一人に耐えられないかもしれない_240503

いつも忙しくしている。予定がある。会わなければいけない人がいる。
2024年のGW、なんと一人で何の予定もない日が四日間もある。
風邪とかひいてなくて、何の予定もないというのが三日以上続くというのはめちゃくちゃに久しぶりで、受験生時代を除けば(勉強があるのでね)高2の夏休みぶりとかだろうか。正直記憶にない。ちなみに記憶力もない。

高校生〜大学生時代に鬱の症状があり、とにかくひたすら死にたかったのだが、社会人になった途端に治った。(軽度だったのだろうと言えばそれまでだけども、かなり鬱と向き合う覚悟を決めていたので拍子抜けしたし、これ気質の問題じゃなくて治るんだ、、という衝撃のイベントだった)
鬱であろう時代も、いろいろあって積極的に死ぬことについては諦めることにしていたのだが、けど流石に耐えられなくなっていつかは死んじゃうんだろうなという予想がずっとあった。そんなわけで、「ワンチャン放っておけば100歳くらいまで生きちゃうかもしれない状況」(積極的に死ぬことがあんまり想像できない状況)に、25年目にしてようやく向き合うことになった。

鬱が治るきっかけになったのは、あきらかに社会人生活が始まったことだった。
サルトル先生がどのような文脈で人生を自由の刑と言ったのか、お恥ずかしながら知らないのだが、社会人生活はわかりやすく役割のようなものを与えられるし、何も考えず仕事という一つのジャンルにリソースを割いていればなんとなく評価される(外にも自分にも)。ありがたい減刑制度だなと思う。
もちろん本当は、とくに今後は、ワークライフバランスでいえばライフの方にも精を出してようやく一人前とみなされる社会になっていくんだろうし、会社の寿命は10年みたいな噂も聞いた。
ワークについても運要素や選択肢がつきまとい、自由っぽいものから逃げることはできない。けど本当は逃げたいのだ。

自分はいままで、インドアなのになぜか毎日忙しくてやだなと思っていたのだが、いざ暇を与えられてみると一人はさびしいような気がしてしまう。今は耐えられるのに、来てもいない未来のことを思って、絶対にいつかこの生活に飽きてしまうなと泣きそうになっている。

結婚できる望みは薄く、できたところで幸せな家庭を維持できるイメージがまったく無い。子供を持つことに至っては絶望的なので(希死念慮は遺伝する部分もあると思ってるため)、今かろうじて耐えられている自由がずっと付きまとう。スキルを磨いていくのはゲームみたいで面白いし、手軽に周りに褒めてもらえるから社会生活をやっているが、いつか褒める側の順番になったら当たり前だが誰にも褒められないだろう。
趣味を聞かれたら2番めくらいに挙げるゲームだって、1タイトルに5年以上ハマっていた経験はない。本当にやりたいことなんてあまりないので、自分のやりたいようにやれるということは怖い。飽きがすぐそこにいる。

当たり前だが結論のない記事だ。一人に向き合おうとして、最も簡単に孤独から気を紛らわせるスマホの電源を切って、スマホ依存と忙殺依存の禁断症状のようなものから逃げるためにnoteを書いてみた。
最初は日記として紙に書いてみたが、自分の中で完結してしまうコンテンツと向き合っていても気が紛れなかった。

すべてが使い回しのような表現で見返したらきっと不快になってしまうが、そんなことよりも、人がいる可能性に向かってなにか発信していないとおかしくなってしまいそう。早く治したい。やっと眠くなってきて嬉しいので、明日は太陽でも浴びようかと思う。


翌朝追記

たった四日間暇なだけでこんなものを書いてしまうなんて、大人として恥ずかしすぎる。恥ずかしいよ〜〜
しかし読んでくれる人がいて嬉しいので消さない。ありがとうございました。(内容についてはおおむね同意できるが、暇な四日間の1日目に書いちゃった点が小っ恥ずかしくなっている)

ふだん一人前の顔をして生きているけど、昨晩のような気持ちになってしまう雑魚であることを忘れずに生きていきたい。
たくさん寝て太陽を浴びれば、おぞましい長さの未来があるかもしれない可能性と向き合わないことができるし、実際相当な運がなければそんな未来はこないぞという気分になる。
ハートをくれた誰か、読んでくれてありがとうございます。


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