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神の解釈がそれぞれ分かれているのはなぜか?
あらゆる文化圏で神の解釈が違います。
なぜか、ご存知ですか?
例えば、旧約聖書には復讐する神が出てきます。
本当に神は復讐を好むのでしょうか。
実は神は復讐を好まないです。
神はすべての魂が自分から出てきた光だと明白に理解しています。
自分そのものだと思っているので、例外なくすべての人間を愛しています。
復讐し合うことを好むことはありません。
神にはケンカしている二人がいたら、自分と自分が殴り合っているように見えます。
それが心地いいわけがないのです。
だからこそ、キリストを人間の元に送って「許し」について伝えたのです。
しかし、旧約聖書には復讐する神が出てきます。
この理由は、簡単です。
当時のユダヤ人は復讐を積極的に行っていました。
それが当たり前であり、許しという考え方すらなかったのです。
昔のユダヤ人が神を解釈すると、自分の立場から復讐する神を思い浮かべます。
自分も復讐しているならば、神も復讐しているだろうと考えたのです。
何か悪いことが起きると自分に問題があると見ずに、神が怒って自分を罰していると思うのです。
それは大いなる思い違いであります。
当時の人たちの文化的な背景があり、一種の思い込みがありました。
それが「色眼鏡」になって、ありのままの神の純粋性を理解することができませんでした。
私たちが聖書を読むことがあっても、鵜呑みにしないほうがいい理由がここにあります。
昔の文化による「色眼鏡」が神の真実の姿を捻じ曲げているということを理解したほうがいいです。
バガヴァッド・ギーターにもそれは見られます。
カースト制度を肯定するような記述がありまして、高潔な魂は王族に生まれるとされています。
正直に言うと、そんなことはないです。
もし、そうなら高潔な王様しかおらず、王政はいまだに続いていました。
実際には圧政が数多くあり、王政はほとんど打倒されました。
残忍な性格の持ち主も王族に生まれていた証拠です。
昔のインド人が神様の言葉を聞くと、どうしてもカースト制度を肯定するような内容に解釈してしまうのです。
それも「色眼鏡」によるのです。
色眼鏡を使って物事を見ると、本当の姿は見えてきません。
それぞれの文化が抱えている問題がありまして。
それが神の本当の姿を捉えることを難しくしています。
だからこそ、私は語る必要があるのだろうと思っております。
私は文化的な背景をすべて廃して。
神を純粋に捉えることを徹底して行いました。
そうしたら復讐を好む神もいなければ、罰することを好む神もいないということを知ったのです。
神は、ひとりひとりの魂を自分だと思っています。
自分を救うためにあらゆる手を差し伸べてくれる。
究極の愛であり、究極の知性を持った完全なる存在として、私は神を感じております。
そして、それら一切を超越しています。
聖典を読むとき、注意して読むことです。
そこには文化的な色眼鏡があるかもしれないからです。
聖典や聖書には確かに真実・真理が隠されています。
しかし、色眼鏡はすべて捨てて見ることです。
そうしたら、あなたは自由に本当の神の姿を拝めるようになるでしょう。
私は神に言われました。
「新しい言葉を紡げ」
その意味は、過去の聖典のすべての誤りを正すことではありません。
すでに役割を終えてしまった古の産物では到達できない場所があります。
神の境地に多くの人たちが至れるようにするため。
真実の姿をありのまま語る必要があります。
愛そのもの。命そのもの。
光そのもの。意識そのもの。
神は時間と空間すべての中にいて、すべてを超えている。