件名:家を建てる人へ。
ネコノス合同会社 浅生鴨さま
ダイヤモンド社 今野良介さま
ご連絡がすっかり遅くなってしまい申し訳ございません。
改めまして、先日のイベントでは大変お世話になりました。
かねてより憧れを抱いていたお2人にお会いできたこと、そしてお2人が手がけられた1冊の本を通じて、参加者の皆さまと楽しい時間を過ごせたこと、大変幸せに感じております。
当初は、職場のパソコンから、浅生さんと今野さんそれぞれにお礼のメールをお送りするつもりでおりました。
しかし書いている途中で、このメールはそこそこ長くなってしまうぞと、そうすると多忙なお2人のご迷惑になるぞと、さらには私自身のその他の業務にも支障をきたすぞと、そうなってくるとなにひとつ良いことがないぞと、様々な思考の結果、いっそのことこちらに書かせていただくことにいたしました。
何とぞご無礼をお許しいただき、お時間のあるときにでもご一読いただけますと幸いです。
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さて、早いものでイベントからもう1週間以上が経ちました。
先日私は、改めてあの夜を思い返すため、
函館山の頂上に登ってまいりました。素晴らしい眺めでした。
私にとってイベントの夜は、眼下に広がる美しい函館の夜景のように、様々な彩りと感動に満ちあふれるものでした。
その感動をどうしてもお2人にお伝えさせていただきたく、お礼も兼ねてご連絡差し上げた次第です。
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まず今野さん。
1ヶ月ほど前、私はダメで元々という気持ちで、日頃よりお世話になっている御社の営業担当者さまにお電話いたしました。イベントの開催を打診するためです。
正直なところ、相手にされないのではないかと思っておりました。
トークイベントの開催は、出版社側から打診がある場合がほとんどで、都内での開催ならばともかく、東京からわざわざ津軽海峡を越えて著者の方にお越しいただくのは、とても不躾な感じがしたからです。
しかし後日営業担当者さまから届いたメールには、なんとその方と今野さんとのメールのやりとりが引用され、浅生さんが開催を快諾してくださったこと、当日は「文学フリマ札幌」に出店されるため、イベントはその日の夜が理想であることが書かれておりました。
イベント開催が決まったことも当然嬉しかったのですが、同時に、引用とはいえ本文中に今野さんの打たれたメールがあったことに歓喜したのを覚えております。
営業担当者さまのメールは以下のように続きました。
「今後は編集担当の今野と直接連絡を取り合っていただけますか?その方が早いので」
思えば、仕事が終わって家に帰る途中、必ずと言っていいほど腹痛に襲われるようになったのはその日からです。
極度のプレッシャーかも知れませんし、単に腹が減っていただけかも知れません。あるいはその両方でしょう。
告知を開始して以降、参加整理券がどれだけ減っているか、今日の売上は何冊だったか、確認することにあれほど怯えた日々は今までなかったように思います。
夢の話をしてもよろしいでしょうか。
他人の夢の話ほど聞いていてつまらないものはない、と多くの人が言います。私もそう思います。しかしあえてお話させてください。
今からちょうど1年ほど前、私は、田中泰延さんが書かれた『会って、話すこと。』(ダイヤモンド社刊)についてnoteに書きました。
このとき見た夢の内容を、私は今でも鮮明に覚えております。
私は職場の事務所におりました。その日は田中さんと今野さんによるトークイベントの当日だったのです。
開始時間が迫っているのになかなか姿を現さないお2人をヤキモキしながら待っていると、やがて事務所のドアが勢いよく開け放たれました。
「いや〜、すっかり飲み過ぎちゃった!」
今野さんの肩に手を回し、ベロンベロンに酔っ払って上機嫌な様子の田中さんが言いました。
夢とは自分勝手で、愚かなものですね。こちらはお2人にお会いしたこともない。ましてや足がふらつくほど酔っ払った様子など拝見したこともないのですから。お写真や動画でちょっと拝見しただけのお2人に、私のイメージを重ねてしまったようです。大変失礼いたしました。
さて、私はお2人を急かしながらイベント会場へお連れしました。
なぜかススキノのネオンのような眩い灯りに囲まれた通路を抜け、あるはずのないエスカレーターを昇ると、そこは私の実家でした。
食卓には家族がいて、故郷の同級生たちがいました。職場の同僚もいました。なぜだか分かりませんが、昔お付き合いしていた女性の姿もありました。
1つの食卓を囲んで、みんなが楽しそうに笑っていました。その様子を見つめながら、田中さんと今野さんは、またお酒を召し上がっていました。
とてつもなく混沌としていて騒がしく、良い思い出も、苦い記憶も、何もかもがないまぜになった奇妙な空間で、私はまるで温かい水の中を漂うような、とても心地よい感覚に浸っていたのです。
夢から醒めて約1年が経ちました。
正夢とは言えません。それでも私はようやく、「会って、話すこと」ができました。夢と同じように、1冊の本を通じて人々が集い、同じ空間、同じ風景を共有することができました。
「どうせ最後はみんな死んじゃうんだから、今は少しだけ笑いましょう」と田中さんが仰っていたように、浅生さんや参加者の皆さんと一緒に、そして他でもない今野さんと一緒に、笑うことができたのです。これを幸福と言わずになんと言えば良いのでしょう。
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そして、浅生さん。
失礼ながら私は、つい2、3年ほど前まで浅生鴨さんという人を存じ上げませんでした。
きっかけとなったのは、医学書担当時代に開催した「ヨンデル選書」というフェアです。
ヤンデル先生こと市原真先生のコメントが付いた、100点以上もの書籍が一堂に会する狂気のフェアの中に、浅生さんの著作も数点ありました。
ネコノスという、それまで聞いたことのなかった出版社名に初めて触れたのもこのときでした。
そもそもこの出版社の本をどうやって仕入れるのかさえ曖昧ななか、日に日に平積みが減っていくことに驚いた記憶がございます。
まさかその当時、創業者であり所属作家でもある浅生さんと、このようにお会いできる日が来るとは思ってもおりませんでした。
『ぼくらは嘘でつながっている。』
この本が刊行されることを知ったとき、私の頭に思い浮かんだのは、
「建前」
というワードでした。
ちょうど『だから僕は、ググらない。』(大和出版刊)を読んでいたからか、無意識のうちに似たような意味を持つ言葉として連想したのかも知れません。
10月2日のあのイベントは、「建前」で企画したものだったように思います。
従来の常識にとらわれない本づくりに日々挑戦されている浅生さんに、私はただただお会いしてみたかったのです。
それはきっと私だけではなく、北海道という広大な地にまだまだたくさんいるだろうとさえ思いました。
本の刊行という、出版社や著者にとって大切な機会を格好の「建前」として、私は自身のエゴを店の一大イベントとして打ち出してしまったのです。
しかし一方で、『ぼくらは嘘でつながっている。』と、そこに寄せられる数々のレビュー、そして当店でのイベントにご参加くださった皆さまから、とても大切なことを教わりました。
「建前」という言葉にはもう一つの意味があります。
ご存知のように、基礎の上に柱や梁などの骨組みを立てる際に行われるお祝い行事のことです。
地域によるかも知れませんが、私の地元では、大工さんたちが骨組みの2階部分から下に向かって餅をまくのが習わしでした。
子どものころ、私はこの「建前」が大好きでした。
同じ集落の家々が道路の拡張工事に伴って新築されるたび、祖父や祖母と一緒に餅を拾いに出かけたものです。
近所の人たちや学校の友人たちまで、大勢が集まるお祭りのような賑やかさが嬉しくて、早く自分の家の番が来ないかとウズウズしていたくらいです。
私は、本づくりに直接関わったことはございません。
ですが、本をつくることは家を建てることに似ていると、教えていただいたように思います。
たとえ骨組みは一緒だとしても、読む人の知識や、経験や、記憶や、想像力が、中身をまったく別のものに変えてしまいます。その瞬間に、ようやく本は完成するのでしょう。
いえ、完成形などそもそも存在しないのかも知れません。家だって住んでいる人が同じでも、歳月により中身が様変わりしてしまうことがあるのですから。その人だけの家に他人がどうこう意見したところで、きっとなんの意味もありません。
私は今、自分のエゴを正当化しようとしております。
傲慢であることを承知のうえで申し上げれば、私は出版の末席に連なる人間の1人として、骨組みの家の上から餅をまく人でありたいと望みます。
それが著者イベントなのか、そもそもどんな形がベストなのかは分かりません。
そこに住む人がやがて、自分だけがもつ真実にたどり着くこと。そして、各々がもつ真実を持ち寄って食卓を囲み、笑い合えること。そんな混沌として騒がしい景色を想像しながら、これからも新たに建てられていく多くの家の誕生を祝して餅をまきたいと、私はあの夜を経て、確かに思えたのです。これを幸福と言わずになんと言えば良いのでしょう。
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長くなってしまい申し訳ございません。これで終わりにいたします。
イベントのあと今野さんがくださったDMの最後に、このような一文がありました。
“本”とは、この世にあるすべての出版物、そして“わたしども”とは、本づくりに携わるすべての人たち。私はそのように受け止めました。
この「メール」が、返信になっていれば幸いです。
北海道へお越しの際は、ぜひまたお立ち寄りください。
私もいつか必ず、東京でのイベントに伺わせていただきます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
工藤志昇拝