対し
読者をないがしろにするのは不当だと考えるようになった
のちに読者論とい試論を発表、10年後のドイツの受容論と志向は一致していたが脚光を浴びることはなかった

これまで弱者の扱いを受け、無視されてきた読者に光を当てようとしたのは同じである

乱読のセレンディピティ

作者絶対視に対する疑問

読者は沈黙の享受者だった

自分の個性を持って解釈をすることが重要で、
少しでもその本の命に影響を与えられるようなアクティブな読者

そのような読者の重要性を承認される時代がくると著者は考える

不利な条件もセレンディピティに繋がる
素晴らしい本や人が近くにあると、かえって人はあまり
自分で考える力が弱まるのではないだろうか

むしろ距離を置いた乱読のような読み方
失敗、誤解、偶然などから
やはりセレンディピティ生まれやすい

(僕)皆と同じレールに乗って進んでも同じところにしか辿りつかない
外れたところで努力する人は新しい発見、新しい道を切り開くだろう

エディターシップ

=二次的創造論
著者は編集の仕事でうまくいかなかった時、あてもなく本を読んで
編集と料理は似ているとある日気づいた(アナロジー)
一次は材料を作ること、二次は材料を調理して料理にする
編集や映画(俳優と監督)など他の分野にも当てはまる
エディターシップで最も進んでいる(評価されているのは)、
オーケストラの指揮者かもしれない
結果的に、ギリギリのところでいい特集を企画「学校文法と科学文法」で
成功し、12年間も「英語青年」の編集を続けた
(僕)これもセレンディピティによる力の結果のようだ

母国語発見

著者は英語ばかり、4、5年読みすぎて、日本語を忘れかけた経験がある
英語も面白いけど、日本語はもっと面白いことに気づいた
どの国の言葉にも固有の論理がある。
日本語の論理を考えるようになった
俳句は日本語の論理が強く出ており、点と点が蛇行するような
受け手によって、差があり、それぞれが正しいということが起きうる

日本語は1人称や2人称の言葉かいくつもある
さらに、あるのに主語のないセンテンスがゴロゴロしている
というところからタイム誌に50年以上前に「悪魔の言葉」と呼ばれた
この誤解から、著者は舞台でいう客席を第四人称、時間を加えた第五人称とし、古典を作り上げるのは作者でなく、第五人称と結論づけた。

古典の誕生

古典は作者が作ったそのままのものが残るのではなく、
後世の受容と修正によって創り上げられたものである

30年ほど経っても生き残っている本は古典になり、長く消えることはないという
著者の「思考の整理学」も30年を越えたそうです
(僕)次読んでみようと思います

乱談の活力

シンギュラリティが来て、人の仕事が多く失われたとき
コンピューターにできないことはおしゃべり、だと著者は考える
一対一ではなく、複数人での高度の知的活動
うまくいけば発見や発明が生まれる
三人寄れば文殊の知恵、
5、6人が集まると多元的コミュニケーションができるようになり
最高の人知が集まる可能性が生まれる

雑談こそもっとも有望な頭の訓練

乱読のセレンディピティ

めいめいの専門が違うと、競争になる心配がないし、新しいことを考えつく

年をとってからの友人の方が話せる、古い付き合いの方が話すことが小さくなりがち

年をとるごとに乱談の効果が高まる
ストレス解消になり、アンチエイリアシングのもっとも有効な手段のひとつに思える
精神の活性化

忘却の美学

知識をためすぎると、知的メタボリックシンドロームになり
ものを考える力を失う

忘却は大切な働きをする

知識を食べ物とすれば、忘却は消化、排せつにあたる

乱読のセレンディピティ

人間にとって生死にかかわることは実は自然のようにみえたりする、呼吸、血の巡り、睡眠など、自覚しなくても行われる

動くと頭の中が綺麗になる、スポーツなどである
文武両道の方が結果がでる人もいる

やけ酒も実は忘却という面においては効果的だ

ストレスの時代
こだわらず、さっぱりとしていて
どんどん忘れることが健康と考えてもいいかもしれない

記憶が忘却を経て新陳代謝を起こし、変化が起こる
変化は美化、醜悪化されることはない 改善される
(僕)トラウマは醜悪化な気がしました

忘却をくぐった記憶は回想となり甘美である
忘却による創造的変化、美しく、なつかしい

美しい回想は記憶と忘却のはたらきによるというのが
新しい忘却の美学である

乱読のセレンディピティ

散歩開眼

著者は気が付いたら散歩の習慣が身についていた

私の頭は、歩いてやらないと眠ってしまう

モンテーニュ

歩くことがいかに大切か
ギリシャの昔学問をしていた人、哲学者は歩きながらものを考えた
歩けばことは解決する

著者は1時間くらい、12000~8000歩歩いていたそうだ
体にもよい、糖尿病などの病気を治すことすらある

歩いているとおもしろいアイデアがでてくるからメモをとろう
いいアイデアでもわすれてしまう

乱読は散歩のような読み方といえる

朝の思想

夜より朝がいい
脳が掃除された後だから、いらないゴミがないから

忘却をすすめるには快眠が必要

散歩は朝と決めた

でも朝型になれるのは割と歳を取ったら自然となるもの

(僕)9時くらいに寝れたらいいけどそれは難しいよね

あとがき

正しく読めなくても、間違いだらけでも
そのような読書が思いもよらない発見を生み出すことがある
それが乱読のセレンディピティ
乱読の功

その思わぬ効用を教えてくれる本、また本の選び方や読み方についての洞察も得られる本

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