見出し画像

ほんとのはなし

「いやいや、ほんとのはなしよ」
それがその人 、、、の口癖だった。

朝7時にウニ漁の終わりを告げる放送がかかると、沼浦の浜にも次々と操業を終えた磯船が帰ってくる。
陸で雑談していた家族や出面さんは、目当ての船が見えると斜路を下り、ワイヤーの先に付いた鈎を船首のロープに引っ掛けて機械で巻き取る。
船を引き上げつつ獲れ高をつぶさに確認して、
「あれ、ずんぶ獲ってきたっけさ(随分獲ってきたね)」
「なんもよ(全然だ)」
などと会話を交わしながら、大小様々なそれらをスコップで掬って大きな青かごに投げ入れていく。

父のその日の収穫量はまずまずに見えたが、彼は空白になった隣の船置き場を一瞥して、
「ダメだ、なんも張り合い無くなってまった」
と寂しそうにつぶやいた。
軽トラに積み込まれた青かごが、各々の家の浜小屋へと運ばれていく。
いつもはその後を追うように、背筋をピンと伸ばして悠々と自転車を漕ぐその人 、、、の後ろ姿は、どこにも見当たらなかった。

「漁師は酒飲みで意地っ張り」というステレオタイプなイメージを持つ人は多いと思うが、具体的には誰を思い浮かべるだろうか。
私にとっては、祖父でも父でも次兄でもなく、大叔父がピッタリと当てはまる。

父方の祖父の弟、父にとって叔父にあたるその人は、かつては一度飲み始めると家中の酒瓶が無くなるまでとことん飲み続け、酔うと暴れて手が付けられなくなるような男だった。
20年ほど前の正月には、大叔父の家で催された親戚の集まりで、当時20歳そこそこの私の次兄が調子に乗って彼に喧嘩をふっかけ、家内の全員が止めに入るほどの大騒ぎになった。
はっきりと覚えてはいないが、泥酔した次兄が、
「俺が漁師やればよ、オジサンより獲れるべな」
と食ってかかったのが逆鱗に触れたのではなかったろうか。
当然のように強制的にお開きとなった宴会からの帰路、次兄は車の中で号泣し、父は運転しながら、
「お前が楯突いていい相手でねぇんだ、ほんずなし(馬鹿たれ)!」
と聞いたことがないほどの大声で叱りつけた。

素面のときの大叔父は、酔った時とは別人のように気さくでよく笑う人だった。
祖父には申し訳ないが、太平洋戦争で文字通り数々の死線をくぐり抜けて帰ってきた、何よりも曲がったことが大嫌いだった彼よりも、15歳ほど年下である大叔父の与太話を聞いている方がよほど楽しかった。
盆や正月に家へ遊びに行くと、彼はよく自身の幼い頃の話をしてくれた。
「小学生の時よ、朝学校さ歩いていくべよ。したら向こう側から、反対にある学校の先生が歩いて通勤してくるのよ。すれ違うときに、『おーい、今日あっちの学校休みになったど』って嘘言うわけさ。せば、『あら、ほんだのか(そうなのか)』って言って慌てて引き返すんだ。それば見て笑ってらんだけども、次の日の朝にまたその先生に会うべよ。しっとく(ものすごく)怒られてまってな、ヒヒヒ」
と、まるで当時に戻ったように悪戯な笑みを浮かべた。

大叔父が悪ガキの小学生だった頃の日本は戦争の真っ只中であり、利尻のような田舎にも物資の調達が命じられた。
授業らしい授業は無いに等しく、家に帰るとすぐに畑仕事を手伝わされ、収穫物は戦地に送るため他の物資とともに馬やリヤカーで学校へ運んだ。
「あの頃金があってまともに勉強してればよ、オラも町会議員ぐらいにはなってらんでねぇか?いやいや、ほんとのはなしよ」
そう言ってまた人懐っこく笑う。

中学を卒業してすぐ海の男になった彼は、稚内や羅臼まで出稼ぎに行っては漁船に乗って漁を手伝い、晩には豪快に酒を飲んで仲間の漁師たちを驚かせたという。
「あちこち行く度によ、現地のやつらに『沼浦の工藤ここにあり』っていう証を残して島さ帰ってきたもんだで」

飲んだ酒の量に比例するかのように、獲ってくるウニの量もえげつなかった。
子どもの頃、よく沼浦の浜にも父のウニ割りを手伝いに行ったが、父の船に乗っているウニの量を見て、(今日は一番だ)と確信しても、後から帰ってきた大叔父の船の中をチラリと見て愕然とする。
「なんぼ獲ってきてもよ、隣がこれだらやってられねぇじゃ」
笑いながら頭を抱える父をよく見てきた。

父を含め周囲の人たちから話を聞いていると、大叔父を、誰もが目標にするような大漁師たらしめていたのは、劣等感と、それに打ち克つための意地だけだったのだと思えてくる。
金のない家に生まれ、生きていくことさえ困難な時代にまともな教育を受けられなかった彼は、幼い頃から常に貧しさと闘ってきた。
結婚してからもしばらくは兄夫婦の家の2階に間借りをし、金が無いときには兄から援助を受けながら、数々の引け目の中で誰にも負けない己の技術のみを必死で磨き続けた。
自分の存在意義を示せる場は、海の上にしかなかったのである。
その姿を間近で見て育った私の父が、当時まだ漁師ではなかった次兄を怒鳴りつけた理由も、おそらくそこにあるのだろう。

2024年の初夏に、大叔父は88歳でこの世を去った。
ウニ漁の操業中、突発的な高波にあおられて転覆した船から海に投げ出され、そのまま帰らぬ人となった。
「もうみんなね、『海で死ねたんだから本望だったべさ』って言ってるわ」
事故の数時間後に知らせてきた母は、電話口でそう話した。
電話を切り少しの間を置いて、言いようのない寂しさがこみ上げてきた。

残された者たちは、悲しみを紛らわすように大切な人の死を美化する。
もっともらしい理由を共有して、衝撃と動揺に皆で蓋をする。
訃報を聞いた直後からそんな風に冷静に考えている自分の軽薄さに苛立ちつつ、それでも私はあえて逆張りする。
無念だったと思う。
なんとしてでも助かりたかったと思う。
あと10年、あと1年、いや、せめて今日の漁が終わるまでのあと30分でいいから、大叔父はウニを獲り続けたかっただろうと思う。
そして陸に上がり、示したかったと思う。
「どうよ、これが沼浦の工藤だ」
と。

自身の船を捨てて荒れた海に飛び込み、溺れている大叔父を陸まで引き上げ最期まで心肺蘇生を試みたのは、元消防士である次兄の同級生だった。
骨上げ法要後の会食中に、彼が教えてくれた。
「海の中から体引っ張り上げたっけよ、オジサン、タモば離さないでがっちり握ってたんだ。もちろん、もう意識はないんだで? でな、網の中見たらさ、ウニが4つ、入ってたんだ」

〈志昇よ、おめぇ大学出てるから聞いてみるどもよ。三途の川渡るったら普通はぜんこ払うのが筋だわな、おうよ、それぐらいオラでも分かる。したけどオラはよ、ぜんこの代わりにウニば配ってやろうと考えてるわけさ。そんな人間聞いたことねぇべよ。せばよ、どんだべ?歴史の本っこさ載るんでねえか?教えてけれ志昇。ヒヒヒ。いやいや、ほんとのはなしよ〉

今朝もウニ漁の旗が上がる。
男たちは眠い目をこすり、たらふく飲んだ昨夜の酒が残っている重い体にカッパと救命胴衣を纏って浜に向かう。
ぞろぞろと集まってきた仲間たちと軽く挨拶を交わしながら、斜路を下ってゆっくり海に漕ぎ出していく。
舳先の示す方角には、風と波の具合からあらかじめ目星をつけていた各々の漁場がある。
船外機のエンジンが所々で大音量を発する。
そして、偉大な先人たちの後ろ姿を追うように、数多の磯船が今朝も全速力ほすぺで波の上を駆けていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?