「一季」ⅶ.歳末に走る去る
不平等と不条理の絶妙かつ曖昧な均衡によって日本人独特の集団心理は突き動かされ人々は迎合したがる。これに対して反逆的,反抗的,対抗的,非従順的行動を取るものならある種の組織,集団,コミュニティによって構築された何か、アダム・スミスの言葉を借りれば見えざる手によって排除ないしは排斥,排他されるのである。そう考えると、日本人という物質,物体,人物,動物,逸物は非常に奇なる存在だ。なぜ奇かはここでは説明しない。
そんな日本人は十二月を師走と呼んだそうだ。法師が走ることから由来しているらしい。しかし、私は師走の「師」は法師ではなく、教師講師つまりは先生のことだと思う。しかし、先生なる存在は一人で走っているわけではない、生徒と走っているのだと思う。受験生外の生徒を持つ先生は進級に向けた本格的な準備をするためのこれまでを振り返らなければならないし、受験生を持つ先生は成果つまりは第一志望入学内定を獲得するための戦いを挑む生徒を支えなければならない。生徒に目標を走破してもらうために先生も一緒に走る。ここで私は、先生は大変と伝えたいわけじゃない。先生は生徒と走ることができることが数少ない存在であるということだ。加えて、先生は数少ない存在になれことに対して責任と義務を感じ、その感情に少しばかりか誇りを抱いている。もっと言えば、共に走れることをささやかだけれども充実した幸せとも感じている。
走ったおかげで、いつもつんと肌を刺した気温はもうない。暖かい気持ちで歳末を終える。