霊幻新隆は努力至上主義からの救世主である
モブサイコ100、3期完結しましたね。個人的にとても好きなアニメです。強力な超能力を持つモブくんと、無能力だがモブくんの師匠である霊幻さん。二人を中心に、霊とかいろいろ、解決していくストーリーでした。
モブくんは自分の能力に対して悩みを抱えていて、霊幻さんは自分も能力者だと嘘をついてモブくんの師として関わっています。そんな二人の関係性ももちろん、二人が解決していく問題、展開も非常に面白い作品でしたが、このアニメの良さはキャラクターの良さにもあるなと思うわけです。特にモブくん、霊幻さん、えくぼあたりは人気なんじゃないかなと思うのですが、霊幻新隆というキャラクターへの愛を綴りたいなと。
結論から言うと霊幻新隆は努力至上主義からの救世主であるってことなんですが、ちょっとだけ言い換えたいと思います。霊幻新隆は容認系メンターなんです。実は。なんかもっとかっこいい言葉を充ててやりたいのですが私のボキャブラリーではこれが限界でした。容認系メンターと。メンターっていうのは師匠とか、そんな感じの意味の言葉だと思って私は使っているんですが、考え方が尊敬できる、真似したいと思えるような人だと思ってください。学生時代の好きな先生だったりとか、尊敬している先輩だったりとか、YouTuberかもしれませんが、誰でもメンターらしき人はいるのではと思います。物語を見た人はわかると思いますが、モブくんにとって霊幻さんは完全にメンターの位置にいるわけです。主人公のメンターってことは見ている私たちのメンターでもあるんです(?)。まあそういうことにして。
じゃああなたのメンターってどんな人だろうと、思い浮かべてみてください。例えば松岡修造を信じている人。なんか知りませんが、やればできる!!やれやれ!やれ!みたいな感じでしょうか。これ私が名前つけるなら努力系メンターでしょうね。例えばヒカキンなら、真面目系メンターでしょう。別に〇〇系ってカテゴライズしなくたっていいんですがそういう方が話を簡単にできますんで。DJ社長とかだったら効率系とかでしょうか。まあ他の人の話はどうでもいいんです。霊幻さんは容認系メンターであって、それは現代の努力至上主義に必要な存在だって主張をしたいんだった。じゃあ現代は努力至上主義なのかって話で。
努力至上主義ってなんだか古臭い感じもしますが、今でも根の根に残ってますよね。なんか義務教育の段階で気付かぬうちに叩き込まれている気がします。例えばですが「どれくらい学習できたか」の指標として、当然のように机に向かった時間という量を使いますよね。実際どれくらい学習できたかの直接の指標って、どれくらい覚えたかとか、せめて課題をこなした量とかが適切だと思うんですが、なんか間接的な勉強時間というのを用いたがります。これは一番わかりやすい、結果よりも努力が注目される。努力至上主義だってところなんです。他にもやはり、日本特有な文化として、遅刻厳禁、歩合給よりも時間給、ブラック校則みたいなもんがありますがこういうの全部努力至上主義の現れだって言いたいんだと。
みんな実は疲れてるんです。目的のない努力。努力のための努力。見せるための努力。嫌じゃないですかだって。努力が何よりも大事ってことは、それはつまり頑張ってないことは悪だってことになっちゃうんです。だからこそ、努力できない自分を容認してくれる、別に頑張んなくてもいいよって、辛い時は逃げたっていいって、お前はお前のままでいいって言ってくれる人を求めてるんじゃないでしょうか。そんな人がこの現代の救世主になりうるんじゃあないでしょうか。そんなキャラクターが、霊幻新隆なんです。それはアニメを見たらわかるんですと。だからこのアニメは最高なんですと。そんな主張で締めたいと思います。よーっt。
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